第129話 夜のお散歩です
穏やかな海だった。
昼間に虹を作るために海の上にだけ雨を降らせたウティーネはその後、私がいつ島へ戻ってもいいように、ただ波の小さな優しい海を広げてくれている。
以前にもレイモンドとふたりで来たことのあるこの浜辺は、けれども供を連れずに来たのは初めてだ。
いえ、トリスタンかオクタヴィアンはきっとどこかで見てるんでしょうけれど。
「調印式お疲れさまでした」
海を眺めていると、レイモンドがこちらへ顔を向ける気配があった。フードをすっかりおろした黒い髪は、闇に紛れて輪郭がぼんやりとしている。
「ありがとう。レイも、ヤナタへ同行してくれたり、とても助かったわ」
ヤナタでのあれやこれやを思い出すと、とてもまともにレイの顔が見られなくなってしまうので、海の果ての闇から目を離さないままで答えた。
「いい経験になったよ。イフも戻って来たしね」
「ええ、ほんとに良かったわ」
エストから、島に祈りを取り戻してくれって言われていたのに、私のせいで精霊を失ってしまうなんて考えたくもなかったもの。
遠くに、島の灯台の灯りが見える。
今夜もイフライネは島に明かりと安心を与えてくれているのだ。
思えば、フィルから婚約破棄を言い渡されてから結構な時間が経った。あれは祝謝日のことだったから、さすがに1年は経たないけれど。
王子様との婚約が破棄になった結果、自分が王になるだなんて。
「不思議なものね。運命っていうのかしら」
「運命?」
「いえ、こちらの話……」
頭を振りつつレイを見上げると、彼は宝物を自慢する子犬のような表情で、大きな拳を目の前に差し出した。
何かを渡そうとしているのだろうか。
ほとんど反射的にその拳の下へと掌を差し向けると、レイは杖を脇に挟み左手でその手をとって、拳を開いた。
「これ……」
少しくすぐったい感触とともにそこにあったのは、レイが死んだあの日にピスキーが「落とし物」だと言って持ってきた組み紐だった。
あの時は精神的にもスケジュール的にもいっぱいいっぱいで、これをいつ持ち主に返したのだったかも、いまいち思い出せない。
「むかし僕たちがいた世界では、組み紐に願掛けをする習慣があった」
前世世界でミサンガと呼ばれたそれは、確かにそういった文化というか、習慣があった。
私が流くんの腕に組み紐を巻いたときにも、願い事をしてねと言ったのを覚えてる。
目で先を促すと、レイは笑みを深くして口を開く。
「僕がこの世界で記憶を取り戻したとき、最初にしたことはこの組み紐を自分で編むことだったけど、すごく難しくてね。こんなに不格好になってしまった。
前回もこれも、全く同じことを願ったんだが、どんな願い事をしたかと言うと……」
「いうと?」
「『人生を、貴女と共に生きていけるように』、と」
突然、私の世界から音が消えた。
なんなら視界も7割くらい狭くなってしまったような気がする。
私は今、レイモンドから一体何を言われたのかしら。イマイチ理解が追い付かなくて、活動を停止してしまった脳みそを動かそうと試みた。
「え、と」
「以前、調印式が終わったら話があるんだと伝えたのを覚えているかな」
「あ、ええ、ハイ」
確かに、キャロモンテの国王陛下からお茶会のお誘いがあって、レイが先にこちらへ来ることになったとき、確かにそう言っていた。
調印式まで無事に終えたら、大事な話があるのだと。
ようやっと仕事を再開し始めた耳に、静かな水音が響いた。波が穏やかな日は、潮の香りも薄いような気がする。
「ミサンガが切れた以上、僕はこの願いは叶うと信じてるし、叶えるために努力もしたつもりだ」
喉が渇く。
私はいま、ちゃんと息をしているだろうか?
