第106話 月明かりの下です
誤字報告くださった方、ありがとうございましたっ!
最近とっても誤字が多いのです。とても助かりましたー!
静かな夜だ。
地平線のほうはまだ薄っすらと紫色が残っているけど、それももう間もなく天辺の紺青に飲まれて星の輪郭を濃くさせるはず。
ベースキャンプも今夜は明かりが少ない。
イフライネがいなくて、外の明かりを誰も灯せないから――
湖を泳ぐ魚が作り出す水音を聞きながら、緑の上に横になって空を見上げる。
ゆっくりと夜空を見なくなったのはいつからだろう。
初めてみんなに会ったのは、もう随分昔のことのように思える。この湖のほとりで私を待っていた神と動物たち。
彼らの話を聞いたあとで長い眠りについているレイに会って、気を失ってしまったんだったかしら。
そこで前世のこと、この世界のことを思い出した。
私はゲームをしていなかったし、つい最近まで前世の記憶も思い出さなかった。だから私の価値観はこの世界のアナトーリアのものでしかない。
では、前世の記憶をずっと前から思い出していたら?
それこそ子供のときから前世の記憶があって、しかもこの世界のことを、未来も含めて誰よりも知っていたら?
……考えても仕方ない、か。
彼女のしたことをどうにか自分の理解の範疇に落とし込もうとしたところで、結果は変わらない。
いなくなった者は戻って来ない。
そういえばレイが目を覚ましたのも、今日の面々が襲撃して来たからだった。
溺れた私をスマートに助けてくれて、すごくかっこよかったなぁ。
狩りに連れていってもらって、子どもの頃の話を聞いて。たまに喧嘩して、だけど食い違うときはいつだって彼が意見を譲ってくれた。
どんなときも味方でいてくれたし、悩んでるときはただ見守ってくれてた。
でも、そんな私たちをすぐ側で見ててくれたのがイフライネだったのよね。
心配性で、少しデリカシーがなくて、口が悪くて。
レイとイフはいつも張り合ってて、だけどとっても仲が良くて。
「会いたいなぁ」
まだ数時間しか経ってないのに、もう寂しい。
数時間しか経ってないから?
ぽつりとこぼれ出た言葉は、誰にも拾われずに闇夜に溶けてしまう。
視界の隅。湖の上でたくさんのピスキーたちが輪になって踊っているのが見えた。
島に生息する彼らの総数がどれくらいなのかは知らないけれど、少なくともあれだけの数の妖精が集まっているのは初めて見た。
ピスキーが何者なのか、そういえば知らない。
王宮内の図書室にある本には、幼くして亡くなった子供の魂と周辺のエーテルが融合したものだと書いてあったかしら。
妖精か。
はじめのうちは、彼らの姿を見かけるたびに巫女になったんだなぁ、なんて感慨深くなったものだけど。
私はエストの加護がないと妖精を見ることもできず、精霊の声を聴くこともできない中途半端な存在だ。
なんで私なんかを守るために。
いいえ、わかってる。私が彼らの立場ならきっと同じことをしたでしょう。その人が役に立つか否かで行動を変えたりしない。大切だから。生きていてほしいから動くんだもの。
だから私は彼らの分まで自分の人生を大切に生きるべきなのだ。
だけど。
私だって、彼らに生きていてほしかった……!!
『わぁー』
『すごいねー』
『きれいだねー』
『おおきいねー』
『ねー』
湖の上で妖精たちが歓声をあげた。
少なくとも数十、もしかしたら百近い数の妖精たちが、自分たちの頭よりも少し上を見上げて喜んでいる。
妖精族のお祭りだろうか。
手を叩いたりクルクル飛びまわったりしながら、その頭上に光る花火を楽しんでいるようだ。
彼らに、巫覡や精霊の死は理解できないのかもしれない。
ただいつも通りに遊びまわる妖精の姿は、私を辛うじて日常に留め置いてくれる気がした。
ああ、いつの間にか世界は真っ暗闇だ。
月も星も明るく照らしているけれど、今夜は特に島の明かりが少ないから暗く感じてしまう。あの灯台のあかりがなければもっともっと深い闇に包まれていたはず。
「っ!?」
灯台のあかり……?
体を起こしてしっかりと海辺の灯台を見据えるけれど、やはりあかりは灯っていて、暗い海路の目印としての仕事を全うしている。
――石を積み上げただけだからな、入るもなにも、そもそも中がない
ちょっとだけ自慢げにしていたイフライネの言葉が思い出される。
あの灯台はイフライネにしか点せない。
まさか。
心臓が早鐘を打つ。
いいえ、今日はずっと天気が悪くて暗かったから、昼間からつきっぱなしだっただけでしょう。
本当にそうだった?
