第101話 気づいたのです
レオフリックが驚きに目を見開いて剣を取り落とし、耳障りな金属の音が辺りに響いた。
痛みは感じない。
ゆっくりと顎を引いて胸元を確認するけれど、やはり、傷はない。確かに私はいま目の前に転がる剣でこの胸を刺し貫かれたはずなのに。
周囲のざわめきの声が段々と大きくなって、その中には魔女だ、という言葉もあるのがわかる。
それらの声に周りの様子を伺うと、誰もが驚きの表情でこちらを見ていた。
すぐ側では、俺は確かに心臓を一突きにしたはずなのに、とレオフリックが自らの手のひらを見つめている。
まだ、生きてる。そう思ったとき、私は首元のネックレスの存在を思い出した。
レイモンドがくれた、精霊たちの加護を受けたクリスタルのネックレス……動物避けと、悪意を持った攻撃から身を守ってくれるお守りだ。
安心してほっと息を漏らすと、ボナート公爵が怒声をあげた。
「レオフリック、守り石だ!」
その声に反応して、飛びかかるようにレオフリックが私の首元へ手を伸ばした。
慌てて身をよじるけれど、拘束された状態で逃げ切ることは叶わず、ネックレスは少しの痛みを残して首から引きちぎられてしまう。
軽くなった首元に、私はついに心細さを感じた。
精霊たちの守りがなくなったことが肌で感じられ、無防備なのだと実感する。ネックレスの存在は、無意識にも私に余裕を与えてくれていたらしい。
「次はないぞ」
すぐ側で、土を踏みしめる音。レオフリックが剣を構え直したのだ。
王国騎士たちが使うバックソードは先端が両刃になっていて、突き刺すのもまた容易いと聞く。
そう。次はないのだ。
あまりの緊張に、体中に叩きつけているはずの雨粒すら感じられない。背中を流れたのは雨か、汗か。
口の中はすっかり乾いてしまってるし、呼吸が荒くなっているのもわかる。これは恐怖だ。
心臓の音がすごく大きく聞こえる。今度こそ、私は死を覚悟しなければならない。
結局、何もできなかった。
自分のために祈ってくれる民のためにも、この祈りを聞くことができるという巫女を頼ってくれた精霊のためにも、そして神のためにも。
私のために、予定よりも早く目覚めてくれたレイモンドのためにも。
何もできなかった。
死を覚悟するのは二度目だ。
あの荒れた海の上で、私はどんな後悔をしたのだったかしら。
ケーキを毎日食べたり、市井にお出かけしたり、恋をしたり。
自由に生きればよかったと嘆いたのではなかった?
あの日、命を繋ぎとめて、私は人生をちゃんとやりなおした?
いいえ、結局、自らに貴族たれと枷を嵌めて、あるべき姿を演じ続けた。
それが自分の幸せだと思い込んで。
結婚相手も国のためになるか否かだけで判断して、相手の夢すら奪った。
何も、できてない。
前世だってそうだ。
好きだって気持ちを、立場だとか年齢だとかに縛られて隠して無かったことにしようとした。
彼に何も伝えられないまま死んでしまった。
何も、変わってない。
死にたくない。
もう死にたくない。
──レイ。
ごめんなさい、レイモンド。私は素直じゃなかった。政治に感情は必要ないと、心に蓋をしていたの。
貴方の居場所を作れたらそれでいいと自分に言い聞かせてた。それ以上を望んではいけないと。
こんな状況じゃないと、本当の自分の気持ちに気づけなくてごめんなさい。
島を守りきれなくてごめんなさい。
精霊たちを守れなくてごめんなさい。
何もできなくて、ごめんなさい。
恐怖で閉じることができなくなった瞳は、目の前の光景をスローモーションのようにただ無機的に映しだす。
騎士に支給されるバックソードを腰だめに構え、態勢を低くするレオフリック。
