恐怖
◇
「また寄ってくださいね、朱さん」
シュウジさんの送り出す声で、オレ達はハッと気が付いた。いや、それまでの記憶は確かにあるのだけれど、極酪とワインを飲んでからの時間が一瞬で過ぎ去っていたのだ。
正に極楽と言わんばかりに多幸感だけが残っており、プチ浦島太郎のような体験だった。
それは朱も同じだったようで、気分を取り直すためなのかプルプルと顔を何度か振っている。
オレはため息に先陣を切らせて喋りはじめた。
「すごかったな」
「ああ。それ以外の感想が出てこないな……あっ」
「どうした?」
「姉上の事をすっかり忘れていた」
「あ」
オレ達はそろって朱が来ている黒い道着を見た。なんとなくだけど、纏っているオーラが重々しいような気がする。
恐る恐る声を出してみた。
「あの…玄さん。聞きたい事があるので手を出してもらっていいですか?」
ついつい敬語になってしまったのは、勿論後ろめたさからだ。途端に黒い道着の袖から朱のモノではない白い手がニュっと現れた。
「もしかして怒っているようでしたら、手を引っ込めてもらえます?」
すると言うが早いか、物凄い速さで玄の手が引っ込んだ。それを見て久しぶりに妖怪を怖いと思ってしまった。顔色も声色も分からないせいで余計に恐怖心が煽られる。
オレと朱は互いに青ざめた顔を見比べていた。そしてものすごい勢いで脳みそを回転させて玄の機嫌をどうやって取るかを考えはじめていた。
「あ、姉上。着替えましょう。今度は姉上が円殿と一緒に西洋の酒を楽しんでください」
「そう。オレも今そう言おうと思っていた。そうしよう」
「では一度、店に戻るか?」
「いや時間が惜しいし面倒だ。こっちに来い」
オレは朱を手招きしてThe Hand’s of Fateから少しそれたところまで連れていった。そこは人間がようやく交差できるくらいの通路が何本も枝分かれしており、下町の路地裏のような物悲しさと高揚感に包まれていた。
その路地の入口の脇に真っ暗な穴がぽっかりと空いている。オレはそれを指差すと、
「あそこを使え。妖怪なら中に入って好き勝手できるらしいから」
「何だあの隙間は?」
「あれは『仮常世』って穴で妖怪が入るとちょっとした小部屋として使えるんだ。何かの事情で変化が解けたり、人の目を憚る必要のある妖怪が少しの間身を隠すのに使う」
「人間は入れないのか?」
「人間も使えない事はないが、どんなに光を当てても人間の眼には常に真っ暗にしか見えないから酔いつぶれたときに妖怪に踏みつけられるのを覚悟して寝床にするくらいしか使い道がない。んなことよりさっさと玄に変わってやれ」
「うむ。そうであった。姉上、もうしばらくお待ちください」
朱は足早に仮常世の闇の中に消えていった。
それから待つこと少し。
赤い着物に黒髪の生えた女が、すらりという音を立てて出てきたのだった。
出てくるが否や、玄は軽くはにかんだ笑顔でオレを見てくる。それが怖い。こういうときはひたすら謝るが吉というのがオレの経験が語ってきた。
「すまん、まさかあれほどまでに我を忘れるとは思わんかった」
「ひどいです…円様も朱も。私、何度か服を引っ張りましたのに。ワインも飲んでみたかったです」
「また必ず連れて行くよ。何だったら今から店に戻ってもいいし」
「いえ、折角ですから別のお店でワインでないお酒を飲ませてください」
「そ、そうか?」
すると玄はニコリとして言った。
「はい。けどそれは朱と交代したというだけですから、円様にも一つお詫びの印を頂きたいです」
「何をすれば…?」
「一つ、お願いを叶えてくださいまし」
その言葉にオレは自分を取り巻く女たちの顔がいくつもちらついた。主に鈴だったが。
何かをやらかした時にはほぼ必ず、こういうおねだりに似た脅迫をされてきた。正直良い気はしなかったが、相手は他ならぬ玄だ。あいつらよりも無茶な事は頼んでは来ないだろうと高を括って安易に返事をしてしまった。
「ああ。オレにできることだったら」
そういうと玄は、慈母のような安らかで全てを包み込むような笑顔を見せた。冗談ではなく後光が差しているようにも思える。背丈はオレの方が高いはずなのに、何故か圧倒される。
その笑顔に違わぬ程、優しい声で言う。
「では、店に戻りましたら清肝茶をお飲みください」
…。
…は?
「確かに約束いたしましたよ」
「いや、それは」
「では参りましょう、円様。私にはどのようなお店とお酒を紹介してくださるのですか?」
そう言って先ほどと全く同じ笑顔を見せてきた。そのはずなのに、まるで今度は鬼のようにも見えた。
まさか鈴以外に、こんな怖い笑顔を作れる女がいるとは夢にも思わなかった。
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