第125話 伝言です
クララの話も、キアッフレードの話も、そしてイフライネの件も一通り話し終えると、私たちの間にはゆったりとした空気が流れる。
心なしか、以前からよく知った相手を前にしているような居心地の良さも手伝って、私はとてつもない眠気に襲われた。
背中に暖かな日差しが降り注ぐ。肌を撫でる風は柔らかくて、丘に咲く花々が甘くて華やかな香りで包んでくれる。
少しでいいから、このまま居眠りできたらどんなに気持ちがいいかしら。
「ちょっと。寝るつもりならキスしてやるからね、油断しないでよ。アタシ男の子なの。無防備な姿晒さないでちょうだい」
ヤンがテーブルを細く長い指でコツコツと叩き、レイモンドはその刺激的な言葉に杖を取り落とす。
さすがの私も、騒音のコンボとヤンの言葉にどうにか意識を取り戻して、姿勢を正した。
「ご、ごめんなさい」
「んもう。寝てないんでしょ。さっきも思ったけど、寝不足お肌だし目の下もどんより。ほんとブスよ」
「ブっ――」
ブスと言われたのはさすがに久しぶりで、思わずヤンを二度見してしまった。
幼い頃、私をブスと呼んだのはフィルだったかしら。あの頃フィルは、垂れ目でマシュマロみたいに笑うナニーメイドが好きだった。
大好きなナニーから、私との婚約を言祝がれて思わず口から出た、そんな感じだったと記憶してる。
その場に私がたまたま居合わせたものだから、フィルは逃げ出して、そう、それから彼は私との接し方を忘れてしまったんだ。
「あら、アンタいま他の男のこと考えてるでしょ」
「え」
「アタシそういうのわかっちゃうクチなのよね。ていうか、オンナが何かを思い出すときの目は大体いつも一緒。あのクソ生意気な巫女も……」
ヤンが苦虫を潰したような表情で手の中のグラスを一気に煽った。
クソ生意気な巫女……。そういえば巫女について、私は何かヤンに聞きたいことがあったような気がする。
何かあったわよね、とレイモンドを伺い見れば彼もまたこちらを見て、小さく頷いた。
「巫女といえば……」
「あれでしょ、最近書かせた【精霊伝書】の巫女のこと、聞きたいんでしょ」
なんでもお見通しだとでも言わんばかりの満面の笑みで、ヤンが足を組みなおした。そのそばで、ピスキーがグラスに赤い液体を注いでいる。
ほのかに漂う甘酸っぱい香りが、手元の紅茶の香りと混じり合って爽やかに立ち昇った。
「私たちにとっては決して最近じゃないけど、恐らくその巫女だわ」
「かりそめ、と呼ばれていたようだが」
私とレイモンドが口々に言うと、ヤンは片手を上げてそれを制した。
ピスキーがティーポットを3体がかりで運んで、私のカップに紅茶を注ぎ足していく。
「結論から言うけど、アンタたちが想像している通りよ」
「アッドロラータ」
「そうよ、アディ! あーん、懐かしいわ。クソ生意気だけど、やっぱり居なくなっちゃうと寂しいのよね」
レイモンドが不思議そうにこちらに視線を投げかけた。私が巫女の名前を知っていることに驚いたのかもしれない。
ヤンの切れ長の瞳は、少し離れたところにある、いくつかの石碑と並んで置かれた丸い大きな石を見つめていた。黒い石だけど、それは太陽の光を浴びてきらきら輝いていた。
「本当に我が儘な子でね、この丘はよく晴れた日には島が見えるんだって言い張って、いつもここにいたのよ。人間の目に見えるわけないのにね。
それから、絶対に1年中ずっと花が咲く丘にするんだってうるさくて。ゲノマ……島の子はゲノーマスって言うんだったかしら? ゲノマが半ベソで花を咲かせたの」
アッドロラータは、元々、島の巫女だった。レイモンドの前に島にいた巫女だ。
本来なら、巫覡は成人してすぐに島に渡り、次の巫覡が成人するまでその場に留まる。新たな巫覡は数十年単位でしか生まれないために、一度島に渡ってしまえば、人生のほとんどを精霊たちと共に過ごすのが一般的らしい。
けれどアッドロラータは、十数年しか島にいなかった。
異例とも言える早さで次の巫覡、つまりレイモンドが生まれ、ブールとの戦争から巫覡を守るために、成人もしていないレイモンドが島へと送られたからだ。
「彼女はカルディアからヤナタへ逃れて来たのね」
「たくさんの人間を引き連れて来たわよ。ほんと迷惑。彼らの住まいを準備しなきゃいけないってんで、しばらく大忙しだったんだから。
そのかわり、アディには巫女の真似事をしてもらったし、だからこそアタシたちは今もこうやって存在できるんだけど」
我が儘だとか迷惑だとか言いながら、ヤンの瞳は優しかったし、それに、潤んで見えた。
空をゆっくりと雲が覆って、温かかった日差しが立ち消えると同時に風もやむ。そんな静かな空間の中、ヤンの独白が響いた。
「アタシ、あの子に言ったのよ。島の覡みたいに長い眠りにつかないかって。どうせヤナタに次の巫覡が現れるのも百年先なんだからって。
そしたら叱られちゃった。未来のヤナタにとって必要なのは、かりそめの巫女じゃなくて島の協力なんだから、島を守らなくちゃいけない、寝てる暇なんてないってね」
アッドロラータの働きは精霊伝書に記された通りだ。
民に精霊の声を届け、精霊に民の祈りを伝え、カルディアを手助けするために名家であるチェルレーティを動かした。
キャロモンテ王国があるのも、私がいるのも、島に祈りが戻りつつあるのも、すべてアッドロラータのおかげと言える。
「彼女にはとても感謝しきれないわ」
「最期は風邪をこじらせてあっけなく逝ったの。ただの平民と同じ生活をしていて60を過ぎるまで生きたんだから、まぁ頑張ったほうよね。
それで、アンタたちにアディから伝言があるの。といっても、正しくは島の精霊宛てだから、言付けを頼まれてちょうだい」
ヤンが立ち上がって、丸く黒い石の方へと歩を進める。なんとなく、私とレイモンドもその後に続いた。
近づくにつれ、空の雲がふわりと動いて石の上だけに細い光が差した。
石の周りは特にお花がたくさん咲いていて、葉や花びらがまとう水滴が光を受けてきらきらと輝く。
――永遠に花咲く丘で貴方を想う
石に刻まれた言葉は、彼女の名前でもなんでもなかった。たった一言、誰かの強い思いが刻まれているだけ。
でもそれがどんな意味なのか、私にはわかってしまうのだ。
地の精霊ゲノーマスがかつて愛して、今もなお大切に想っている先代の巫女、アッドロラータ。
「『島の岬の花畑を守ってくれてありがとう』って伝えてくれってさ。100年経っても島の花畑は絶対あるって信じてるんだから、笑っちゃうわよね」
フン、と鼻で笑いながら伸ばしたしなやかな手は、石に刻まれた文字を優しくなぞっていた。
覚えてる方少ないと思うんですけど、32話あたりで島の精霊とアナトーリアさんが恋バナしてましてね。32話を書いてたときにも、いずれアディの生涯に触れようとは思ってたんですが、ずいぶん時間が経ってしまいました。書けてよかったです、はい。




