第119話 ヤナタの神です
2本の川が合流して、勢いを増した水流は崩れた崖から流れ落ちて壮大な滝を作っている。
神の住処は、その滝の裏にあった。
人がひとり通れるか否かという幅の、岩肌にのぞく裂け目に入ると、数メートル先から道幅が広がって数人が横並びで歩けるほどのゆとりが生まれた。
崖下の神殿がどれだけの広さになるのか、さっぱり見当がつかない。
途中途中に、分岐する道があってまるでアリの巣のようだわ。
私たちはピスキーの案内に従ってただ真っ直ぐ進み、最奥に到着したとき、その部屋の美しさに息を呑んだ。
ヤナタの王城のような、金銀財宝をふんだんに使った豪華さではない。岩壁は磨きぬかれ、石は繊細で幾何学的なオブジェとなり、発光するクリスタルの明かりを反射してほのかに輝いていた。
そんな心を落ち着かせるような光の中で私たちを待っていたのは、この世の者とは思えない美貌の男だ。
少年ではない真の姿のエストと、勝るとも劣らない美貌を持った男は、島の神よりも細身で、透明かと思うほど淡い水色の真っ直ぐな長髪をその身に垂らしている。
冬の川のように鋭く冷たい虹色の目で射抜かれて、私は言葉を失ってしまった。
「私はヤン。この川を中心に祈りのある限り加護を与える者だ。レイモンド、アナトーリア、お前たちは何しに来た?」
洞窟だからだろうか、彼の言葉は不思議な響きをもって私たちを包む。
包まれるからこそ威圧される。
一瞬の沈黙は、レイも圧倒されているんだろうか。それとも私が口を開くのを待っているんだろうか。
深く息を吸って片膝をつくと、レイモンドもまた同時に膝をついていた。神の姿が見えていないはずのドリスとトリスタンも、背後で同様にする気配があった。
よく考えればエストにここまで礼を尽くしたことないのだけど。両膝ではないあたりに、私たちの本音が見え隠れしてる気がするわ。
「お前たちは、神がそんな人間の決めた儀礼にいちいち反応しないことなど知っているだろう」
「ええ。でも念のためその言葉をいただきたかったのですわ」
「フン」
立ち上がってニコリと笑うと、ヤンと名乗る神はつまらなそうに遠くを見た。
「従者を立たせても?」
勝手にしろと言わんばかりにヒラヒラと揺れる手を確認して、ドリスとトリスタンに部屋の隅で待つよう伝える。
どこから現れたか、ピスキーたちが私とレイモンドの背後に椅子を運んでくれた。座ってお喋りして良いらしい。
この神様、実は親切なんだろうか?
「なんだその猫は」
私とレイモンドの足元をうろうろしながら居心地のいい場所を探す猫を見て、ヤンが肩眉を上げた。
「ペットです」
「……だからあの男は好かんのだ」
「え?」
ヤンの独り言の意味がわからずに問い返すと、こめかみを押さえながら深い溜め息をついていた美貌の男神は、話を打ち切るように足を組む。
「こちらの話だ。それで、何しにここへ?」
「近い将来、ヒトはヤナタに革命をもたらすつもりです。王座の簒奪を」
「キアッフレードだな、知っている。アレは信仰を持つ民の強さを買っているようだ」
ピスキーたちは続けて、ヤンの脇にサイドテーブルとワインらしき紫がかった赤い飲み物を準備した。
ヤンがグラスをくるりと回すと、ほのかに甘い香りが漂ってくる。
「その際に、ヤナタの巫女を連れてくるはずです」
「クララだ。それも知っている。……しかし、あの女はいらん」
「彼女がいなければ、精霊の声を民に届けられませんわ」
「お前が来い」
予想もしない言葉に、私とレイモンドは思わず顔を見合わせる。
私? 私がヤナタに?
