第126話 友として
ランプの火を吹き消してベッドへ腰かけると、数秒と経たずに明かりが灯った。レイモンドは大きく溜め息を吐いて立ち上がり、ランプを手に取る。
「話があるなら出てくればいいだろう」
『話なんかねぇよ』
「じゃあ寝かせてくれないか。明日も早いんだ」
レクラム領主の屋敷は現在は無人で、キャロモンテ王国から派遣された管理者および騎士団が近くに宿をとって領主業務を代行しているだけであったが、急遽帰路についた一行にとって、一泊できるのは不幸中の幸いだった。
そう。キャロモンテからやってきた客人一行は、神とのお茶会を終えて城に戻ると、なんだかんだと理由をつけてヤナタの城から追い出されたのである。
どうやら、巫覡の証とも言える黒髪と黒目を持ったレイモンドを、民が見かけたことで精霊信仰が俄かに盛り上がる気配があり、王家はそれを警戒したらしい。
ヤナタの城では、クロヴィエ殿下が突然体調を崩したことで、魔法を自在に操ると噂されるレイモンドに対して人々が恐怖心を抱くようになったため、と説明された。
お互いに無用な懐疑心を持たぬよう、今回のところはこれでお引き取りください、というわけだ。
パーティー会場を出て自室に戻るころには、熱など引いてしまったであろう王子の体調のことより、国民の精霊信仰の復活のほうがよほど大問題だが、信仰などとうの昔に消滅したはずの国家でそんなことはおくびにも出せないのだろう。
まともに寝ていないアナトーリアにとってもそれは願ってもない話であったため、特に問題にせず城を出て隣接するレクラム領で休むこととなったのである。
アナトーリアは、ヤナタの神のはからいで道中も今も、ぐっすりと深く眠っている。
明日の朝にはすっかり元気に目覚めるのだろうが、レイモンドやトリスタンはこんな夜更けになるまで、これ幸いと現在のレクラム領の状態を調査していた。
キアッフレードを支援するという意味でも、ヤナタの精霊を守るという意味でも、隣接するレクラム領の軍備状況について、多少は把握しておいたほうがいいと考えたからだ。
話に聞いてはいたが、トリスタンは確かにスパルタである。
別に弟子になったわけでもなく、協力して調べものをしていただけのレイモンドですら、トリスタンの柔和で整った微笑みの奥に隠された鬼のような特性を感じられた。
おかげさまで、レイモンドは随分とクタクタになっていて、すぐにでもベッドに沈み込んで泥のように、いや、文字通り泥になってしまいたかったのだ。
が、先ほどから彼が寝ようとするたびに勝手に明かりが灯り、消しては点いてを何度か繰り返していたのである。
『なんだよ、復活した親友に向かってちょっと冷たくね?』
嫌がらせのように明かりを灯し続けた犯人は、どこからともなく姿を現してソファーに腰かけると、足をテーブルへと投げ出した。
「親友ね……」
『俺を生み出したのがリアの祈りだったせいかさ、昔のことほとんど覚えてねぇんだよな。アディのことも、なんとなくしか思い出せねぇ』
気をつけなければ聞き逃してしまいそうなほど小さな声で、イフライネが呟く。
それは悲痛とも言える色を伴っていた。
「それは辛いな」
『別に誰が悪いわけでもねぇし、仕方ねぇけど。生まれ直して、少しずつ自我を取り戻してく過程で、覚えてること少ないなって気づいてさ』
レイモンドはグラスに水を注ぎ、喉を潤わせながら目で先を促した。
『お前にだけは伝えておかなきゃって思ったんだ。……笑うなよ?
