第120話 目覚めです
「島には精霊を信じる民がとても増えたわ。彼らの祈りを、私やレイが媒介して神や精霊に伝えるわけでしょう? 島の民の祈りが、ヤナタにも影響するということ?」
「そうなるな」
「では、ヤナタの民の祈りも島に影響しますね?」
「そうだ」
であれば、祈りが分散することは特に問題ではない気がする。この先はわからないけど、現状ではヤナタのほうが民の祈り自体はしっかりしているのだもの。
レイが嫌がっているのは、ヤナタの神に仕えなければならなくなったということかしら。
今まで、エストに縛られたというか命令された覚えはないのだけど、そうね、きっとエストが私を動かすのが上手だっただけかもしれない。
自発的に動いたつもりが、腹黒い彼の手のひらで踊らされていることなんてザラだもの。
「でも、私は島に国を構える女王となる身だわ。あなたの指示を受けるわけにはいきません」
「だがもう加護を与えた」
「エストが消す」
レイモンドが私を背に隠すようにして、私とヤンの間に割って入った。
ヤンのほうが身長は高く、偉そうなぶんだけ体も大きく見える。レイのほうが体付きは逞しいはずなのだけど。
「それをすれば、アナトーリアの体がもたない」
「島の巫女としての仕事、女王としての仕事、この二足の草鞋だって無茶だってのに、その上アンタのためにヤナタを訪れるなんて、ほとんど無理な話なんだ。
現実的に考えて、アンタに縛られてるほうがリアの体がもたなくなる」
ふたりが睨み合う時間は、すごく長く感じられた。
部屋の隅に控えているドリスとトリスタンも、わからないなりに不穏な空気を感じ取って、臨戦態勢になっているのが見える。
猫だけは状況が理解できていないのか、少し離れたところで香箱座りをしながらどこ吹く風だけど。
「そういえば、なんで私なの?」
「え?」
「なんでとは?」
レイモンドとヤンが同時に声を上げる。
そう、なんで、だ。
「私、ヤンは女嫌いだと聞いたわ。いま、あなたの目の前には男女の巫覡がいるのに、なぜ私を選んだの?」
瞬間、ヤンがふっと柔らかく笑って手を伸ばした。
力をこめたようには見えないのに、その手に押しのけられたレイモンドは体勢を崩し、腕を掴まれた私はヤンの胸の中へと引っ張り込まれる。
「きゃっ――」
「おい!」
パチンと、ヤンが指を鳴らす。
刹那、私とヤンの周囲を厚い氷の壁が囲ってしまった。空気ひとつ入らない透明な壁は、ほんの僅かに屈折しながら向こう側の様子を透かして映す。
レイモンドが何か叫んでいるけれど、くぐもってよく聞こえない。
トリスタンが氷を割ろうとしている。でも傷一つつかない。
ドリスが手近な石を持って、同じように氷を殴りつけるけれど、傷つくのは彼女の指先のほうだ。もうやめてほしい。
猫は部屋の隅で香箱座り。耳をピンと立てて周囲の様子を伺っているように見えるけれど、動く気配はない。
「何をするつもりなの?」
「女が嫌いだというのはデマだと、教えてやろうと思ってね」
ヤンは左腕で私を強く抱き抱え、右手で髪を掬って香りを嗅ぐ仕草をした。まるで外の人間たちに見せつけるように。
「いい香りだ。ローズだな。ヤナタではあまり流通していないんだ」
そのうちに、私たちは炎に包まれた。レイが氷を溶かそうとしているようだけど、進捗はあまり良くなさそう。
「レイモンドが無駄にあがいているな。彼は確かに人間にしては強い。正直驚いたが、ここはヤナタだ。本領発揮もできやしないだろう」
ヤンの楽し気な声が頭の上から聞こえてきて、外側ではまた、レイモンドが何事か叫んでいる。
嘲笑うように、背の高い男神が少し背を丸めて私の耳元に唇を寄せた。
「ふむ。ハーブも混じってる。これは気に食わないな、エスピリディオンの趣味だろう」
確かに、神殿の庭のハーブを利用した石鹸を作ってはいるけれど。
エストの趣味だとか言われると使いたくなくなるからやめてほしい。気に入ってたのに。
「ねぇ、彼らは諦めないわよ。いつまでこうしているつもり?」
