第28話 遠くを映す瞳です
小さな川のせせらぎで、猪の体を冷やす。
シルファムが浮かせてくれるから、猪を運ぶのにもなんの苦労もなかったけれど、ああ、確かに精霊がいなかったら、私は3日と持たなかったなと改めて思う。
心臓に刺したナイフの傷口から、トクトクと流れ出た血の色を、最後まで出るようにと持ち上げて揺さぶった後ろ足の感触を、忘れないだろう。
内臓を傷つけないようにお腹を割いた感触も、匂いに釣られて上空を飛びまわる大きな鳥の影も。
自分の手で矢を射て、血を抜いてお腹を割いた。
これが命を頂くということなんだ。
生きようともがいて、傷つける者に牙を剥いて。猪もまた必死に生きていた。
「さぁ、冷えるまでの見張りはピスキーに任せて、ちょっと散歩しようか」
もうすっかり動かない、川に浸される猪から目を離せずにいる私に、レイが優しく声をかけてくれる。
『シルはエストに報告する』
レイの言葉を受けて、シルファムは先に小屋へと戻って行った。
あの子がレイのそばを率先して離れるなんて、すごく珍しい。
そう思ってびっくりしていると、頭の上からくつくつと笑う声が聞こえて来た。
「あの子もやっと、自分の気持ちに素直になったらしい」
「?」
いまいち、レイの言っていることがピンとこなかったけど、きっと知らなくてもいいことだろうと判断する。
それに、レイが楽しそうにしているから、あまり質問攻めにしてこの笑顔を消してしまうのは勿体ないと思った。
「すごい! とても綺麗だわ! レイ!」
「うん」
「ねぇ見て! あっちに見えるのはもしかして王城?」
「ああ、そうだよ。キャロモンテの城だ」
レイが連れて来てくれたのは、北の断崖のうち西にある岬だった。
山が島の西側にあるため、断崖も東から西にかけてどんどん高くなる。
この岬は北側に突き出ており、西側にありながら、島の北東に位置するキャロモンテ王国がよく見えた。
以前、王国からの船を誘導した、東側の断崖は牧草地になっていたけれど、ここはお花畑だ。
色とりどりの花が咲き乱れている。東側が楽園なら、西側は夢の世界だろうか?
波は静かで、その上をカモメがゆったりと翼を広げている。
通り抜ける風は、狩りやモツ抜きなどの仕事で火照った体に気持ちがいい。
「ああ、本当に素敵。こんな場所があったなんて知らなかった」
「……やっと、笑顔が見られた」
不意を衝く言葉にレイを見上げると、やっぱりその瞳はよく見えないのだけど、見つめられているのはなんとなくわかった。
「え……?」
なんと答えていいものかわからずにいると、レイはそっと私の手をとって、ゆっくりと岬の先端へ歩を進めた。
途中でお花畑が途切れ、柔らかそうな牧草地になったところで、レイは手を離してどっしりと腰を下す。
私も目線を合わせるために座ることにした。
「突然、島の命運を背負わせるようなことになってすまない。笑えなくさせてしまったね」
「そんな。いえ、違うの」
否定しても、先に続く言葉が出てこない。
決して、巫女の代理をすることが苦痛になっているわけじゃないのに。
私が笑わないのは、理不尽な島流しのせいでもあるし、でももっと根本的に、感情が表に出ないからだ、と思う。
なんて、つまらない人間なんだろう。
愛想笑いはすごく上手になったけど、楽しいや嬉しいを共有する誰かはいなかった。
フィルだって、そうね。クララは本当に可愛らしく笑う子だ。
今、レイやエストもまた、私と一緒にいて楽しくはないのじゃないかしら。
なんだか申し訳ない気持ちになってレイを見上げると、彼は遠くを見つめたまま口を開いた。
「僕がこの島に来たとき、まだ9つだった。毎日ここから自分の家を探してたんだ」
「……」
「よく泣いたよ。笑う余裕なんてなかった。でも、エストや精霊たちがたくさん遊んでくれてね」
昔を懐かしむその声は、気遣いと慈しみに溢れていた。
寂しくて仕方がなかったはずの少年は、「島」に愛されて、そして使命を理解したんだろう。
寂しい気持ちを知っているから、私を心配してくれているんだ。
代理巫女の立場が重荷になっているわけではないと、言わなくてはいけないのに。
でもなんとなく、彼の話をこのまま聞いていたいと思った。
「ある日、海の向こうが赤く光ってた。大きな火事だ」
武力衝突による火事だろう。
それから人々の祈りが小さくなって、レイは長い眠りについたんだ。
フードの中の瞳は、ある日の火事を映しているのだろうか。
口を噤んでしまったレイが、とても小さく見えた。
私の目には、立派な王城と、たくさんの建物が見えている。ブールとカルディアの戦いなんて、歴史の授業で習うような大昔の話だ。
でも、眠っていたレイにとっては、もしかしたらまだ1ヶ月前後しか経ってない最近のことかもしれない。
寝て起きたら、彼の知ってる何もかもが無くなって、家族もいなくて、あの火事を知っている人はどこにも……。
「……リア?」
「あっ。あ、ごめんなさい」
私は慌ててレイの頭の上に載せた手をおろした。無意識のうちに、レイの頭をフードごしに撫でていたみたい。
どうしよう、震える小さな子供に見えたなんて言えない。
「あの、えっと、あ、レ、レイはどうしていつもフード被ってるの?」
……違う!!
フードを被ってることは気になってるけど、それはそれで地雷の可能性高いのに!
あーもー私のばか!
「ごめんなさい、私──」
「恥ずかしいんだ」
「え?」
フードの端を引っ張って、さらに深々と表情を隠したレイは、何か諦めたような声音で続けた。
「僕は人と接した経験がほとんどないから、自分の容姿の美醜がわからない。鏡を見ても基準がわからなくてね」
「で、でも」
エストも精霊も貴方の美醜なんて気にしないでしょう、と言いかけて、はたと気が付いた。
え。もしかして。
「僕は、君にがっかりされたくないのかもしれないね」
苦笑したレイは、日が暮れる前に帰ろうと呟きながら立ち上がり、私に手を伸ばす。
その大きな手は温かくて、優しい。なのに、その手に重ねた私のそれはすごく冷たい気がした。
作者はここに来て気づいたんですよ、主人公が笑顔になる出来事なかったなって(´・ω・`)
お花畑デート(デート?)でした。