最初に思い出したのは、リアのことが大切だっていう気持ちだった。よくわかんねぇけど、リアの傍にいたいってことばっかり考えてた。
でも、それだけだ。他には何も覚えてない。リアと同じくらいお前のことも大切で、つまりそれは精霊の本能ってわけだ』
恐らくイフライネの言葉は嘘だろう、レイモンドはそう考えて目を細めた。
巫覡の命を守るのが精霊の本能であるのと同じように、神もまた、いたずらに巫覡の命を奪うことはしない。
あのときすでに、ヤナタの巫女として加護を与えられていたアナトーリアを、ヤンが危険に晒すはずがなかった。――もちろん、命に関わるという意味で。
つまり本当に何も覚えてないなら、あのときイフライネが起きてくる理由がないのだから。
今まで生きてきたほとんどの記憶を失って、唯一手元にある愛しい気持ちは、叶えることもできないままそこにあり続ける。
だから猫でいたかったのか。
エーテルを循環させて今までの記憶の全てを失う勇気もなく、かと言って、その手にある記憶と感情を抱えて実体化する覚悟も持てず、ただ、猫でいたかったのではないか。
一旦言葉を区切ったイフライネが手のひらをパタパタと振ると、暖炉に火が入った。
春も近いと言いながら夜はまだまだ肌寒く、イタズラのせいでいつまでもベッドに入れなかったレイモンドにとってはありがたい心遣いだ。
寝かせてくれないのがこのイフライネでなければの話だが。
『前の俺は、精霊としては力もたいして強いほうじゃなかった。だから寿命も長くなかった。それがさ、今、すげぇ強いんだよなぁ。ずいぶん長く生きられそうだ。
お前らはきっとすぐ死ぬだろ。数十年なんて、俺たちにとっちゃ一瞬だ。だからさ、これから先ずっと消滅するまで俺は』
イフライネはそこで口を噤んだが、本来その後にどんな言葉を続けたかったのか、レイモンドはわかった気がした。
――この気持ちを抱えて生きなくちゃいけないのか。
「俺は?」
続きを催促するレイモンドを半目でしばらく眺めてから、イフライネはゆっくりと口を開く。
『お前らが作り上げる国を見守っててやるよ』
「……では安心だ」
『だろ』
手持ち無沙汰なのか、イフライネは暖炉の中の火をモヤモヤと動かした。それは見ようによっては兎や狼の形にも見え、ふたりの男はその揺らめく火をしばらく眺めていた。
「ああ、そうだ。僕からもひとついいかな」
『あ?』
「リアを助けてくれてありがとう」
レイモンドの言葉に、イフライネは口をぽかんと半開きにさせて、小さく頭を下げる覡に視線を巡らせた。
予想外だった、と顔にくっきり表れている。
『なんの話だかよくわかんねぇけど、リア……いや巫覡を守るのは俺の仕事だろ、別に礼なんて』
「だが、伝えておきたかったんだ」
なんのことだと問われれば、レイモンドにも具体的に挙げることはできない。
もちろん、いちばんは彼が自分の命と引き換えにしたあの件なのだけれども。
ひとつひとつを具体的にすればするほど、伝えたかった本当の感謝が軽いものになっていくような気がした。
支えてくれてありがとうでも、何かを手伝ってくれてありがとうでもない、その得体の知れない気持ちの源泉がなんなのかといえば。
『……おう』
照れくさそうに笑ったイフライネを見て、レイモンドは唐突にその曖昧な感謝の本当の意味を理解した。
いてくれてありがとう、なのだと。
イフライネがイフライネとしてここにいてくれることに、感謝しているのだ。
彼女のために戻って来てくれたことに。それは結局のところ、自分自身が最も恩恵を受けているのだから。
「では僕は寝るが、他に言い残したことは?」
『アイツ泣かせんなよ』
「言われるまでもない」
バチ、と薪が爆ぜる音に気をとられたその瞬間に、火の精霊はその姿を消していた。
それはそれで腹が立つ、と一言だけ残して。
今までこの時間帯に更新したことがあっただろうか?……いやな、くもないんじゃないか?
まぁいいか。
ここにきてストーリーに大きく絡まない閑話です、えへへ。やっぱこのふたりが喋ってるの好き。




