梟の町 5
「もう大丈夫でしょう。落ち着いています」
ずぶ濡れで宿へ戻ったラスターとモリナだったが、主人はすぐ近くだった医者の家へ使いを走らせ、医者を呼んでくれていた。
モリナが持っていた薬を飲ませると、程なくして医者が笑いかけモリナを安心させるように頭を撫でる。幸いにもオウルのこの医者がデュラム村の医者でもあったらしい。
馴染みの医者からお墨付きを貰ったモリナにようやく笑顔が戻る。
ただ何分ご高齢ですのでしばらく様子を見ましょう、との事で、騒ぎを聞きつけてきた泊まり客の手伝いを受け、ルデンテ老人を医者の家へと運び入れた。
宿の主人や泊まり客に礼を言い、用意してくれたタオルで濡れた髪を拭く。
「良かったな。ルデンテさん大丈夫そうで」
「うん。ラスター、有難う」
落ち着きを取り戻したモリナはもう大丈夫そうだ。
「ああー、どうして忘れちゃったんだろう、私」
「そういう事もあるさ。次から気を付ければ」
とりあえず頭を拭け、というラスターの言葉をモリナは無視する。
ラスターは黙々と頭を拭き続ける。
「やっぱり」
頬が少し紅潮し、イタズラな目の輝きが灯る。
「あの時ドキドキしちゃったからかな」
泣いたカラスが何とやら。
ルデンテ老人がいなくなった部屋に二人きりという状況をモリナは思い出したのかもしれない。
「ねえ、どうしよっか?」
挑発するような態度。
それでも濡れた服が体に張り付くのは恥ずかしいのか、少し体を背けている。
ラスターはふーん、とつれない返事を返す。
「どうする? 向こうのお宅の人達も心配してるだろ。どうせずぶ濡れだし、送っていこうか」
「ええ~ウッソだあ」
乗ってこないラスターにモリナが苦情を送る。
決心したようにツカツカとラスターに近付くと、ピタリとその身を寄せる。
「ね、私って子供っぽい?」
「モリナ」
「答えてよ。お願い」
それまでとは少し様子の違う真剣味を帯びた口調に、ラスターも顔を寄せるモリナの濡れた髪に視線を向ける。
「……モリナは魅力的だよ。数年もすれば男が放っとかないさ」
「じゃあやっぱり今は魅力ないってこと?」
「そうじゃなくて」
パタパタと雨が宿の壁や窓を叩く。
「……」
どう言えばいいものか困ったラスターはタオルでモリナの髪を優しく拭く。
「モリナはさ、俺みたいな男には勿体無いし」
「そんな事ない」
「いや……」
「やめて。そんなの嘘だってわかるもん」
「デュラム村にはね」
「私くらいの子も二人居るの。というか歳が近いのはその二人くらいしか居ないんだけど、男の子と女の子。小さい頃は同じ学習館に通ってて」
濡れて重くなったタオルを投げ、モリナの手にした乾いたタオルを取りラスターは作業を続ける。
「付き合ってるんだ、その二人。私はお邪魔虫って訳」
「……」
「ここの皆もなんだかんだ言ってるけど、男の子と付き合ったりもしてるし。私だけ、子供なの」
「置いてけぼりなの、私。あ、でもね、お父さんやおじいちゃんの事は好きだし、村のみんなも」
言葉が続かない。
外が光り、遠くで岩を引き摺るような重い音が響く。
「言えないよねえ、やっぱりさ。そんな事言ったって、じゃあ引っ越す、なんてできないし」
あらかた髪を拭き終わったラスターはモリナの首筋や肩を軽く拭う。
「あ~あ。私、結構良い線いってると思うんだけどなあ」
顔を上げたモリナが照れたように笑う。
「田舎娘にしては、ね?」
「モリナ」
苦笑したラスターは優しくモリナの後ろ頭をぽんぽんと叩く。そこで初めてモリナが三つ編みをほどいていた事に気付く。
「三つ編みじゃないんだな。今気付いたよ」
「最悪」
「暗かったし、状況が状況だったろ」
「まあ、そうね。許す」
笑い合う。
そっとモリナがラスターの胸に頬を寄せる。
「ルデンテさんはさ」
ゆっくりとラスターが言葉を紡ぐ。
目を閉じたモリナに届くように。
