第117話 豪華な部屋です
気が付くと、私は豪奢な部屋でふわふわのベッドに寝かされていた。
室内に控えていたドリスが駆け寄って声をかけてくれる。
「お目覚めですか。お水をお飲みになりますか?」
「ええ、お願い」
グラスを受け取ると、流れるように伸びてきたドリスの手が私の額に当てられた。
小さく息を吐いたことから、発熱などはしていないのだと思う。私自身、先ほどまでとは打って変わってとても体が軽くて、驚いてるほど。
ただ、何か物足りない。元気なのだけど、何かが足りない。
「レイモンド様を呼んでまいりますね。何か、お話があるのだとか」
私の肩にショールをかけてから、ドリスは音もなく部屋から滑り出て行った。
「ニャァ」
「あ、えっと、イフライネ……?」
いつの間にか室内に現れた朱い猫が、私の足の周りを体を押し付けるようにしながらぐるぐると回る。
この子がこの姿でいるということは、まだ精霊としての自我が芽生えていないのだろう。
膝の上に飛び乗った猫を撫でると、気持ちよさそうにゴロゴロと喉を鳴らした。本当に精霊なんだろうか?
形式だけのノックが響いてドアが開く。
ドリスの先導で入室したレイモンドは、膝の上の猫を見て目を丸くさせながら近づいてきた。
「顔色もいいね、安心したよ」
大股であっという間にそばに来たレイモンドが猫を掴むと、乱暴にソファのほうへと投げる。
ドリスが不思議そうな表情でそれを一瞥したことから、やはりあの猫は普通の人には姿の見えない精霊なのだと判断して良さそうね。
「心配かけてごめんなさい。もう大丈夫そう。ここは、ヤナタの王城かしら」
「ああ。心配した迎えの人たちが、すぐ休めるように手配してくれてね。いつまでも外にいても仕方ないし」
「王陛下には無礼をしてしまったわね。ま……いっか。レイもドリスもありがとう。それで、お話があるとか?」
レイモンドは手近な椅子を引き寄せて座り、背後の猫を一瞥してから肩をすくめた。
「なんでこの猫がいるのかわからないけど、リアの周囲に巡らされていたエストの加護を一時的になくしてもらったんだ」
「え……。加護を?」
精霊は、神の加護の範囲でしか出現できないから、私が本土に出かけている間に不都合が起きないよう、エストが私の周囲にだけ加護を広げてくれていたものだ。
例の誘拐事件のとき以来ずっと、エストは私の周囲に加護を巡らせてくれていた。
「昔はただの冗談だと思ってたんだけど、ヤナタの神とエストの仲が悪いらしくてね」
「えーっ!? エストの加護と土地の加護が反発したとか言わないわよね?」
「はは。それがね、どうやらそうらしい」
レイも堪らず苦笑する。
私とレイに個人的に与えられている加護は特に影響ないようだけど、土地に影響を与えるタイプの加護は反発するのね。
「何か物足りない感じがしたのは加護がなかったせいね」
「ふむ、それはなんだかエストが相手でも気に食わないけど、まあそういうこと」
「?」
「他の男が君に喪失感を与えるのは気に食わないって言ったんだ」
……。
レイの言葉の意味が一瞬わからなくて、でも理解した途端恥ずかしくて彼の顔を真っ直ぐ見られなくなる。
これは、嫉妬だ!
ううう。恋というのは、こんな羞恥心といつも戦わないといけないの?
