第36話 すれ違いです
ロッジの自室に戻ると、鞄が荒らされたような形跡があるのに気づく。
始まりの日に洞窟に置き去りにしていた鞄は、私が意識を失っているうちにゲノーマスが持ってきてくれた。
夜になればイフが勝手に明かりを灯してくれるこのロッジで、持参した魔法石はほとんど出番がない。
お風呂上りに髪の毛を乾かすとき、風立石を使ってはいたけど、それも今はシルファムがやってくれる。
日用品を取り出して以来、ほとんど見向きもしなくなっていた鞄がどうして……。
「旗をな、ピスキーに持たせた」
背後からよく響く澄んだ声が聞こえた。エストだ。いつまでも変声期を迎えない、若く張りのある声。
「あら、どこに?」
「どこじゃろうな。持ち主に返してやらんとなと言ったら、どこかへ持っていったわ」
わははと笑いながら手近な椅子に飛び乗ると、纏った布の裾からしなやかな足が覗く。
宣戦布告代わりにボナート公爵に叩きつけてやろうと拾った旗は、刑期を終えるまで出番はないと思っていたけれど。
エストがどうにかしたというなら、きっと悪いようにはなっていないでしょう。
「ところでリアよ、いつ発つつもりじゃ? それまでは何を?」
エストに報告するからと、ゲノーマスとウティーネが先に戻っていたので、一連のあらましは知っているのだろう。
浜辺からの帰り道、レイと私は気まずい沈黙のまま、機械的に繰り出される左右のつま先を見つめていた。
この島の正式な巫覡であるレイは、私に帰れと言ったんだ。ここに居場所はない、戻って来る必要もないと。
その言葉を反芻するうちに、レイがそう言うなら、私がここでしようとしていることは、大きなお世話なのではと考えるようになった。
さっき、みんなで神殿の建設について話していたのも、私が「建てたいと願った」から仕方なく、なのかもしれない。
「思ったよりもずっと早くコトが進んだから、帰る前に見ておきたい場所や、調べたいことがあるの。兄には3日と伝えたわ」
「そうか、では精霊も好きなように使え。……お主も付き添うじゃろう、レイ?」
エストの視線の先、半開きの扉の陰から、フードの一部とローブの裾が揺れるのが見えた。
いつからそこにいたのか、レイはそっと扉を押し開くと、俯いたまま唸るように呟く。
「観光なら好きにするといい。僕は……悪いが付き合えない」
「……レイ?」
私が声を掛けると、レイは踵を返して去って行ってしまった。
一体どうしたと言うのだろう。
思わず漏らした溜息に、エストが苦笑する。
「痴話喧嘩か?」
「冗談はよして。彼はなにを考えてるの?」
「儂ゃ知らん」
ふふんと楽し気に鼻を鳴らして、少年は部屋を出て行った。
3日が過ぎるのなんて、あっという間だと実感した。
明日のお昼頃にはお兄様が迎えにくる手筈になっている。
結局、レイは私を避けるように毎日朝になるとどこかへ姿をくらまして、全く顔を合わせないまま時間だけが過ぎていた。
2日間、精力的に動き回ったせいで体中が筋肉痛なのだけど、ロッジに戻る前に北の岬へ立ち寄ることにした。立ち寄ると言うには随分大回りだけど。
出発前に、綺麗なお花畑を見ておきたかったし、ひとりで考えたいとも思った。散歩と呼ぶには距離があるものの、今の私にはそれもありがたい。
昨日と今日、私は精霊たちを引き連れて、行ったことのなかった南の平地や、神殿の建設候補地を見て回っていた。
それに港になるかもしれない東の浜辺を加えた、要所を結ぶ道なき道の確認も。
建設を急ぐなら、携わる人数も増えるだろうし、食と住は確保しなくてはいけない。
それに、衛生面にももっと気を遣わないと。
いまは私とレイしかトイレを必要としていないから、恥を忍んで木陰で済ませている。
ほんとに、誰にも言いたくないけれど。
でも、たくさんの人がここで生活を始めて、みんなが適当に排泄するとしたら。そんなの考えるだけでおぞましい。
山が自然に水をろ過する工程を模した装置の構築をゲノーマスに、生活排水がその工程を通って川に合流するという、一連の水路の構築をウティーネに頼んでおく。
寝所や食堂の建築、拠点と拠点を結ぶ道の整備なども。
ただどちらも、着手は待ってもらっている。
この島にとって、私がやろうとしていることは本当に必要なんだろうか。そんな根本的な部分で、私はいまいち決断ができずにいるから。
岬の先端から、ただ見るともなしに眺める王城は、記憶にあるそれよりもほんの少し小さい。
あの城から見るキャロモンテの国は、民の姿は、どんなに美しいだろう、ってずっと思っていた。
でも、この岬から見るほうが、きっとずっと綺麗だ。
刑期を終えたら、家に帰って、冤罪を明らかにして、神殿を建てて、そして……。
島の布教をしながら、日常に戻るんだと思ってた。
レイが……巫覡がちゃんといるから、民に信仰が戻れば、私はきっと巫女である必要もなくなると。
フィルとの婚約が破棄されたのも、冤罪さえ実証できれば大きな瑕疵にはならないだろうし、適当な婚約者をお父様が見繕ってくれるはず。
そうして、どこかの誰かの家を守りながら生きるんだと、そう思ってた。でも。
「あ。大変。もう暗くなってきてる」
脳裏に浮かんだ、ローブを纏う誰かの姿を振り払うように、独り言を口にした。
誰もいないのに、胡麻化すみたいに。
見上げれば少しずつ空が紫色になって、高い高い位置にはうっすらと星が煌めくのすら確認ができる。
ちょっと物思いに耽りすぎたようだ。早く戻らなくては心配させてしまう。
暗闇に光る目。
空が薄暗くなるなら、森の中は真っ暗だとどうして忘れていたんだろう。レイや精霊にいつも守られていて、警戒することすら忘れてしまってた。
帰路を急いで獣の痕跡や気配にすら気を配らないだなんて。
けれども、後悔というのはいつだって先には立たない。
狼だ。
こちらの様子を伺う目は、いくつもあった。群れで囲んでいる。
誰か呼ばなくては。
わかってる。
だけど、声を出すより先に喉に食らいつくのではないかしら。
些細な隙を見逃さないはずだ。
心で呼べばいいのではないかしら。でも頭の中はぐちゃぐちゃで誰かを呼ぶことに集中できない。やったことないし。
正面の双眸は、すぐ近くにまでにじり寄って来ている。
じりじりと後ずさるけれど、後ろにもいるかもしれない。確認ができない。
誰か……。誰か。
「レイ! 助け──ッ!」
私が声をあげるのと同時に、やはり目の前の双眸は太くたくましい前脚で土を蹴る。
一瞬だ。
彼が動いたと見るや、目の前に迫る鋭い目と牙。思わず目を閉じると、生暖かい息を首元に感じ……。
夜の山歩きは危険ですね!
いきなり喉に食らいついてくる一撃必殺系狼カッコイイ