「我慢してたよ。俺が部屋に戻って来たら青い顔して」
「何でもないって言い張ってさ。ようやく白状して、どうして我慢してたのかって聞いたら、モリナの時間を邪魔したくないって」
モリナの手に力が篭もり、掴んだラスターの服から雨が滲む。
「モリナ。自分を大事にしろとかじゃなくてさ。モリナの事をそんなに大切に思ってくれてる人が居るんだ。だから、何て言うか」
上手く言えない。
モリナはただ人並みに恋愛したいだけなのだろう。周りと同じように。
こんな田舎だから、などと家族に恨み言は言いたくないという優しい心を持ち、ずっと我慢してきたはずだ。
薄っぺらい言葉など、モリナの心を無視したつまらない説得でしかない。
ふう、と息をついたラスターはモリナの両肩に手を置く。
「じゃ正直に言おう」
顔を上げたモリナと目を合わせ、じっと見つめる。
「ドキドキした。モリナは魅力的だし、もう何杯か飲んでたらやばかったかな。あ、もしかしてビール勧めたのって」
モリナが小さくはにかんだように舌を出す。
やられた、とんだ策士だったのだとラスターは舌を巻く。
「良い女だよ、モリナは。保証する」
「ほんとに?」
「そうさ。ただやっぱり成人してないと、俺はさ。世間の目は厳しいよ?」
モリナが笑う。
「必ずすぐに良い相手が現れるよ」
微笑んだラスターと束の間目を合わせたモリナの顔が不意に泣き崩れるように切ない顔に変わる。
その顔を見られまいとしてか、モリナはラスターの背中に手を回し、強く抱きつき胸に顔を埋める。
不覚にも、その顔を見たラスターは一瞬本当にドキリとしてしまった。
「……モリナ」
そのまましばらくはモリナのしたいようにさせてあげようとラスターは思ったが、濡れた体のまま風邪をひかれるのも困ると思い、止まった時間に石を投げ込む。
はっきり言ってラスターも平気を装って強がっているだけなのも否めない。
倫理の鍵も肉体的な接触の前では無力だ。
モリナも成人を目前にした女性だ。
身を委ねたいと言われて我慢し続けられる健康な男など、余程の宗教家くらいのものだろう。
「……なあに?」
「風邪ひくぞ」
「ラスターがあったかいから大丈夫」
ラスターも迷う。
モリナは完全に甘い声になっている。
今にも外れそうな箍がガチャガチャとうるさい。
また時間が過ぎる。
「結局ね」
「うん」
「いつかは分からないけど、多分私は妥協しちゃうと思うの。どんなに頑張ってみても。王子様なんて居ないもの、農家の娘に」
「……それは……」
「私がまだ十五歳だから、困らせてるんでしょ?」
「……そう、だね」
「じゃあ私の相手が同い年くらいなら誰でも構わない?」
「まさか。モリナ」
「一年後、二年後、大人になったら構わない?」
「そうじゃない。違うよ、そうじゃないんだ」
「私にとっては同じなの。周りもみんなそうなの」
「……だからって」
「それは自然な事だって、お母さんは言ってくれたわ」
その言葉に衝撃を受ける。
自分の倫理観などただの格好付けに過ぎないと。
音を立てていた箍がピタリと鳴り止み、別の何かが崩れるのを聞く。ゴツン、と響く。
流石にラスターにも分かってはいた。
男女の誘いを掛けられている事くらい。
まさかこんな通りすがりの男を本気で誘っている訳ではないだろう、恋愛に焦った少女の背伸びだろう、と思っていたが。
田舎では都会程男女の出会いが無い事も、相手探しがのんびりしていられる問題ではない事も知識としては知っている。
しかしモリナの言葉で初めて生々しい現実を知った思いだ。
最初からモリナは本気だったのだ。
時間をかけて真摯に選んだとは言い難いだろう、何しろ出会ったのはつい昨日の事だ。
しかし。
農村暮らしの女性達の生き方。
モリナの暴走でも何でもない、当たり前の姿。
はにかみながら、それでも真っ直ぐモリナはラスターを見つめる。