一気に顔が熱くなってしまった。
「にゃー」
「いってっ!」
いたたまれない空気を壊すように、猫が鳴きながらレイモンドの背に張り付いてよじ登る。
「そっ、それなら、エストの加護がないのに、どうしてこの子はここにいられるのかしら」
「僕もびっくりしたよ。可能性の話にはなるけど、このイフはまだ自我がないからエストに縛られてないんじゃないかな」
背に爪を立ててよじ登る猫をどうにか捕まえて肩の上に乗せるレイモンド。
お互い睨み合ってるけど、私にはじゃれ合っているようにしか見えない。
「そんなことあり得るの?」
「どうだろう。ちょっとわからないな。ただ少なくとも、リアには随分懐いているようだから、何かあれば守ってくれるかもしれないし、役立たずかもしれな――痛いって!」
次のイフライネもレイモンドと仲良くやれそうで安心ね。
痛みに耐えかねてレイモンドが猫を遠くへ放り投げたとき、困ったように眉を下げたドリスが「お話中に申し訳ありません」と割って入った。
「お二人とも、お食事はいかがなさいますか? お願いしたら軽食をご用意いただけるそうですが」
「私は気持ちだけいただいておくわね。あまりお腹空いてないの」
「僕も結構です」
ドリスがひとつ礼をして出て行こうとしたのを呼び止めて、念のため人を寄せないようにお願いする。
密かにこの旅に同行しているはずのトリスタンと話がしたいのだ。
トリスタンに限って、突然誰かが部屋を訪れたとしても、姿を見られるようなヘマはしないと思うけれど、人払いしておいたほうが落ち着いて話せるのは間違いないものね。
ドリスが出て行くのを確認してからトリスタンの名を呼ぶと、音もなく現れて礼をとった。
「先に、先日の夜のことを聞いても?」
「恐らくご想像の通りです」
「バルナバも?」
「彼は正しい意味で影になりました」
淡々とした回答の中に、悲痛な色が見えた。
バルナバは、今まで人を殺めたことはない。影である以上、その日はいつか来るはずだった。
けれども、私は……いいえ、彼の周囲にいる誰もが、バルナバは光の溢れる世界へ戻るべきだと思ってた。
だからこそ、オクタヴィアンもトリスタンも、その可能性の高い仕事に彼をアサインしたことはないのだ。
お父様もそう。
レイモンドの脱獄劇で、お父様が彼に「好きなように暴れろ」と言ったと聞いたけど、それは影から足を洗わせるキッカケにしようと思ってのことだろう。
白昼堂々、王国騎士団を相手にあれだけ暴れれば、少なくない数の人間が彼のことを覚えたはず。
普通、影は、任務の過程で捕縛されるようなピンチに陥ったら、自決することが求められる。雇い主を辿られないように。
でもそれは容姿を覚えられていない、という大前提があるからこそ成立するのだ。
地味な侍従として付き添うだけなら誰も注目しなかったでしょうけど、もうそうじゃない。
バルナバはもう、任務の途中で誰かに姿を見咎められることすら許されない。本来的な意味での「影」ではいられないということになる。
「すぐにも影から出るべきでは?」
「もう、無理でしょう」
人を手にかけた彼は、もう光の下にも居場所はない、か。
誰が許したって、誰にも気づかれなくたって、彼自身がその手で人を殺めたことを覚えてる。その手を持って、太陽の下を歩くことはできないのかもしれない。
「でも、それでは――」
「ほとぼりが冷めるまでは国外に出すしかないでしょうね、バルテロトか、ヤナタか、他国での調査をお願いしましょう」
「そう……」
彼が、今までの人生とは違う道へ進むたびに私は、あの日バウドを訪ねるように言ったことを振り返ってしまう。
へたに貴族と関わらず、日常に戻ったほうが彼の平穏な人生は保たれたのじゃないかと。今さら考えたって仕方ないのに。
「彼自身の選択による結果だ。それに彼は強い。きっと大丈夫です」
「そうね、ありがとう」
その後、トリスタンは私が眠っていた間に調べたヤナタ城内の状況や、隠れて信仰している信者たちの様子について報告してくれた。
基本的に、現在のヤナタは経済のほとんどをキャロモンテとの貿易に依存している。
それで税収も潤っているほか、キャロモンテからの直接の援助もあって、王家は贅沢な暮らしを続けているのだとか。
確かに、この部屋ひとつとっても豪華すぎるほど豪華だものね。
室内を見渡して、思わずため息を吐いてしまう。
結果的に、キャロモンテに対してヤナタは強く出られず、言われるがままにやるしかない傀儡国家になっている。
例えば国防に予算を割きすぎるなとか、精霊信仰の禁止を徹底せよとか、そういったことね。
「信仰の禁止を徹底、という割には、キャロモンテよりよほど信仰が残ってるわ」
「ええ。信者たちが目立った動きをしない限り、王はわざわざ規制にコストをかけたくないのです」
表向きは完全に禁止しているけれど、信者を探し出して弾圧するのは面倒だから、バレないようにやれということかしらね。
「まるで政治をする気がないのね」
「だから第三王子が簒奪を企むのでしょう」
そりゃそうね。
レイモンドと顔を見合わせて、肩をすくめた。
ヤナタの神様は女が嫌いでエストと仲悪いらしいですが、なんだか面倒くさそうですね!
レイ君はイフライネの扱いが雑なだけで、決して動物虐待ではない、いいね?