切っ先はとても近くに感じられ、刃に落ちる雨粒のひとつひとつまでが鮮明に見えた。
これから人生を終えるというのに、まるで他人事のように淡々と目の前の光景を見つめ続けてしまう。
たまに瞳に溢れる涙が景色をぼんやりさせ、すぐにぽろりと落ちてクリアになる、というのを何度か繰り返すうち、レオフリックがゆらりと前傾になった。
「レイ、愛してた……」
届かない言葉を置き土産にこぼしたとき、左足を踏み込んで切っ先を差し込もうとしたレオフリックが、弾かれたように飛んだ。
「……っ!?」
一瞬、何が起きたのかわからなくて、ただ数メートル飛んだレオフリックを眺めていると、私を取り囲んでいた他の騎士たちがそれぞれに腰から剣を抜いて構えだした。
ただ彼らの狼狽が切っ先に表れていて、ふるふると焦点が覚束ない。
「過去形かい、リア? 悲しいなぁ」
背後から発せられた言葉は、それが持つ意味とは裏腹にとても楽し気だし、柔らかな声は私の鳩尾のあたりをぎゅぎゅっと刺激して痛いほど。
私が振り返る前に、彼は後ろから優しく私を抱き起してくれた。
「レイ──っ!」
「僕の後ろにいて、離れないで。僕はいま、すごく怒ってるんだ」
私の手を拘束していたロープは、レイモンドが触れただけで炭化してぼろぼろと地に落ちる。
自由になった手をレイモンドへ伸ばすと、大きくて温かな手がそれを引っ張って、私は彼の腕に包まれた。
一度だけきつく抱き締めてから、彼は優しく私を背後へ押しやる。
彼の背中に守られながら改めて見回した島は、この天変地異の影響で大きく様変わりしていた。
大雨で地すべりを起こしたのか、山肌が見えているところがいくつかある。
広く重く空を覆っていた暗い雲は、掃除機で吸ったみたいにぎゅっと圧縮されて島の真上にあり、その向こう側の空は雲ひとつない快晴だ。
ベースキャンプのあるあたりでは、竜巻が発生しているのが見えた。あれが雲を集めているんだろうか。
島の周りに溢れる光は私たちのところには届かない。
エストに私の声が届かなかったように。
「ば、化け物だ……っ!」
騎士の誰かが叫んだ。
その言葉を皮切りに、震える剣を持った騎士たち口々に魔女だ化け物だと言いだし、そして少しずつ後退った。
「精霊を信じないでなんで魔女を信じる? これはぜんぶ神と精霊の怒りだ。巫女を害したお前たちへの」
レイの声は決して大きくなく、荒げてもいない。
それなのに、その声は誰の耳にも等しく届いたようだった。
怒りに身を震わせたレイのローブは、風に煽られてパタパタとはためき、フードもばさりととれてその黒髪を風に泳がせている。
「巫女って、なによ。あたしが巫女なのに!」
屋敷のポーチでクララが叫んだ。
彼女は、これもまたゲームのイベントだと思っているんだろうか。
「この島の巫女はアナトーリアだ。精霊も妖精も見えず、民の声も聞こえないまがいものが、正統なる巫女を傷つけた罪は大きい」
「おい! あの男をどうにかしろ!」
クララに敵意を向けたレイをどうにかしようと、フィルが騎士団へ指示を飛ばす。
いつの間にか起き上がっていたレオフリックが、剣を構えてレイモンドの眼前へ立ち、パニックから抜け出した騎士たちもまた、戦闘態勢のままじりじりと距離を詰めてきた。
思わず背中に触れた私に、レイモンドは小声で「大丈夫だよ」と言いイタズラっ子のような笑みを浮かべる。
アニーちゃんの危機をマジックアイテムが救ってくれました! デジャヴですね!
一足遅くレイモンドが来るところまでデジャヴ!
この作者、同じ方法を何回でもやるんですよ、困りましたね。しかし危機はまだ何も去っていませんので呆れずお付き合いいただけましたらありがたいです。