第116話 旅立ちです
風立石を用いて浮かせた箱を馬が引っ張る……この世界の馬車は、馬への負担が限りなく少ないため、早く走ろうと思えば結構なスピードが出せる。
もちろん、すぐには止まれないから、人通りのほとんどないような場所じゃないとできないけれど。
加えて、レイモンドのはからいによって常に追い風になっているから、何度も馬を替える必要はあるけれど、ヤナタには2日程度で到着してしまいそうだとか。
車輪がないから乗車した人間の尻にもなんの負担もないし、とても快適な旅なの。……ええ、到着した後のことさえ考えなければね。
各種の式典はもう今週末に迫っているというのに、先にヤナタに行って来いなどと、王国議会のお偉い様方は本当に人使いが荒い。
そりゃ、独立した後は私は王になるわけで、彼らが自由に私を使いっ走りにすることができなくなるというのはわかるけれど。
とはいえ、往復の時間を考慮したらヤナタで活動できるのは2日もないわ。
限られた時間の中で、どこまで信頼を得られるか。
私はこれからお会いすることになるヤナタの神との邂逅について、この道中でシミュレーションしておきたいと思ってる。
思ってる、のだけど。
屋敷を出る直前に見かけた、バルナバの表情が気掛かりでイマイチ集中できない。おかげさまで、ただぼんやりと窓の外を眺めてばかりだわ。
あの夜、キアッフレードを見送ったあとにバタバタしていたのは、ボナート公爵とビアッジョ、それにレオフリックが脱獄したという情報が入ったからだ、と聞いた。
翌朝になって聞かされたのは、脱獄した3人とレオフリックの部下の王国騎士数名が、東の麦畑で全員息絶えていたということ。
ボナート邸では公爵夫人のイライザ様が少なくない荷物を持って、どこかへ出かけるところだったそう。
公爵父子の脱獄に関してイライザ夫人に事情を聞こうとしたら、その荷物の中に国家機密に関する書類がいくつもあって、その場で捕縛――。
麦畑に放置された馬車からは金品の類が一切見当たらなかったために、国境付近を根城にしている盗賊の仕業だろう、というのが捜査にあたった騎士団の見解だった。
が、それは嘘。
あのあたりはどこまでも畑が続いているばかりで、人が集まるような場所は近くにないし、国境を越えるための関所に向かうにはひどく遠回りだから旅人もいない。
だから国境付近を根城にする盗賊は確かに存在するけれど、縄張りは麦畑じゃないのだ。
あの日だけたまたま、なんてことはあり得ないと考えていいわ。つまり意図的に彼らを亡き者にした人物がいる。
恐らく、お父様の差し金だ。
私も、バウド家だけは暗殺に手を染めたリしない、なんて甘い考えを持っていられる立場ではなくなった。
仮に私がお父様の立場なら、「なんとしてもバルテロトに行かせるな」と言うでしょうね。もちろん、生死の別は問わないわ。
どのみち彼らは処刑されるだけ。
生きて連れ戻したとして、監視体制を強化したりするコストもばかにならないし、これで良かったのでしょう。
ただ、あの騒動で外出したのはバルナバも含めた全ての影だ。それからヤナタへ向けて発つまで彼の姿を見なかったのだけど、出発前に見かけた彼は随分と暗い表情をしていたように思う。
まさかとは思うけれど、念のためあとでトリスタンに確認してみましょう。
「ずいぶんと、浮かない顔をしているね」
「ん、そうね、ごめんなさい」
「いや、謝ることじゃない」
向かい側に座るレイモンドはおどけた表情で笑いながらも、その瞳は心配してくれているのがわかる。
ドリスは何も言わずただ隣に座っているけれど、同じように心配してくれていることを私は知ってる。
「前に、レイが私に、自分を犠牲にしないでほしいと言ったのを覚えてる? 自分自身のためにしたいことはないのかって」
「ああ」
「あのとき私は、死を前に個人的なやり残しを思い出して後悔したと言ったと思うのだけど」
