一日目(遊星天)
ママの田舎へ帰ったとき、私はある森へ迷い込んだ。
どうしてその森に這入ったのかは良く覚えていない。
覚えているのは、まるで夜空をそのまま切り抜いて貼り付けたような黒い森と、宇宙に散りばめられた惑星みたいに発光し森を漂う昆虫たち。
その不気味な森に私の肉体は捉えられ、
その不思議な昆虫たちに私の心は捕らえられた。
私は歩くことさえままならずその場に座り込んで泣きじゃくるのがせいぜいだった。
森には私の泣き声しか響いていなかった。
鳥の囀りも獣の遠吠えも、私の耳には届かない。
まるでこの森には、私と昆虫たち以外には生物はいないのではないか? 今ではそう思うくらいに、あの黒い森はあまりにも無機質だったのだ。
ときどき、私には空を見上げてしまう癖がある。勿論、あの黒い森で体験したことが起因となっているのは明らかだった。
空を見上げた私の視線の先にあるのは、
青い空と白い太陽、
そして、
太陽から零れ落ちたかのような生命を持った黒点。
意思を内包した猛禽の眼、
空中で停滞する美しくもグロテスクな黒い翼、
神聖と邪悪さを兼ね備えた発光するシルエット、
狂気を象徴したかのような三本脚の奇形。
そうだ、
あれは、
私が見るあの鴉は、
私が迷い込んだあの黒い森の具現化された姿なのだ。
「なにをしているの?」
私の頬を影が横断する。影は停滞したままで私を空から隔絶していた。
「思い出を見ていたの」影の主、私はツクヨミの眼に焦点を合わせて彼女に応える。
「思い出?」首を傾げてから、ツクヨミは後ろを振り向く。「空しか見えないけど?」
「そこに私の思い出が浮かんでいるのよ」
「雲みたいに?」振り返ってツクヨミは微笑んだ。「随分ロマンチックじゃない? それともセンチメンタル?」
「そんな高尚なものじゃないわ。厭な……、思い出よ」
ツクヨミは首を竦めただけで、あとはなにも言わなかった。私と同じように芝生へ寝転んで空を眺める。必要以上に立ち入らないのは彼女の良いところである。それだからこそ彼女と長く付き合っていられるのだろう。空をぼんやり眺めながら、私は彼女をそんなふうに評価する。
鴉はいつのまにか消えていた。
いや、その場からいなくなっただけだ。
鴉の視線が皮膚を通して伝わってくるのが、私にはわかる。
視線だけを使って私は鴉を探した。
鴉は……、いた。
身体を枝に三本脚で固定させて、私を見下ろしていた。
鴉と眼が合う。
どこかで見たような瞳だ。
だけど、どこで見たかは良くわからない。
ふと、頭痛が私を襲った。
それから、ノイズ。
思わず瞼を押さえる。
「どうしたの? 大丈夫?」横からツクヨミの声。
私は「大丈夫よ」と彼女に応える。
まだ迷っている?
また、声。だけどツクヨミの声ではない。
男の子の声だった。
迷っている? 私が?
そう君は迷っている。
ああ……、君はまだ迷っているんだね。
今でも君はあの黒い森を彷徨っている。
でも、僕にはもう君を導く力は残されていないんだ。
あとは、君が自分の力で黒い森を抜け出さないといけない。
君は、君のトラウマを、君の力だけで克服しないといけない。
ベッドの上で君を眺めていたように……、
ただ、僕は君を見守ることしかできない。
泣いている君を連れ出したみたいに……、
もう僕には君の手を引くことはできない。
駄目! あの子の傍に居ちゃ駄目よ!!
ママ……、どうしてそんなことを言うの?
あの子は不吉だわ……、早くいなくなれば良いのに。
ママ……、どうしてそんな酷いことを言うの?
見ちゃ駄目っ! あなたまでおかしくなっちゃうわ!! そんなことになったら、私……、私。
ママ、ママ、どうして、どうして、そんな酷いことばかり言えるの?
ねえ、ママ。
ママお願いだから教えてよ。
ねえ……、
「どうしていつも黙ってるのよ!? ヒコナのことになったら、ママはいつもいつも!!」
「ちょっ! 大丈夫、スクナ!?」
ねぇ、スクナ。
頼みがあるんだ。
そこにあるプラグを抜いてくれないかな?
重くて、しかたがないんだ。
ねぇ……、
スクナ……、
「スクナ! 大丈夫なの? スクナ!!」
スクナ!! お前はとんでもないことをっ!
その声を聞いた瞬間、私の頬に鋭い痛みが走る。
思わず振り向いて、私は彼女を睨みつける。
彼女は、ツクヨミは、手のひらを空中に停滞させ、肩を小さく震わせていた。
「ごめん」彼女は言った。瞼を伏せたままで。
「良いのよ。寧ろ、お礼を言いたいところね。ありがとうツクヨミ、あなたのおかげで戻ることができたわ」
「最近……」瞼を伏せたままでツクヨミは言った。「スクナはおかしい。最近、多いよ。このままじゃ私、私、スクナがどこかいへ行ってしまいそうで怖い」
「大丈夫。どこへも行かないわ」私は彼女に微笑んで、それからツクヨミの瞼に二回キスをする。「だって、あなたがいるんだもの」
ツクヨミはなにも言わなかった。
私は鼻息を漏らしたあと、鴉がいた木の枝を見る。
「田舎に一度戻ろうと思うの」
「どうして?」
「夏休みだから」
「なによぅ。そのまんまじゃない」
振り向くとツクヨミが頬を膨らませて私を睨んでいた。
私は彼女に微笑み返す。
「冗談よ。おぼろげだけれど、色々思い出してきたわ」
「なにを?」
「三本脚の鴉」
「鴉? 三本脚? 意味がわからないけれど……」
「言ったでしょう? 空に浮かんでいる私の思い出。私はあれを返してあげないといけない」
そう。黒点は太陽に戻るべきだ。
いつまでも太陽から零れ落ちたままではつまらない。
私はまた木の枝に視線を戻した。
枝に留まっていた鴉はもういない。
きっと、先に行って待っているのだろう。