第110話 命の使い道
神殿は前日と打って変わってあまりにも静かだ。いかに慎重にゆっくり歩いても、その靴音は大きく響いてしまう。
別に、音をたててはならない、というわけではない。
ただ今はどんな物音も聞きたくない。無音の世界を求めて、わざわざ神殿まで足を運んでいるのだから。
最奥へ到達し、大きなクリスタルを見上げながら地べたへ腰をおろすと、あっという間に腰の方まで冷たさが伝わってきた。
外は茜色で、クリスタルもオレンジ色を映しているがきっとすぐに紺色へと変わるだろう。
ステンドグラスは昨日の嵐で割れてしまい、イネスへ再製作を依頼している。
窓枠を覆っていた薄い板が剥がれて、雨と一緒に神殿内に侵入していたいろいろな塵は、今朝のうちに騎士団が掃除したようだ。
死者を寝かせていた2台のダイニングテーブルは、昨日と同じ状態のまま放置されていた。
死者……じゃなくなってたな。
あのまま、死んでいればよかったのに。口が裂けても言えない本音は、たったひとりになってもやはり言葉にはできない。
口にしたら最後、死んでしまえ、と恨み続けてしまいそうだから。
彼女からの結婚の申し出に、政略以外の要素がないことは理解していた。自分に何を求められているかも。
だからこそ、その求めに応じて理性的に話を進めたんだ。島を守ることを最優先に、王国から独立が承認されるまでは婚約すべきでないと。
婚約していたら何か違っただろうか?
……いや、違わない。
結局、島の存続のために隠れていなければならなかった。
これだけ同じ時間を過ごせば、嫌でもわかるさ。
彼女が本心では誰を見て、誰を求めていたかなんて。
王妃候補、公爵令嬢、女王、そんなしがらみに縛られて、心すら自由にできないことを利用していたのは、俺だ。
彼女の真面目さにつけこんで、パートナーの座を掴み取ろうとしたのは、俺なんだ。
レイモンドのように特別な力があったなら、あのとき俺は絶対に神殿を飛び出していたのに。
……いや、だめか。
特別な力があっても一度は死んだじゃないか。
死んだら、彼女の思いを守ることができなくなってた。
ハハ。
そうか。真面目さに付け込んだツケってやつだ。
今でもありありと思い出せる。
アイツが死ぬ瞬間の彼女の表情を。その後の抜け殻ぶりを。
俺は彼女にいろんな表情をさせたかった。自分の手で笑わせたかった。
でも、あんな顔した人を笑顔にすることなんて、絶対にできないじゃないか……。
いろんな顔を持ってるなんて、知らなきゃよかったよ。仮面を貼り付けたつまらない女だとずっと思っていられたらよかったんだ。
「クソッタレ……」
まだまだ汚い言葉を垂れ流したいところだったが、微かな音が聞こえた気がして呼吸を止めた。
だれかが扉を開けて神殿へ立ち入ったようだ。
レイモンドが生き返ったことは、まだ島の住民には伝えていないし、だから遺体の眠る神殿への立ち入りを禁じているはずなのだが。
軽い上に細く高い靴音は、それが女性のものだと教えてくれる。
衣擦れの音が少し大きいのは、良質な生地の衣類だからだ。
誰が来たのか、なんとなく予想がついたので警戒を解いて息を吐く。
「ジャンバティスタ様」
「ドリちゃん、なぁにー? 俺ちょっと青春ってやつを楽しんでたんだけどなー」
目を細める、口角を上げる。いつもの俺の顔で振り返る。
大丈夫、できてる。
「……ありがとうございました」
ゆっくりと、深く深く腰を曲げる侍女に、言葉を失う。
「え」
「ご自分の気持ちに気づいてしまった以上、お嬢様はジャンバティスタ様とのご婚約を積極的に続けることはできなかったと思います。
ご自分のことはさておき、他の方の気持ちを第一に考える方ですので」
そうだろうよ。
わかってた。彼女があの席で何を言おうとしたのか。そして、どうするつもりだったか。
自分はレイモンドが好きだ、でも、口約束とは言え婚約は婚約だ。だから、「ジャンの判断を尊重するわ」とでも言うつもりだったんだろう。
いや、誰とも結婚しないって言いだすほうがあり得るか。
でもどっちだって一緒だ。自分の幸せより俺への配慮を優先させることのほうが、俺を傷つけるのに。
どんな状況であれ、一生、心だけはアイツのものだって宣言されるのがどれだけ残酷か……。
「やだなぁ、言ったじゃん。自分のためだって」
それは本心だ。
死にたくないのは、肉体の話じゃない。心の話だ。
傍に居ながら一番見たい表情をこの手で作れない生活は、常に陰を帯びた瞳を見続ける生活は、俺の心を殺す。
「お嬢様は、ジャンバティスタ様をとても信頼なさっておいでです」
「知ってる」
友人として、またはビジネス上のパートナーとしてなら、俺たちはめちゃくちゃ相性がいい。
なにより、全幅の信頼を置いてくれたのは、人生で彼女だけだ。
結局、それがあるから俺はこれからも彼女を支えてしまうんだろう。
……どうせ、さっきの俺の嘘だって気づいてるんだろうし。
こういうのを完敗って言うんだよな。惚れたほうの負けなんて誰が言ったやら、やっと意味がわかったよ。
「俺、ドリちゃんより忠誠心強い自信ついちゃった」
「私は……ええ、そうですね。同じくらいにしていただけませんか?」
「おっけー。特別だよ」
このお堅い侍女は、レイモンドと同じく自分の命より彼女を優先する馬鹿者だし、結局のところ俺も同じなんだ。
彼女の意志を守るために生き続ける覚悟をするのは、命に代えても彼女を守ろうとするのと根本は同じだろ?
俺は守ったぜって自己満足を胸に死ぬより、彼女がいない世界を生き続けるほうが辛いと思えば、むしろ俺のやったことのほうが尊いんじゃねぇの?
オーケー、唯一無二のビジネスパートナーになってやろうじゃん。
俺の生死が彼女の命運をわけるくらいになれば、最高にゾクゾクするよね。
「ありがとねードリちゃん。ちょっと落ち着いたっていうか、元気出た」
「っ! とんでもないことです。私は……」
「ん?」
「いえ。心も、命さえも自由にできないお嬢様を、自由にしてくださってありがとうございました」
小さく頭を下げて、有能侍女が背を向けた。
そういえばドリスはどうしてあんなに彼女に尽くすんだろうか。
数年前、ドリスは生家であるユングバール子爵家との一切の縁を切ったことは知っている。情報通ならみんな知っている話だ。
アナトーリアがドリスを気に入って手元に置いておくために、ユングバール家と交渉したんだと聞いていたし、今までそれを疑問に思ったことはないが。
しかしドリスの尽くし方を見ていると、その話は些か真実ではないような気がする。
ま、なんでもいっか。
「おー寒い寒い。帰ろ」
ドリスが何を考えているかも、過去も、何も知らなくたって、共通の人物に対する忠誠心や愛情は、信頼を生む。
バウド父子も、ドリスもバルナバも、レイモンドだって、信の置ける人物だと言い切れる。
人を滅多に信用しない俺が、気が付けば仲間に囲まれてるんだ。そしてそれを居心地イイとさえ思ってる。
初めて愛した人をパートナーにすることはできなかったけど、失ったわけじゃないし、むしろ居場所を作ってもらったんだ。
それでいいことにしよう。
ジャン君いい子すぎでは(号泣
若干ヤンデレ風味のスキルを手に入れてしまった気がしますが、それはご愛嬌。




