第131話 新しい日常の始まりです
御礼:誤字報告ありがとうございます! いつもとても助かっています、感謝!
島を離れている間に溜まった書類を睨みつける。
これらは全てジャンが目を通して、仕分けをしてくれてあるので、つまりは私のサインを待っているだけの書類だ。
私のもとに集まる書類も9割は減らしたい。書類苦手だし。
そのためにも、政治の仕組みはきっちり作らないといけないのだ。草案もすでにジャンが……。結局全てジャンに任せてしまっているわね。
どれだけサインをしても減る気配のない紙の束にうんざりして、痛みを感じるくらいに固まってしまった背中を伸ばしていると、また形式だけのノック音とともに若い女性の声がした。
「お嬢さ……陛下」
「ドリス、いつもと同じように呼んでいいのだけど。私も呼ばれ慣れないから誤って無視してしまいそうだわ」
「……ではお嬢様、お客様がいらっしゃいました」
「お客様?」
ホールで私の到着を待っていたのは、母よりは幾分か若い女性だった。
細い金色の髪は頭の後ろでまとめられていて、ベージュ色のドレスは随分と古めかしいデザインでくたびれてはいるが、大切に手入れがされているのがわかった。
ホール内の応接セットの横で所在無げに立っていた女性は、私が階段を降りる足音に飛び跳ねるようにしてホール中央へ向かい、降りきる頃には両の膝をついていた。
彼女を警戒するようにその周囲をぐるぐる回っていた猫も、一歩離れて腰を下ろす。
床にこすりつけそうなほど低くした頭は上げてもらったけれど、膝は頑なに上げない。
応接セットのテーブルに乗った紅茶も手付かずで、なんとなく彼女の育ってきた背景が見えたような気がした。
「ふふ、女王といってもここは城じゃないし、玉座もないのです。びっくりしましたか?」
女性はふるふると頭を横に振りながら、また床にこすり付けた。
私がその前を横切って応接セットのソファーに掛けると、彼女は慌てた様子で面を伏せたまま体の向きを変える。
「彼女はベルタです。本日、島に到着したのでお嬢様にご挨拶したいと……」
ドリスが私の耳元に口を寄せると、「ジャンバティスタ様の実の母君です」と付け加える。
なるほど。ジャンがお兄様から荒稼ぎをしただとか、ベースキャンプの一番大きな屋敷を買い取っただとか、報告自体は聞いた覚えがあるけれど。
お母様と一緒にリオネッリの家から独立するわけね。
ジャンはご家族の話をほとんどしないけど、クララのメモには生い立ちも全て書いてあったし、彼が唯一信じる女性はこのベルタだけともあったはず。
それなら、彼女を連れて来るのは当然のことだわ。
リオネッリ男爵のお手付きになってジャンを産み落とし、男子の生まれなかったリオネッリ家に、ジャンもまた奪われた女性……。
「ベルタ、わざわざ会いに来てくださってありがとう。貴女は島へ移住するにあたり、ご子息からどんな説明を? ああ、直答を許しますから、面をあげて」
「な、なにも……」
ゆっくり顔をあげたベルタは、今にも泣きそうな表情で蚊の鳴くような声をあげる。
「なにもしなくていいからと」
そしてまた頭をこすりつけ、背をこわばらせた。
ジャンはこの新しい国の若き宰相だ。その母君ともなれば、あらゆる方面からあらゆるお誘いがあるに違いない。
けれども平民の出で、リオネッリ邸で奉公をしていただけのベルタにそれが務まるかと言えば、ほぼ不可能だろう。
それに、今まで苦労の多かった方だもの、ジャンだってわざわざ社交界になんて連れ出したくないでしょうね。
島で自由に好きなことをしてもらうのは大賛成だけど……。
ああ、そうだ。
私はふと思い立ってベルタの前まで歩み寄ると、膝をついて彼女の手をとった。驚いて咄嗟に引き抜こうとするけれど、すぐに思い直したのか力を抜いたよう。
「ベルタ、私のお友達になってくださらない?」
「えっ――」
「お嬢さ――」
ベルタとドリスが同時に声をあげる。
私はそれが面白くてついつい笑ってしまった。悪く思われないといいけれど。
「だって、私は島にお友達がまだいないんですもの。ドリスはきっと一定のラインを越えてくれないし。たまにお茶をしたり、街に出かけて美味しいものを食べるの。
これからどんどん街も大きくするのよ。それをベルタも一緒に見てくれたら、きっと楽しいと思うの」
「へ、陛下、わた、わたくしはっ」
「それじゃあ、女王直々の命令ということならどう? たまに私と一緒に楽しい時間を過ごすのが仕事」
ベルタが言葉を発せないまま困ったように目を白黒させる。
困った。そう、困るのはベルタだけじゃない。この反応を見て私まで困ってしまった。命令はやりすぎただろうか?
