第32話 精霊の恋バナです
話し終えたゲノーマスは、重ねた両手の上に顎を乗せて「フスー」と小さく息を吐いた。
かいつまんだ内容ではあったけれど、そのゲノーマスの思いの強さや切なさは痛いほど伝わってくる。
ゲノーマスの想い人は、レイモンドのひとつ前の巫女。
よく笑う人で、笑うと左の頬にだけできるえくぼが、ゲノーマスは大好きだった。
祈る姿は風のない夜の大樹のようだった、と彼は言う。
北の岬の花畑は彼女とゲノーマスが作ったものらしい。
いつか巫女が国に戻って離れ離れになっても、この岬から、この岬に、お互いを探せたらきっと素敵だね、と話しながら。
ゲノーマスは彼女を愛し慈しみ、彼女もまた、ゲノーマスを愛したけれど、その想いを叶えようとはしなかった。
残して来た家族、両親や兄妹とまた暮らしたい。ヒトとして生を全うしたい。
彼女はそれらの気持ちを捨てることができなかったのだと言う。
ゲノーマスもまた、自分と共に長く長く生きてほしいとは思わなかった。
あのとびきりの笑顔で、幸せな人生を終えてくれればそれでいい。
そう思っていたのに。
レイモンドが眠りについてからしばらくして、彼女の最期の願いを感知した。
「どうか、いつも笑顔でいてほしい」と。
北の岬に行って吠えた。吠えて吠えて、そして笑った。
戦火に燃える彼女の国を見ながら、泣いて笑った。
それがゲノーマスの少し悲しくてとても幸せな恋愛話、なんだそう。
「幸せって……いい思い出にできたということ??」
『思い出と言ウカ……彼女はマダ、ワタシの心に生きてマス。100年なンテ、精霊にとってハ、ね』
100年がいかに一瞬だと笑っても、彼女と過ごした時間よりも、彼女がいなくなってからの時間のほうがもうずっと長いのだ。
私はそんな時間を耐えられるんだろうか。
きっと笑えないまま、心を黒く染めてしまう。
「ブールの民を憎いと思わないの? カルディアの民を守ったりは?」
『信仰を持たナイ民を寂しいト思うコトはありマス。でも人同士の争いには介入しナイ。争いハ、どちらモ善デどちらモ悪でショ』
「巫女は……」
『彼女はモウ、巫女の役目を終えマシタ。人とシテ生きたいト願った、魔力の強い一人ノ人間』
瞼を閉じたゲノーマスの表情に、うっすらと苦悩が見えた。
ああ、私としたことが。守れるものなら守ったに違いないのに。
とろりと粘性を持って落ちてきた沈黙は、一帯を完全な静寂にしてしまったみたいに思えた。
小さな魚が湖の水面を跳ねる音がとても大きく響いて、私の意識を引っ張り上げる。
それでも、上手な言葉は出てこないまま、何か言わなくちゃと焦るばかりで……。
「ごめんなさい、踏み込みすぎてしまった」
どうにか言葉を絞り出すと、私の横でふわりと空気が動く気配があって、次の瞬間には優しく頭を撫でられた。
ウティーネがお姉さんの姿になってにこりと笑っている。
『アタシたちにとって、国の違いも信仰の有無も関係ないのー。信仰がないとアタシたちは存在できないけどー、でも信仰心がないイコール敵、ではないのよー』
頭では理解できる。
精霊を信じていないからと言って、メアリやフリーデを敵認定されては困るもの。
それにもし、むやみやたらに精霊が人同士の争いに介入したら、いつか正しい祈りが無くなってしまう。信頼が恐怖に変わる日が来てしまう。または、精霊が道具になる日が来てしまう。
理解はできるのだけど、だけどそれで大切な人や、祈りを持つ民を失ってしまうなんて。
『アタシたちにもー、悲しい辛いって気持ちがあるのー。だけど、それ以上に人を好きでいないと、嫌いな人はすぐに滅ぼしちゃうでしょー』
精霊や神が憎悪だとか嫉妬だとかそういう悪意で行動したら、それはもう邪神なのだと、古い本で読んだことがある。
巫覡の願いに基づいて動くのは、邪神にならないためでもあるのかもしれない。
ウティーネは、イタズラっ子みたいな笑顔を見せて「だからエストちゃんは人を愛せってうるさいの」と続けた。
無関心でいるのではなく、人を愛し、その人が大切にするものを大切にする。
それが精霊なのだ。
私には理解できなくても、精霊はずっとそうやって存在してきたんだろう。
『遊んでばっかりのイフちゃんも、やっと人に心を砕いたことだしー、エストちゃん大喜びよねー』
『水サンは人を愛さナイから、エストにいつも叱らレテますネー』
『人は好きよー? でも、心に嘘はつけないわー。それに、レイちゃんもリアちゃんも大事に思ってるわよー』
「??」
ゲノーマスとウティーネの意味深なやり取りに、私は思わず首を傾げる。
人は好きだけど愛さない、心に嘘はつけない?
「人……じゃない誰かが好き、ってこと?」
『エス──ッんー!』
ゲノーマスがにこにこしながら何か言おうとしたのを、ウティーネは両手で彼の大きな口を閉じ、モガモガと物理的に口封じを試みた。
「え、ウティーネ、教えてよ」
『あらあらー。そんなの内緒よー』
「エストがどうした……。あ。もしかして、エスト?」
ウティーネの想い人はエストなの?
そう聞こうとしたら、彼女はポチャリと音をさせて湖の中に飛び込んでしまった。
水面を覗き込むも、まるで完全に溶け込んでしまったみたいに姿が見えない。
水の中に隠れているのか、他の場所に移動したのかも定かではないけれど、でもこれは無言の肯定、と考えていいのよね。
おっとりしていて、面倒見のいいお姉さんのウティーネが一瞬見せた真ん丸の瞳。
驚きと、恥ずかしさが入り乱れたような表情。
きっと忘れないと思います。
『逃げラレちゃいマシタねぇ』
つまらなそうに言うゲノーマスも、きっとウティーネの焦りようを存分に楽しんだようで、尻尾の動きは感情を隠せていない。
「可愛かったね」
『ハイ』
ゲノーマスと二人で、しばらく見るともなしに湖を眺めていると、突然目の前に幼い女の子が現れた。
サイドの高い位置にあるツインテールは、シルファムの幼さをより強調しているのだけど、それがまた可愛らしい。
『お客さん、だよ。エストが、今回は追い払わなくていいって言ってる』
ウティーネお姉さんも可愛いところあるんですよっていうお話でした。