「僕は貴女を誰の手にも渡したくない。そばにいてほしいし、隣にいさせてほしい。そうあるための努力は今後も惜しまない」
声が震える。
「私は女王になったわ」
「ああ」
手が震える。
「今までとはまるで世界が変わる」
「そうだろうね」
足が震える。
「時には命を狙われるかも」
「もう体験済みだし、僕たちには精霊がいる」
視界が涙で滲む。
「貴族たちの世界は面倒よ」
「知ってる。でも、僕だって社交界を上手に泳げていただろう?」
「それに……」
「リア。僕と結婚してくれないか」
家庭教師がついていた時間なんてほんの少しなのに、あっという間にマナーもダンスも覚えてしまったのが、私と結婚するためだったのだと思うと。
ああ、つまり覚悟はもうできてるってことなのよね。レイはもうずっと……。
「はい……! 私とともに新しい国を作ってください、レイモンド」
もう我慢できなかった。
涙はとめどなく溢れて止めようがないし、それにこの喜びを伝えたくて、レイの大きくて温かな胸に飛び込んだ。
彼と同じ目的を持って同じ道を歩んでいける、それがどんなに得難い幸福か、二度目の人生を歩む私たちにとって、より一層身に染みるのだ。
「よかった、『あなたに王配は荷が重いのでは』なんて断られてしまうかと、本気で心配していたんだ」
飛び込んだレイの胸に頬を埋めれば、心臓の音が早鐘を打っているのに気づく。
背中に回された彼の腕もまた震えている。
「いいえ、荷が重いのは私にとっても同じだわ。そうじゃなくて、面倒な立場に立たせるのはどうかと」
「貴女を公私にわたって支えられるチャンスを、僕が喜ばないとでも?」
背中に回っていた手が腰に下がったかと思うと、きゅっと力が入って、私は浮遊感とともにレイモンドを見下ろす高さへと持ち上げられた。
「きゃっ――」
「ほら、僕は貴女をこうやって支えられるんだ。軽々とね」
レイモンドはそのままの態勢で私を持ち上げたままくるくると回り、ばさりと砂浜に杖が倒れる。
「んもう、風の魔法を使ってるくせに」
「貴女が笑ってくれるなら、使えるものはなんだって使うさ」
「リソースの無駄遣いだわ!」
レイの肩に手を置いて真っ直ぐに彼を見ると、レイはイタズラっ子の表情をさらに濃くしながら笑って、ゆっくりと私をおろした。
「リアの笑顔のためなら無駄なものなんてないって、覚えておいて」
「難しいけど、善処する」
少し乱れて顔にかかった髪を、レイの大きな手が優しく耳にかけてくれる。
そのまま頬に触れた手から温もりが伝わって、私の胸に愛しさがこみ上げてきた。
「リア、愛してるよ」
「私も……」
静かに、ぎこちなくレイモンドの顔が近づいて来て、私は目を閉じる。柔らかな唇が重なったとき――。
私たちの間を暖かな風が吹き抜けて、浜辺にしては爽やかすぎるハーブの香りが漂った。
どこかでシルファムかエストが見てる気がする。
レイモンドも同じことを考えたのか、私たちは同時に顔を離して目をあけて、思わず大笑いしてしまった。
「あの神様のせいでムードもなにもないな」
「きっと何か知らせたいことがあったのではないかしら?」
「空気くらいは読めると思ったんだが」
ひとしきり笑ったところで、誰かが近づいて来る気配があった。
ざりざりと砂を踏みしめる音ともに現れた長身の男性は、オクタヴィアンだ。
「ドリスがおかんむりだぞ、小娘」
「あ……」
さすがに帰るのが遅すぎたかしら。
ドリスを怒らせると日常のお小言がすごく増えるので、ぜひ早く機嫌を直してほしいものだわ。
「急いで帰ろうか」
自然と伸ばされたレイモンドの手を、私もごく自然にとる。
貴族社会のエスコートとは違う、ただ手を繋いで並んで歩くだけのことを、私たちはずっと長い間夢見てきたのだ。
私事で大変申し訳ないのですが、1~2週間程度更新をお休みいたします。
必ず戻ってきます!!! 待っててぇー!