「随分な自信だ。おもしろい。単純に、私はお前に興味を持ったんだ。だから加護を与えた」
ヤンは私の耳元で、ハープのように涼やかで滑らかな声を奏で続ける。
「興味?」
「……なぁ、あのなりそこないの猫はなんなんだ」
「なりそこない?」
「精霊になろうとしていない。猫のままでいたがっているようにすら見える」
ヤンの腕の中で視線を巡らせると、朱い猫はこちらを凝視しながらも、先ほどと変わらずそこにいた。
「あの子は……私の大切な友達だわ」
猫のままでいたがっているなんて、どうして。
あれは記憶の残滓でしょう。自我なんてないとエストは言ってたもの。なのにどうして。
「では、お友達に私たちの仲の良さを見せてやろうか」
「へ?」
言い終わる前から、細く長い指が私の顎をつまんで上を向かせる。正面にあるその表情は、いたずらっ子そのものだ。
顎にあった親指が伸びて唇に触れる。
「激しいのと優しいの、どっちが好みかな」
「ちょっ」
もがけど、まるで金縛りにでもあったみたいに一切動けない。
少しずつ迫る美貌は、こんなに近くで見ても毛穴のひとつもなくて、神様なんだから当たり前か、なんてよくわからないことが脳を駆け巡ったりするけれど、もちろん彼の動きは止まらない。
鼻と鼻がくっつく距離になって、堪らず大声をあげそうになったとき、私たちを囲う氷に大きな衝撃が走った。
岩が割れたような大きな音に驚いてそちらを見れば、今までまるでびくともしなかった厚い氷に大きなヒビが入っている。
「え……」
「くっ……くくくっ」
私をいまだに放そうとしない腕が、胸が、こらえきれないというように漏れ出る笑い声に合わせて震える。
ヒビが入ったせいなのか、それともヒトじゃないからなのか、外側から、くぐもることのないハッキリとした声が聞こえて来た。
それは苛立ちを隠そうともしない、懐かしい声だ。
『レイ! ボーっとしてんじゃねぇぞ!』
ちょっと生意気で偉そうで、でも優しい声が響くのと同時に、ヒビの入っていた場所がまた焔に包まれた。
まるで刃のように細く研ぎ澄まされたその焔は、あっという間にヒビを大きく広げていく。
その向こう側で杖を掲げたレイモンドが何事か叫ぶと、薄くなった氷がガラス細工のように粉々に砕けた。
飛び散った破片は、私に当たることなくその手前でぼろぼろと足元に散らばっていく。それは神の計らいであると、私がヤナタの巫女であるからこそわかった。
「返してもらう」
絞り出したような冷たい声はレイモンドから発せられ、私は次の瞬間にはレイの腕の中に包まれていた。
パチパチパチと、乾いた拍手の音が室内に響く。
「いやぁ、お見事」
ヤンの言葉に笑顔を見せる者はいない。
ドリスとトリスタンは、何が起きているのかわからないまま警戒を解かずにいるし、レイモンドとイフライネは厳しい目でヤンを睨みつけている。
そう、イフライネだ。
「イフライネ……?」
『おう』
私の問いかけに、バツの悪そうな表情で短く返事をする、朱い髪の若い男。
「出てくるのが遅いんだ」
『うるせぇな、お前が不甲斐ないから出てきてやったんだろ、感謝しろよ』
レイモンドとのやり取りも、いつも通りだ。
本当に、イフライネだ。イフライネだ。目の前が涙で滲んで、レイのローブで瞳を拭う。
「感謝するなら私にしてもらおうか? 女々しい炎の精霊を起こしたのは私なんだ」
私たちに背を向けて、ゆっくりと元いた玉座へと戻る神の姿は本当に優雅だった。
腰まである水色の髪が、しっとりとなびく。
「感謝どころか、ぶん殴りたいんだが」
「説明が必要か?」
「目的の話じゃない、手順に腹を立ててるんだ」
レイが感情のままに捲し立てるけれど、私には手順も目的もわからないので是非説明してもらいたい。
そう、まずは目的のところから。
「えっと、私には説明が必要なのだけど」
囚われの姫君遊び、もうちょっと引っ張るつもりだったのに、あっという間に解決してしまいました。
イフライネ君が復活したのでよしとしましょう。




