第35話 判断ミスです
「アニー?」
周囲にきょろきょろと視線を巡らせる私に、お兄様が訝しげな声をあげる。
私の背中に触れる手にも力が込められたのがわかった。
「ごめんなさい、お兄様。1週間……いえ、5日、3日でもいい、少し待っていただきたいのです」
「待つって……」
お兄様が困惑して呟くのと、森のほうでガサリと不審な音がするのは、ほぼ同時だった。
けれど、私が振り返ってその音の主を確かめるよりも、お兄様が駆け出すほうがずっとずっと早い。
元々、武を誇ったバウド家では今も、そしてきっとこれからも、男子には騎士教育が行われる。
お兄様は根っからの文官タイプで、もしも騎士にしか生きる道がなかったならば相当苦労しただろうけれど。
幼い頃からの英才教育は、お兄様がそのへんの一般人に後れを取ることを許さない。
音の主が私の想像するその人であったなら、そしてその人が精霊の力を行使しないならば、お兄様から逃れることはできないだろう。
私はお兄様の後を追うように走り出した。精霊たちもまた、それに続く。
「おい!」
ほどなくして、お兄様が誰かに呼び掛ける声と、次いで土を踏みしめる音、枝が折れる音が聞こえた。
それらを追いかけるように、カラリと棒状のものが転がる音。杖だろうか。私はさらに足を速める。
「貴様、何者だ!」
なんとか追いついた私の目に飛び込んできたのは、レイのフードに手を伸ばすお兄様と、その手をどうにか払いながら、もう片方の手でフードを抑えるレイの姿だ。
それは無理に剥いでいいものじゃないのに!
私は走って来た勢いそのままに、フードへ伸ばされたお兄様の手にしがみつき、そのままレイとお兄様の間に立つ。
「やめてください、お兄様」
「アニー」
突然の妹の乱入に、全く状況が理解できないらしいお兄様は、薄いミルクティー色をした瞳を大きく広げた。
白茶色の瞳は、ピッポ伯がいつも「何を考えているかわからないんだよね」と怖がるのだけど、私にはこれ以上ないほど感情豊かに見える。
そう。私から見ると、今お兄様は少し怒っている。
「知ってる奴か? 何者だ?」
お兄様は、手をおろして乱れた衣服と髪の毛を簡単に整えながら、真っ直ぐレイを見る。
その目、足さばき、そして腰の位置は、全く油断していない。きっとレイが何か不穏な動きをすれば、私の制止なんてものともしないだろう。
「彼は、レイモンド・チェルレーティと言う方です」
きっと、わかってくれるはずだ。お兄様なら、少なくとも話を聞いてくれるはず。
そう半ば祈るように、震える声でレイの名を告げる。レイもまた、落とした杖を拾うことなく、目の前の色めき立った男の動向を注視しているようだ。
「それは酷い冗談だ──」
「いいえ、お兄様」
長い沈黙だった。実際はほんの数秒のことかもしれないけれど。
随分久しぶりに再会したお兄様と私は、お互いの目を見ながら、このひと月の間に人間性が変わってしまっていないことを確かめ合った。
「わかった、わかったよアニー。信じよう、彼はチェルレーティの末裔なんだね?」
「……最後のひとりには違いありません」
小さく溜息を吐いたお兄様は、体の緊張を解いて、レイに無礼を謝罪した。
レイもまた小さく頷くと、漸く取り落とした杖を拾う。
「家に帰って説明してくれるかい」
「すぐには帰れません。せめて数日は……」
「帰ったほうがいい、リア。それに、戻ってくる必要もない」
私の言葉を遮って、背後から優しくもキッパリと言い放ったのは、もちろんレイだ。
戻ってくる必要がない……?
精霊たちもまた、レイの言葉に驚いたのか、それぞれにレイを凝視している。
「どうして、レイ?」
振り返ると、そっぽを向いたレイのフードが風に揺れていた。
立派なローブ、豪奢な杖、誰が見てもお伽噺に出てくる力ある魔導師様なのに、その姿はなんだかとても小さい。
「この島に君の居場所はない。君は、ここにいていい人じゃない」
「それは聞き捨てならんな」
レイが帰れという横で、お兄様が言葉を挟む。思わず見上げたその白茶色の瞳に浮かぶ怒りは、さっきの比ではない。
さっきは警戒と驚きが混じった、またはそれが原因の小さな怒りだったけれど、これは「妹が侮辱された」ことへの怒りだろう。
極めて冷たい怒りだ。私に何かがあると大体こう……妹思いなお兄様だと思う。
「この島は、アナトーリアの私有地であると王国も認めた。ここに滞在する権利は彼女こそが有している。得体の知れない君と違って」
「そもそもこの島は王国のものですらなかった」
「だが今はアニーのものだ」
家に連れ帰りたいお兄様と、家に帰らせたいレイ。目的は一致しているし、手を取り合えば私を黙らせることもできたかもしれないのに。
コホンと小さく咳ばらいをして、迷走している二人の意識をこちらに向ける。
「レイ、ここは書類の上では私のものになったわ。それとも私を精霊魔法で追い出す?」
杖を指さすと、レイはてっぺんのクリスタルを見つめながら口ごもった。
何が何でも追い出そうと思っているわけではないようで、一先ず安心する。
「お兄様。全く、お兄様の仰る通りです。つまり私には、島を管理する義務もありますの」
いや、でも、しかし、と口をパクパクさせながら説得を試みようとしたお兄様は、やがて大きな大きな溜息とともに頭を抱えてしゃがみ込んだ。
こうなったら、それこそ力づくでないと動かない妹だ、と思い出してくれたようで、お父様への言い訳を考えていると見える。
「アニー、理由を聞くのに何分かかる?」
「分じゃ済まないでしょうね」
ゆっくりと立ち上がったお兄様は、今にも泣きそうな顔で私を見つめ、そのうち諦めたように首から黄色く輝くネックレスを外した。
守り石。
細いチェーンの先にぶら下がっているのは、いくつも光を反射するよう表面を美しくカットされた宝石だ。
しかし宝石の台座部分には魔法石が埋め込まれていて、これを身に着けた者に結界を張り、物理的な脅威から守る。
一番人気の黄水晶は、地の魔法石を使っていることが多い。土の壁は最も防御に優れているのだ。
しかしあまりにも高額で、値段の割に融通が利かない。
まず、脅威から守るたびに結界が擦り減る使い切りのお守りである。
そのくせ、タンスの角に小指をぶつけるような、些細な脅威からも守ってくれるというのだから、コストパフォーマンスの悪さと言ったら。
ずっと身に着けていると、ある日突然ドアに指を挟む痛みに悶えて、効果が消滅したことを思い出す、といった具合だ。
結果的に、王族や一部の貴族しか持たないし、身に着けるのはよほどの時だけ、となる。
「まだ新調したばかりだ、数日なら十分に効果を発揮するだろう」
ひと月前は、これを渡すことも許されなかった。そう呟きながら、お兄様が私の首にかけてくれた黄水晶は、傷一つなく、きらきらと輝いている。
お兄ちゃん、顔は普通だけどめちゃかっこいいんです。
仕事できるしそこそこ動けるし公爵さんちの息子さんだし、なんで結婚できないのかなー




