第104話 終わりです
神殿には、たくさんの人がいた。
ドリス、ジャン、ガイオ、それに作業者らしき人達や、祈りを捧げに来たと見える民も。
私とレイが神殿に到着したとき、彼らは我先にと走り寄って来たけれど、私たちの表情を見てその歩を止めた。
私たちは彼らに声を掛ける余裕も持たず、ただ最奥に祀られているとびきり大きなクリスタルのところへ向かう。
レイは杖を掲げて、私はビーから取り戻したネックレスを握り締めて、エストへ呼びかけた。
正気に戻って。
もう大丈夫だから。私もレイも、こうしてあなたのそばにいるから。
レオフリックに剣を突き付けられたときに感じたのと同じように、島中から民の祈りが聞こえてくる。
激しさを増した火山の様子に、祈りの声もどんどん大きくなる。
と、そのとき。隣にいたレイがふらりと揺れて、そのまま私のほうへと倒れ掛かってきた。
ガランと杖が転がる音が礼拝所に響く。
「レイ!?」
かろうじてバタンと倒れることは免れたけれど、私にレイを支えきるほどの力はなく、どうにか彼の上半身を支えながらゆっくりと床へ座る。
頭を膝に乗せ、改めて彼の姿を見るとそれは。
え……。
なに、これ。
投げ出された彼の左手が赤く染まっているのを見て、反射的にローブをまくると、レイの左わき腹は真っ赤に染まっていた。
ローブもまた彼の血を吸ってずいぶんと広範囲に赤くなっている。これを見ただけでも相当の出血があるのがわかる。
ひどい汗と、真っ青な顔に私の血もどこかへ引いていってしまった気がした。
そういえばさっき、彼の動きに違和感を覚えたのではなかった?
どうしてこんなことに。
こんな酷い怪我をしていながら、無理して……。
「ごめん、もう、少し、もつと思ったんだが」
「ばか……」
もう、ばかばっかり!!
レイも、イフも、みんなバカすぎる!
涙が止まらない。
この島に医師はいない。
精霊に応急処置をしてもらうこともできない。
レイがゆっくりと手を伸ばして、私の頬に触れる。私もその手をとって頬でその温かさを感じた。
こまかく息を継ぎながら唇を動かす。
「リア……、伝え、ておかないと」
「喋らないで!」
「いや、言っておかないと、後悔する、だろ。前みたいに」
「やだ……言わないで、あとでゆっくり聞かせてちょうだい。ほら、噴火を止めてから、ね、北の岬に行きましょう」
レイが力なく笑った。口の端を少し持ち上げるだけの苦笑い。
苦しいのか、痛いのか、眉はずっと辛そうに寄せられていて、でも私を見つめる瞳は柔らかい。
「リア、愛してる。ずっと昔から、これからも」
「私も! 私もなの! だから置いていかないで、ねぇ」
ひとつ長く息を吸ったレイモンドは、それを吐き出さないまま瞳を閉じた。頬に寄せられた手も力を失って、私の手からするりと落ちる。
「レイ……? ねぇ、レイ」
呼びかけるけど、返事はない。
私たちの様子を伺っていた人たちが、レイを偲んで泣いているらしい。すすり泣く声を私は受け入れられない。
『あれー? レイいないー』
『おとしもの、もってきたのにー』
『りあー、レイどこー?』
『さっきまでここにいたのにねー』
「あなたたち、見えないの? レイ、ここにいるでしょう?」
『いないよー』
『これレイのおとしものー』
『りあがもっててー』
妖精たちが運んできたのは、ぷつりと切れた組み紐だった。
見ればレイの左手首には何もない。
彼の願いは、叶ったのかしら。
叶ったとして、生きていなかったら意味がないじゃない。
「ばか……」
妖精たちから受け取った組み紐を握り締めたとき、またひとつ大きな地震が島を襲って、各所から悲鳴があがった。
ああもう、ああもう、ああもう!
「私たちは無事だって言ってるのに!! いつまで拗ねてるのよ! レイを返して!!!」
エストの説得を諦めて、噴火によって彼とともにこの生を終えられたらどれだけ幸せだろうと、そんな思いがないわけじゃない。
でも、私が民を連れてきてしまった。
貴族であることをやめて素直に生きようとしたって、自分のしたことの責任はとらないといけない。
それに、巫女が神と精霊と民の全てを諦めるわけにはいかないじゃない。
「エストのばかーっ!!!!」
ありったけの大声で叫ぶ。
バカな精霊に、バカな巫覡に、バカな神様だ。
「バカは言いすぎじゃろ」
目の前に立っていたのは、真白な髪と虹色の瞳を持った背の高い美丈夫だった。
澄んだボーイソプラノとは程遠い、よく通る弦楽器のような不思議な声音だ。例えるなら、コントラバスの高音と低音を同時にかき鳴らしたかのような。
それでもこの人間離れした存在がエストだと知っている。
怒りのあまり子供の姿に擬態する余裕をなくした、島の神の真の姿。この世の者にはあり得ない美をまとっている。
「だってバカでしょう……。あなたがいつまでも怒ってるから」
レイは。イフは。
「民もずいぶんと祈るようになったものじゃ」
「……」
目を細めて顎を上げたエストは、おそらく民の声を聴いている。
その表情は楽しげで誇らしげで。
人ならざる存在とちっぽけな人間である私と、相容れない価値観の差を見せつけられた気がした。
「リアよ、祈れ。正しく祈れ。民の声を儂に届けろ」
「恨むからね」
「それは正しい祈りとは呼ばん」
ニヤリと笑う神を小さく睨んでから、瞳を閉じていつものように祈りを捧げる。
噴火がおさまったら、今度こそ静かに自由に暮らそう。
王配なんてもういらない。レイを思って静かに暮らそう。
干からびてしまうんじゃないかと思うくらいに、閉じた目から涙が溢れ出して止まらない。
レイがいないこの先の人生は、きっとどこかにヒビの入ったグラスのようにいつまでも満たされることはないんだろう。
この気持ちに気づかなければ。
そしたら、こんなに苦しくなかったんだろうか。
どれだけの時間が経っただろう。
ネックレスを握って、頭上に輝くクリスタルへ祈りを捧げているうちに、目の前がどんどんと明るくなっていくのがわかり、そっと瞼を持ち上げる。
まだステンドグラスのはまっていない空間には、薄い板が貼ってあったはずなのだけど、嵐がそれを剥ぎ取ってしまっている。
雨と一緒に風が枝や葉をたくさん運んで来ていたそのがらんどうから、光が差していた。
その暖かな光に私はやっと終わったのだと悟って、真っ白な空を見上げる。
さっきまでの大嵐が嘘みたいに、鳥がチチチと囀っている。
それから程なくして、遠くの方から民の歓声が風にのって神殿へやってきた。それに触発されるように、神殿の中にいた誰もが小さく、やがて大きく、喜びの声をあげた。
エストの姿はない。
膝の上のレイモンドは、さっきよりも白く見えた。
頭を近づけてその唇に触れるだけのキスをする。
ひとつ涙がこぼれて、まだ干からびてなかったんだと少し笑った。
「お嬢様」
背後からドリスの心配そうな声が聞こえて、私は袖で顔を拭う。
ぜんぜん、貴族であることをやめられてない自分に、また少し笑った。
ジャンピング土下座。
いやぁまさかこんなことになるとは。騎士団との闘いでバルくんをかばったとき、割としっかり攻撃くらっていたようです。
 




