第37話 売り言葉に買い言葉です
パキンという小さな音と、胸元に微かな痛みを感じて目を開ける。
予想していた痛みより遥かにささやかなそれは、お兄様がくれたネックレスの黄水晶が割れた音と衝撃だった。
助かった……?
いえ、まだ危機は続いているんだ。
喉元への攻撃が全く効かなかったことに驚いて、後方に飛びのいた狼は、状況を理解しようと距離を保ったままこちらを見てる。
周囲の狼たちは一歩近づいたような気配があり、次に飛び掛かってくる個体があれば、私はそこで終わりだ。
状況は何一つ変わってない。依然ピンチのままだ。
ああ、精霊を呼ばなくては。
そう思うのに、もう恐怖で足が竦む。声が出ない。さっき声を上げた結果、飛び掛かられたのだ。
その事実は私を震えさせるだけで、もう一度を選択できない。
もう駄目……!
私が短い人生を諦めかけたその時、背後から「キャヒィイイン」という犬とも狼とも判断のつかない悲鳴が聞こえ、同時に私は優しい温もりに包まれた。
「狼に喧嘩を売るなんて、どこまでお転婆なんだ」
怒気を含む声と共に、左腕で私の腰をとって抱き寄せたレイモンドは、右手に持った杖でカツンと地を鳴らす。
それを合図にしたように、ゲノーマスがどこからかスッと現れて「グル……」と一声唸った。
同じ狼とは思えないほどに、体格もオーラも違った。
ゲノーマスが出て来た時点で勝敗が決したと思ってしまうほどに。
狼の群れの気配がなくなると、ゲノーマスは「みんな心配しているから」と報告のために先に戻って行った。
残されたレイと私は、やっぱり気まずくて。いつもよりもさらに30センチくらい離れて、ゆっくり歩く。
お兄様が来た日の帰り道みたいに、ただただつま先を眺めながら。
声が怒っていたし、今もレイの纏う空気は張り詰めている。
私は、彼がこうやって怒っているのを見るのが初めてで、どうしていいかわからない。
「あの、レイ……」
少し先にロッジの明かりが見えてきて、私はやっと口を開いた。せめてお礼を。そう思って。
「君に島の生活なんて無理だ。帰る家があるなら、ここにいるべきじゃない。これでわかったろう」
前を向いたまま呟くレイ。
全くこちらを見ようともしなくて、それはなんだか、本心じゃないと言っているようでもあるし、逆にあまりにも呆れ果てているようでもある。
でも、本音はどうあれ、そんな言い方……。
「無理なんかじゃない。精霊たちがいてくれるもの。それにこの島は私のものだわ!」
足を止めて漏れた言葉は、ただの反抗心だった。
ああ、喧嘩したいわけじゃないのに。
「エストの加護がなきゃ精霊の声も聞けないのにか? 人間の法に精霊は縛られない。観光に来るのは自由だが、君の生きる場所はここじゃない」
「そんなの……そんなの私が一番わかってる!」
振り返るレイから放たれた言葉は拒絶だった。歴代の巫覡たちと精霊が紡いできた世界は、人間の社会とは違う。
普通の人間なら精霊を目視することだってできないし、故にただの人間がこの島で生きることはできない。
それでも、助けて欲しいと精霊たちは言ったのだ。
「でも、キャロモンテの民に語り掛けることができるのは私でしょ!」
「僕にだってやれるさ、教え広めながら旅にだって出られる」
「人間社会の常識を知らないのに」
どちらも売り言葉に買い言葉になってるだけだって、わかっているのに。
本当に伝えたい言葉だけが出て来ない。
すらすらと口から零れ落ちてくる攻撃的な言葉は一体なんなの?
「その通りだね。だが、僕はいざとなれば自分の身くらい守れるさ。君は……綺麗なドレスを着て、洗練された空間で、愛する人と共に笑っているべきだ」
「なっ──」
反論は、できない。
たったいま、自分で自分の身を守り切れなかったところだもの。
お兄様のネックレスがなければ、今ごろ私の体はあの狼たちのお腹の中にあるかもしれない。
言葉を失った私を置いて、レイがまた背を向ける。
どうしよう、このままじゃ、このまま家に帰ったら、私はここに戻って来られないのではないかしら。
必要とされていないとわかっていながら、また訪れる勇気なんて、出てこないよ。
「待って」
思わずレイの左腕を掴んで引き留めてしまう。
相変わらず、説得できるような言葉なんて持っていないのに。
顔だけで振り向いたレイと、何も言えずに俯く私との間に冷たくなった風が通り抜ける。
両手で持った彼の左腕は、もう随分と太くたくましくなっていた。どれだけ気合を入れて鍛えたのだろう。
その腕に巻かれたミサンガが、気持ち窮屈そうにすら見える。
黒、赤、緑、青。4色の糸が複雑に絡み合って独特の模様を描くその組紐は、いつだったか前世の私が小さな男の子と一緒に編んだものによく似ていた。
黒には、強い意志を。赤にはスポーツを、緑には友情を、そして青が学問を。
複雑な家庭環境で、新たな部活で、真っ直ぐ前を向く高校生に少しでも幸運が舞い降りるようにと願ったのだ。
私が編んだものよりも細く、それに雑な作りに見えるのは糸が粗悪だからだろうか。
100年以上も眠り続けた少年が身に着けているものなのだから、それもそうだろう。
思わずミサンガに指を滑らせると、レイは勢いよく私の手から左腕を抜き取って、ミサンガを覆うように右手で左手首を握った。
「ま、まだ何か?」
「それ……」
「君は知らなくていいことだよ」
レイが一言発するごとに、私たちの距離が大きくなっていくように感じる。
今度こそ、私を置いて足早にロッジへと歩を進めるレイへ、私は「絶対、戻ってくるから」と呟くことしかできなかった。
私思うんですけど、たぶんイフ怒ってますよねぇ。
ピンチのときに呼んでもらえなかったイフちゃんは泣いていい。
たぶん狼に猫が敵う気がしなかったんだと思うんですよ、たぶん。
次回はそんなイフちゃんのお話です。




