北の都 15
「おお、お戻りになりましたか!」
予想通りの展開。
外周部から中心街へ戻ったが当初の予定より大分遅くなってしまった。
ラスターには少し申し訳なくもある。暗くなってから何時間も待たせてしまったかもしれない。
煌々と輝く宮殿の入り口に立つ人々。
「ささ、色々とご用意もして……お、おや? それは一体どうされましたか!?」
ジョゼ支配人は戻ってきた安堵に加え、ラスターの上等な格好を見てますます慇懃な態度になったがすぐに異変に気付く。
その服に付着した汚れと饐えたような匂い。
「あ、ちょっと転んだだけです、すいません」
「まさか貧民街に行かれたのですか?」
ラスターの表情がおや、と言う顔になる。
「貧民街という呼び方があるのですか?」
「あ、いえいえ! これは言葉を間違えました」
誰もがそう呼んでいるが、ガゼルトでそう名付けられている訳ではない。
勝手にガゼルトのイメージを悪くしたなどとうっかりラスターの口からその言葉が飛び出せば、どんな叱りを受けるか分かったものではない。
最初に出会った時、田舎者と強気な態度で接してしまった事も忘れて貰う必要がある。
意気揚々と無事出席を取り付けたと報告した際の接待指示の念の入れようには肝が冷えたものだ。
「ほら、すぐにお召し物の替えをお持ちして!」
接待を言いつけた女に促す。
メイド業の中で伽も可能という高額で雇った女だ。
今回自由にした失態を問われれば目を離したこの女の責任と言おう。
ラ・ゼペスタの夜の景色。
上空に半円の月。
薄っすらたなびく雲。
中庭と建物の壁はランプの光を受け、幻想的な雰囲気を醸し出している。壁の向こうに目をやれば、その奥には闇に小さく続く夜のガゼルト市街を彩る明かりの数々。
何度見ても美しい。
夜の光景も壁に掛けられているどの絵画より遥かに美しく、何時間でも見ていられそうだ。
ただ、その明かりの先にはあの路地がある通りが闇に沈んでいるはず。
そう思うと複雑な気持ちになる。
「卸した時と何一つ変わらぬようにしてお召し物は朝までにご用意致しますので」
ベッドメイクや飲み物を用意してくれていた女性従業員が話しかけてくる。
「普通に洗って貰えるだけで充分ですけど」
「それが私共の普通でありますので」
艶然と微笑んでそう言ってくる。
硝子の前から離れない俺のそばに来る。
耳元でそっと囁く。
「お風呂のご用意もできております」
ゴクリ。
うそうそ。
「如何致しましょうか」
いやほら。ね?
やっぱりそうだよ。
絶対これ「お背中お流し」パターンだって。
「どうするって言うのはどういう意味ですか?」
うーん白々しい。
「……」
女性従業員は無言で俺のシャツのボタンに指を掛ける。
「ああ、大丈夫です。自分で脱げますよ」
「遠慮なさらずともお任せくださればよろしいのに」
そっと手を掴んで戻した俺に微笑んでくる。
やっぱりそういう事だよな。
弱みを握って有利にしようという事なんだろう。
「一人で入れますから。用がある時はお願いしますので隣に戻って下さい」
「そういう訳には参りません」
困ったように眉尻を下げて俺に縋るように近付き見上げてくる。
そうなの?
じゃあしょうがないか……。
とはならない。
いかんいかん。
「ちゃんとしていただいてますって言いますから、心配しないで下さい」
「お優しいのですね」
「そうじゃないですけど」
「ガゼルトは如何でしたか?」
唐突な質問。
「ちょっと前より発展してますよね。実に素晴らしい都市だと思います」
ここは無難な返事を返す。
「本当にそう思われましたか?」
「勿論です」
露骨に探りを入れてきたか。
やっぱりそういう役目で間違いない。
「では隣に戻る訳には参りません」
「……それは、どういう」
「コモーノに伝える事が一つくらいなくては困ります」
トン、と後ろに距離を取る。
一瞬で広がった霧が女性を包み、俺の知覚が緩慢な世界へと入り込む。
部屋中に乱反射した粒子が室内を鮮やかな形として浮かび上がらせ、住み慣れた自分の部屋のように全ての配置を知覚する。
同時に伸ばした糸。
ゆっくりと胸元に手を差し込む女性の動き。
危険は無し。
それを確認すると少し警戒を緩める。
もしかして彼女がコモーノさんの言っていたサポート。連絡役か?
それはそれで一応納得は行く。
勿論こちらの動きを察知したガゼルト側の罠という可能性もあるが。
夜になれば接触してくると言われていたが、こうして既に送り込まれていたとしても不思議はない。
念の為、霧に込める魔力密度を上げる。
女性が白いシャツの胸元から取り出そうとしている物。薄く四角い物体。
封書だと分かる。
考えすぎか。
封書以外には何も無い。
その下には、シャツを押し上げる丸く張りのある豊かな肉――。
おお、いかん。そうじゃない。
霧を解く。
スウッと時間の感覚が戻り、着地する。
高級な絨毯が吸い込んだせいで音も無く飛び退った俺に、女性は二本の指で挟んで封書を取り出し終えると顎先に構え、微笑む。
「お見事ですわ。私の誘惑に乗らなかった慎重さも、すぐに警戒したその反応も」
試したってか。
危ない所だった……。
「女性恐怖症なもんで」
まだ罠かもしれないと惚ける俺に、これまでとは全く違ったニヤリとした笑みを浮かべる。
「お読み下さい」
投げられた封書を受け取る。
封蠟の印は無し。
中の文字は間違いなく、コモーノさんの流麗な文字だった。