「うん、そうだね。具体的には内緒って言われたよ」
肩をすくめるレイモンドに笑い合う。
そうね、それは今後もきっと内緒にする。
「それで先日モーエン卿に剣を向けられたときにも、『もっと自由に生きればよかった』って後悔したの」
「……?」
「あのときは、誰かのためにやれることがあるなら、それを優先したい、って言ったのにね。心の底ではもっと好きに生きたいと思ってたんだって思い知らされて」
馬車の中、誰に見咎められるわけでもないレイモンドはフードをすっかりおろしていた。
さらさらの真っ直ぐな黒い髪は、窓から入る光に当たってもなお黒くて、キラキラと輝いてる。それがなんだかレイの心みたいだと思った。
何者にも染まらない黒。周囲の期待や祈りを受けて輝く黒。
「当たり前の反応だよ。むしろ、人間らしさがあって安心した」
「ロボットだとでも思ってた?」
「いや、神かホトケかと」
私たちの会話に、ところどころ理解の追い付かない部分があるドリスは首を傾げるけれど、クスクス笑う私たちの様子を見て、ドリスもまた微笑んで前を向く。
「だけど、結局こうやって誰かのために働いてしまう貴族脳なのだわって、自分で自分に呆れているところよ。まさかヤナタだなんて。立国まであと何日もないし、他にも気掛かりなことがあるというのに」
「バルナバのこととか?」
「えっ」
真っ直ぐに私を見つめるレイの瞳が優しくて、かなわないなぁと思う。もうなんだってお見通しじゃない。
「城下で流行りのバルテロト名物が、島にも出店したいとデュジーリ商会に申し出があったそうだよ」
「バルテロト名物……って、魚と芋のフライの?」
「そう。リアが唇を火傷したって話題のやつさ」
レイがドリスをちらりと見て笑う。私が横目で睨むと、ドリスはバツが悪そうに私とは逆方向へ顔を向けてしまった。
んもう、ドリスったらバラすなんて。
「島なら、自由に外を出歩ける。買い食いだってできる。島を散歩する女王を、民は愛してるんだからね。たまには好きなことをしたらいいんだ」
すごく魅力的な提案だと思う。
ドリスやレイや、大好きなみんなと街になりつつある島のキャンプを練り歩いて、美味しいものを食べてお喋りするの。
「そうね、すごく楽しそう」
「これから先は楽しいことが盛りだくさんだ」
「では、つまらないことはさっさと終わらせて島に帰らないとね」
窓の外を覗くと、少しずつ雲が厚くなってきて景色も薄暗く感じられた。
つまらないことを解決するのは、なんだか大変そうな気がしてくる。
大変そう、という予感は大当たりだった。
国境を越えてヤナタへ入った途端、私は突然の体調不良に襲われたのだ。
歓迎されてなさすぎて逆に笑える。
もう少し先に行ったところにヤナタからの迎えが来ているはずで、人をやって待たせてしまうことを謝罪しつつ、馬車を止めて少し横になる。
しばらくして、レイが何事かに気づいたらしく、呼び出したシルファムと話をしている気配があった。
私は話に参加する余裕もなくて、レイに任せきりにしてしまったのだけど。
レイが元気で私がダメなのは、やっぱり私が女だからかしら? 女嫌いの神様の洗礼? もしそうだとしたら、この旅が成功するとは思えないわね。
「きっともう大丈夫だよ」
夢うつつに聞こえたレイモンドの声と、頭を撫でる大きな手に安心して、私は深い眠りにおちた。
ヤナタ、2日もいられないのか……って思ったのはたぶんアナトーリアさんじゃなくて作者ですね。
2日で信頼構築とか無理でしょ、無理ィ!
片道1日で到着できることにしようかって思ったけど、脳内に描いたキャロモンテ王国の南北がすっごく縮んでしまうから諦めた(一旦、片道1日のつもりで書き進めたのを修正しているので、もし、時間経過の描写におかしなところがあったら教えてください、修正漏れです)