嵐は突然やって来て、精霊にはそのまま噴火活動を抑制しに向かってもらったのではなかった?
目の前に浮かぶ藁に縋りつきたい思いと、藁ごと溺れたくない、このまま何も知らずに沈んでいたいという防衛本能が拮抗して、胸を痛いくらいに締め付ける。
ゆらゆらと光る優しいあかりから目を離せずにいると、ハーブの香りを乗せた風が私の頬を撫でて木々がさわさわと鳴いた。
その葉擦れの音の中に、甘えたような動物の声が聞こえた気がして、私は周囲を見渡した。
絶対に、猫の声だった。
聞き間違えるはずがない。
もしかしてイフライネがいるんじゃないかと、精霊の存在を感じ取るために意識を澄ませてみるけれど、やはりそんなものは見つからなくて。
落胆と、捨てきれない希望とに苛まれながらもう一度辺りを見回すと、確かに、猫がいた。
朱い猫は、目が合うと踵を返して木々の陰に隠れてしまう。
急いで追いかければ、私よりも幾分離れた場所から尻尾を揺らしてみたり、ちらりと振り返りしながら先へ進んだ。まるで私を誘導しているみたいに。
「まって……。どこへ行くつもりなの?」
先を進む猫に声を掛けても、ニャアと返事があるだけ。もしかしたら、もしかしなくても、ただの猫、なのだろう。
それでも導かれるままに山道を歩いていると、彼または彼女は、ついに私をハーブの香りが溢れる大きな建物へ連れて来て、そのまま扉の隙間から中へと消えてしまった。
「ちょ……っと、これ、神殿……! 待って!」
入ってはいけない。
中では彼が眠っているのだから。彼の眠りを妨げないで!
大きな扉を押し開けて、猫を刺激しないよう静かに奥へと進む。
ダイニングテーブルをふたつ並べただけの簡素な寝台に彼は眠っているはずだ。
今夜はここへ来たくなかった。
彼の不在を、今夜くらいは忘れたかったから。
「どこにいるの……? 酷いことしないから出て来て……」
できる限りやわらかな声で猫に語りかけ、上下左右と視線を走らせる。暗闇に紛れてしまっているだろうか。
月明かりだけが頼りの神殿では、どれだけ目を凝らしても小さな逃走者を見つけることができない。
そのうちに、いちばん訪れたくなかった場所へ到着してしまった。
礼拝所の最奥、大きなクリスタルの手前に彼は横たわっている。今はなにもない大きな空っぽの窓から、一身に月の光を浴びて。
あまりにも月明かりが眩いものだから、彼がゆっくり眠れないのじゃないかしらと心配になるくらい。
「イフライネ……」
彼の足元で丸くなって寛ぐ猫の姿は、いつだったか祠の中で眠るレイモンドに会いに行ったときのイフライネの姿と、まるで同じだ。
耳をぴくりと動かして緩慢に頭を持ち上げたかと思うと、目を細めてニャアと鳴いた。
その刹那。
神殿中の灯りが一斉に点って、眠るレイモンドを煌々と照らし出した。
オイルランプも、ロウソクも、どれも柔らかく温かな色をしていて、揺れる明かりに照らされたレイモンドの寝顔はまるで微笑んでいるかのようだ。
思わず一歩、また一歩と彼に近づいてしまう。
彼はもういないのだと確認するのが怖いのに、なんだか今にもパチリと目を覚まして、「おはよう」と笑いかけてくれるような、そんな気がして。
「レイ……」
手を伸ばして頬を撫でる。
冷たい彼の頬は、それでも灯りのせいか幾分か血色がよく見えた。
床に膝立ちになり彼の右肩に左頬をのせて目を閉じれば、彼の腕に包まれているように錯覚して、アタマの隅でなにをやってるのかしらと呆れつつも、離れられない。
ずいぶん長いこと外にいたから、私の手足もだいぶ冷えてしまった。
そろそろ屋敷に戻らないとドリスが慌ててしまうだろう。
でももう少しだけ、もう少しだけ……。レイの香りに包まれていたいから。
「君は凍死でも目論んでいるのかい」
頭の上から、多分に呆れを滲ませた、けれども慈愛に満ちた大好きな声が響いた。
一体何が!?(すっとぼけ)