「お嬢様、強引が過ぎます」
ドリスは、この先の展開について無計画だった私を尻目にベルタの手を取って立たせると、間に割って入るように彼女の前に立って言った。
「お友達は命令してなるものじゃありません。さぁ、一緒にお茶を飲みましょう」
ドリスが私を叱ってからどれくらいの時間が経っただろうか?
サロンや庭で、一般的な貴族が思い浮かべるようなお茶会に強い抵抗感を示したベルタは、長い懐柔攻撃の末にこのホールに据えられた応接セットに座ることを了承してくれた。
最初こそ小さくなった上にカチカチに凍っていたベルタだったけれど、ドリスの手作りのクッキーの前には遂に陥落。
やはり、「私が作った」の言葉の前には手を出さざるを得ないのだわ。
甘いものを口に入れれば、ベルタの表情も少しずつ柔らかくなっていくし、それに、ジャンの小さい頃の話を聞かせてほしいと言えば、それはもう止まらないくらいにプチ・ジャンバティスタの偉業について語って聞かせてくれるのだ。
ジャンを身籠ったベルタは、一度は実家に戻り、父なし子として産み育てていた。
けれどもジャンが5歳を迎えるころ、物々しい一団がベルタの家を取り囲んでジャンを連れて行こうとしたのだと言う。
「その時あの子は、『母さんと引きはなすなら、家中のものをこわしてから死んでやる』って言ったんですよ」
「ええ……」
ベルタはとても嬉しそうに微笑んでいるけれど、5歳にして子爵家の屋敷の中には高価なものが多くあると知った上で交渉材料にしたジャンが恐ろしいわ。
生まれながらにしてジャンはジャンだったのね。
「でもあの子は、私を屋敷へ連れて行ったことを後悔している気がし――」
「アニー様、あんまり母をいじめないでよねー」
ベルタの言葉は、新たな登場人物の声によってかき消された。
東側の階段から降りて来たのはジャンバティスタとレイモンドだ。
島内の土地開発を行う過程で、精霊の協力が得られるか否かはなにを置いても最初に確認しておくべき事項であり、必然、レイとジャンのミーティングは多くなる。
「ジャ、ジャン! あんた!」
ベルタはジャンバティスタに非難するような声をあげて、また身を小さくさせてしまった。
身分差に怯えるベルタにとって、息子が女王に軽口を叩くのは万死に値する行為だと思ったかもしれない。
「いじめてないわよ」
「震えちゃってんじゃーん。かわいそうな母上ー」
「多分それ、貴方のせいだと思うけど」
軽く睨むと、ジャンはニヤリと笑いながら近づいて、紅茶のカップを握り締めるベルタの肩に手を置いた。
一方でレイモンドは、私の横に座って一部始終を眺めていた朱い猫からベルタについての報告を受け、何も言わず私の傍に控えることにしたらしい。
「母上、大丈夫だよ。アニー様はとーってもお優しいから。怒ってもちょっと妖精をけしかけてイタズラするだけだからねー」
「だいぶ嫌味に聞こえるわよ」
「だってそうでしょー? 自分の命狙ったヤツを生かしておくなんてさー」
腰のあたりに手を伸ばすと、猫がその手に顎を乗せてクルルと喉を鳴らした。
その首をレイモンドが摘まんで、遠くに放り投げる。空中で回転して美しい着地をした猫は、その場で毛を逆立ててレイモンドを睨みつけた。
「失ったものは小さくないけれど、みんな生きてるもの」
「そーだけどー。大体アニー様はいつも――」
ジャンがさらに小言を追加しようとしたとき、私と彼の間で何かが動いた。
それはドリスが新しい紅茶を二人分テーブルに用意する姿だったし、ベルタが立ち上がってジャンの肩を押さえるように座らせる姿だった。
「さぁお二人とも、仲良くお茶をしましょうね」
目と目を合わせて微笑み合うベルタとドリスの横で、レイモンドが猫の居たはずの場所に腰をおろす。
新しい日常が始まる気がした。
ジャン君が自分の影を売りつけたリなんだりして荒稼ぎしたお金の使い道、ほとんどが独立費用でした( ゜∀゜)
サブキャラたちの、メインストーリーに絡まない日常を切り取った小話を「おまけの小話集(https://ncode.syosetu.com/n4890fw/)」に超絶不定期で更新する予定です。
ご興味をお持ちいただけましたら、お暇な時にでもぜひー!