「恥ずかしいけど、言うね。セックスの話はお母さんが教えてくれるの。どこもそうよ」
「ああ、まあ……変じゃないよ、うん」
「こんな事言うのはラスターが初めて。私、好きになっちゃった。今、本気でこの人ならって思ってるの」
それは一時の思い込みだ。
言おうとするが言葉にはならない。
利いた風な言葉でただ説得したところでモリナには響かないだろう。ラスターもしっかり向き合うべきだ、と認識を改めている。
ただ性体験の相手を求めているだけだろうか。
自分の若い頃の周囲の人間、自分自身のそういった経験とモリナは違うのが分かる。
もっと切実な問題なのだ。
こちらが思うよりもずっと。
伴侶としてラスターを選んだ訳ではないだろう。
それが一番いいのは勿論だ。
モリナにもそれくらい分かっているはず。
しかしいつまでもそれを待つのは辛いと、モリナの住む世界では耐えられない程苦しいのだ、と悲痛な叫びを上げたのだ。
静まり返ったオウルの町。
雨と闇が全てをかき消すように二人を包んでいる。
ラスターは答えも返せないでいる。
少しだけモリナを抱き寄せ、しかしその手は微妙に離れたままだ。
拒めばそれで済む話だし、モリナを傷つけはするがそれで守れるものもある。
しかし……せっかく自分を選んでここまでさらけ出してくれたモリナが、結局は適当な別の誰かに身を委ねる事になると考えると、この手を離す決心もできない。
結局の所。
モリナに踏み込んで自分を傷つける事を恐れているだけだ。
十五歳の少女に欲望のまま手を出す事など勿論許される事ではないが、これは少し違う。
相手が何歳であれ、男女の関係になる事の責任、まして相手が十五歳ということでそこに踏み切れないだけだ。
「やっぱり駄目かな。ラスターがすぐどこか行っちゃうのは分かってる。でも、もう誰でもいいやって思うくらいなら、今失敗したい。そう思ってたんだけど」
モリナの鼓動がラスターに伝わる。
顔を上げたモリナが切ない笑顔でラスターを見上げる。
「嫌いになったでしょ? 会ってすぐで、男の人をその気にさせてやろうなんて考えて、おじいちゃんが倒れて寝てるその横で、こんな」
「モリナ」
最後のその言葉が何かを壊した。
その先は言わなくていい、とラスターは抱きしめる。
モリナを愛しいと思ってしまった。
ずるくて、弱くて、情けない。
自分はそうなんだよと、伝えられる相手なのか俺は。
お前達の間にあるものなど単なる若い男女の肉欲に過ぎない、と言われたとしても。
モリナは自分の浅ましさを自覚しながらも、隠す事無く伝えてくれた。
きっと勇気のいる事だ。
その相手は自分なのだ。
何故か、自分だったのだ。
間違ってなんかいない、と言ってあげたい。
不思議な気持ちだった。モリナが向けてくれたものは何だろう。熱を持った人間が「生きる」という事の、尊さのようなものに触れている気さえした。
十五歳の少女。
モリナは自分よりずっと深く生きていた。
頭で考えてばかりの自分。
出会ったばかりの男に心を曝け出してくれたモリナ。
空っぽの二十二年で見つけられなかった何かをモリナは持っている。それが何か、まだはっきりとは分からない。だけど確かに感じる。
「俺でいいのか」
「うん」
「明日には好きじゃなくなってるかもしれないぞ」
「いい」
未成年だとか、互いの理解が足りてないだとか、流されてるだけだとか、全てどうでも良い。
結局我慢できなかっただけだろ?
それでもいい。
モリナに落とされたというならそれでもいいさ。
この存在に応えてあげたい。
誰にも何にも恥じる気も無い。
雨の音も雷の音も耳に入らない。
静かに唇を重ねる。
纏ったものを脱ぎ捨てていく。
これで俺もモリナも明日から生きていける、そんな何かを互いに与え合えた気がした。
ただの醜い言い訳でも、いいじゃないか。