「えっと、私は島の」
「二人もいらんだろう。どうしてもふたりと言うなら、クララを島にやる」
「いや、あの――」
「『土地を脅かす災厄が近づきしとき、黒き髪と瞳を持つ娘、果ての島の力を借りて民草を導く』これは貴方の言葉だ」
にべもないヤンの言葉に、どう言ったものかと頭を悩ませていると、レイモンドが凛とした声でその場の主導権を握った。
これは、ヤナタの【精霊伝書】の一節だ。
私はずいぶん前にキアッフレードから聞かされていたけれど、午前中に確認した【精霊伝書】にも確かにその文言が書かれていた。
「そうだな」
「災厄が近づいていることは貴方もわかってるはずだ。それをどうにかしうるのは、リアじゃなくクララだ」
「いやだ」
ヤンは、拗ねた子供のような表情で拒絶した。
少年を偽装しているエストのほうがよほどおじいちゃんなんだけど、神と言うのは人間以上に見た目で判断してはいけないようね。
「でも」
「あの手の女は嫌いなんだ。ロジカルな思考が成立しないし、視野が狭い」
「ブーメランですわね」
「リア!」
あ、心の声が。
つい漏れ出た言葉にレイモンドが苦笑して、ヤンがじろりと睨む。
「私は島の巫女です。エストに加護をいただいてどうにか巫女の真似事ができるだけの半人前ですわ」
「私は、エスピリディオンがそもそも嫌いだ。あの男ばかり有能な巫覡を抱えおって。リア、お前が生まれたときにだって、あの男は私がお前にちょっかいを出さぬよう小細工ばかりしていた」
小細工……。
そういえばイフライネが、「お前が歴史の勉強が足りないのは、俺たちのせいだ。学ばせないようにした」と言ってた。
信仰は、知ることから始まるから。
私がヤナタに神や精霊がいると知らなければ、彼らを知覚することもない。
「そうは言っても、数百年前から私は島の巫女と決まっていたのでしょう?」
「だからなんだ」
頬を膨らませたヤンが、組んでいた長い足を地におろしたかと思うと、おもむろに立ち上がって近寄ってくる。
私の傍らに歩を進めたヤンは、膝をついてごく自然な動作で左手をとった。
虚をつかれたとも言えるし、あまりにも自然過ぎて警戒を忘れたとも言えるし、もしかしたら神の力によって私たちに警戒させなかったのかもしれないけれど、彼は袖をまくって私の名を呟いた。
「アナトーリア」
しまった、と思ったときには遅い。レイの舌打ちが聞こえたけど、彼もまた気づくのが遅かったのだ。
私は、ヤンに加護を授けられてしまった。
ヤンが口づけた左の手首がじんわりと熱を帯びて、体中の血流が騒がしくなる。見れば、やはりそこには星型のマークが浮き上がっている。
「ちょ、これ……!」
「これでお前はヤナタの巫女でもあるな!」
してやったり、という意地悪そうな顔で笑うヤンに、レイモンドが大きく溜め息を吐いた。
ああ、でも待って。
私がヤナタの巫女ということは、ヤナタの精霊にお願い事ができるようになるのでは。
「ねぇヤン。この場合、私のお願いとクララのお願い、どちらが優先されるのです?」
私の言葉に、レイモンドが目を瞠り、ヤンは楽しげに笑う。
「心の清らかなほうでは? 私だって知らんが、精霊の意思に選ばせるさ」
「それなら、ありがたくいただいておくわ」
「では、お前たちの用件は終わりだな? クララが無茶をしようとしても放っておくよう願い出るつもりだったのだろう?」
「話が早くて助かりますわ」
レイモンドが頭を抱えて呻く。どうやらこの状態は、レイにとってはあまり歓迎できないらものらしい。
ヤンを睨みつけながら立ち上がり、杖で床をカツカツと叩く。
「彼女は島の巫女だ。彼女の祈りは島のものだし、ヤナタの神には縛られない」
「どういうこと?」
レイモンドを振り仰ぐと、フードをおろして髪を掻きむしりながら重い口を開いた。
「ヤナタの神や精霊に影響を与えられるようになるということは、巫女の祈りもまた、彼らが存在するために与えられなければならない。
加えて、土地の神の指示は巫覡にとって絶対的なものになる」
んん。
つまり、私が今後祈っても、それは島のためだけでなくヤナタの精霊の活動エネルギーに変換されるということ?
いえ、それよりも、神の言葉が絶対的だということのほうが問題かしら?
「島の巫女も、100年ぶりとあって基礎知識が不足しているようだな」
ヤンはやはり楽しそうに笑うばかりだ。
これは、なるほど、嵌められたと考えていいのよね。
なんということでしょう。
ヤナタの神はめんどくさそうな人だったのです。




