王国動乱 17
小さな水車を囲む土台に草が絡みついている。
かつては動いていたであろうこの水車も、その動きを止めてから久しい。
誰も手を入れないからだ。
村の中央に設置された井戸は潤沢に水を湛えているが、水源と海が近いせいかごく僅かに塩気を感じる。
別に飲んで喉の渇きを覚えるような事は無い。
誰かがしょっぺえなぁ、と言った言葉を自分が信じ込んでしまったという思い込みにすぎないのかもしれない。
桶を放り、バシャッと水音を聞く。
土壁でできた同じ造りの家がまばらに建つ村の、広場とも呼べない小さな空間を歩く。
いつもより遥かに賑やかでなければおかしい。
この村の住人は普段より多いはずだ。
表にはクレア以外誰も出てきていない。
クレアも外に居たい訳では無いのだが、陰鬱な家の中の空気に耐えかねて新鮮な水が飲みたかったのだ。
まだ濡れているような気がして口元を手で拭う。
おざなりにコンコンココン、というようなリズムで扉を叩くと、返事も待たずに押し開け入る。
大分適当だ。
「おい、ちゃんとしろ」
「ごめん。でもあたしだって分かってたでしょ」
一瞥だけくれると足も止めずに階段へと向かう。
壁際の椅子に座り腕を組んでいた男もそれ以上何も言わない。
トントン、とリズミカルに階段を上がると勢い良く自分の部屋の扉を開け、ベッドに倒れこむ。
(はあ。息が詰まりそう)
ポフッ、と枕に頬を落とす。
タイトな厚い生地の膝丈のスカートがはだけるのも構わず、ゴロンと仰向けになり膝を立てる。
しばらく天井を見つめ、目を閉じる。
目を開け、また天井を眺める。
雨漏りしそうでしない、古びた木目を目で追う。
重ねた時間を考えればどこがどうなっているかそらで覚えていてもおかしくないのに、見る度に変なの、と思うのは何故だろう。
体を倒し、寝転んだまま小さな棚を眺める。
最初の頃こそ眉を顰められたものの、今ではクレアの少女趣味を殊更言い立てる人間も居ない。
リボンを結んだ木箱。
真っ白で内側が虹色に輝く貝殻。
手を繋いだ少年と少女のぬいぐるみ。
どれも金銭的価値は皆無だ。
でも、クレアの部屋でいつも帰りを待っていてくれた。
思い切りシーツを引き上げると、頭まで被り丸くなる。
このまま繭になって、少しずつ溶けていって、あたし以外の何かに生まれ変われないかな。
少女のような妄想に、居なくなった両親の顔が浮かぶ。
ごめんね。
シルバから解散を伝えられたのは昨日のことだ。
散っていた仲間達が集まり、互いに冗談を言い合っていたのも束の間、クレア達は帰る家が突如として消え去ったことを知った。
皆、すまない。だがもう俺にはどうすることもできない。
それぞれこの先どうするか、話し合ってくれ。
全員が最初何を言われたのか理解できなかった。
どういう事です?
とびきり飲み込みの悪いポールの質問にも、シルバは何も答えずただ黙っていた。
何でだよ!?
俺たちゃ他になんにもできねえぞ!
行くとこなんかねえよ!
詰め寄る仲間達にもシルバは一言、すまん、と言っただけだった。
ヴァイセントが決して良い状況ではないのは知っていた。
全員に召集が掛かったのも、自分達のミスが一つの原因となって招いた事態だという事も分かっていた。
それでも――。
青ざめるクレアにシルバは、静かに首を振ってくれた。
それがお前のミスとは関係ない、という慰めであることはすぐに分かった。
クレア達は王国の制度から弾かれ、行き場を失くした人間達だ。
全員では無い。
シルバが率いていた元傭兵団の人間の中には、今でも傭兵資格を持ち続ける者もいる。
ただ大半が、シルバに拾われた者達だ。
ペールというこの村が唯一の故郷となった。
シルバが与える仕事が法から外れ、他人を傷つけるものだということは皆理解していたが、どの道生きていくには王国の法など、彼らにとっては障害でしかない。
シルバは決して殺しは命じなかったし、心のどこかで罪を犯すことに引け目を感じている人間には、それなりの易しい役目しか与えなかった。
多分、元傭兵団の古株とシルバが請け負っているのだろう。
クレアはそう思っていたが、確かめたことはない。
シルバにこの村に連れてこられたのは十二歳の時だ。
北部の片田舎でごく普通の娘として育てられていたが、両親が罪を犯していることを聞かされた。
やっとお前を安心して預けられる人を見つけたよ。
幼い子供、という範疇に入るかどうか微妙な年齢だったクレアは頭でこそ理解できたものの、心はそれを受け止めるには早く、当時かなり不安定だった記憶があるがそれももう遠い昔の記憶だ。
随分後になってだが、たしかクレアが十四歳の時に、その後両親が領主に処刑されたことをシルバから聞かされた。
両親がいつ、どんな罪を犯したのかまでは知らない。
もはやそれをどうしようとも思わない。
ただあの時、自分がもう戻れないのだとはっきりと分かった。クレアの出生届は出されていなかった。
ペール村の住人は随分とクレアに優しかった。
子供ということもあるが、あれは行き場の無い人間達の持つ連帯感のようなものだったと思う。
クレアは村の畑を耕したり、下手な針仕事をすることで村の体裁を保つ娘役を与えられていた。
勿論その時そう聞かされていた訳ではないが。
十四でシルバから両親の話を聞き、志願した。
あたしにも仕事を教えて。
聞かずとも、村にいれば話を耳にするし、二年の間に自分達がどういう集団なのかは理解していた。
何より、村娘役にはうんざりしていたのだ。
クレアより後から入ってきた連中もいる。
十二歳のクレアを受け入れた村の住人にとってクレアは娘だったが、後から入ってきた人間にとっては、クレアは美しく成長しつつある女だったのだろう。
勿論クレアを傷付けることは周りの人間が許さない。
だが一度ならず何度もクレアは色目を使われたし、素知らぬ顔で体を触られることもあった。
強くなりたかった。
シルバや、優しくしてくれたみんなの役に立ちたかった。
クレアにとってはもはや家族であり故郷なのだ。
唯一の、居場所だった。
シルバは古株のイーガンをお目付け役として、参加を認めてくれた。
今クレアは十八歳になるが、もしもあの時それを言っていなかったら、他の数少ない女達のようにどこかに養子として出されるか、田舎の有力者にでも嫁がされていただろう。
この村の誰かの妻などもっとごめんだ。
彼女達が幸せかどうかは分からない。
ただ、偽りの過去を持ったままそれが当たり前の人生だと思っている人間と生きていくことが幸せだとは、クレアにはどうしても思えない。
階下のイーガンはシルバ程の年齢ではないが、父親でもおかしくない。
イーガンもどこか自分を娘のように扱う。
お目付け役就任後、言い寄ってくる男達はピタリと止んだ。
クレアの貞操はイーガンが守ってくれたようなものだ。
そのイーガンも、この後どうするか、何も言ってはくれない。
「人影が無い。やっぱり雲隠れしたのかもしれん」
「まいったな。どうする、ロイ」
村を遠目に見下ろす場所から観察したルパードの言葉に、全員が顔を曇らせる。
ロイだけは表情を変えない。
「もう少し近付いて偵察だ」
ペール村から一番近い森の切れ目まで、慎重に移動する。
お手並み拝見だ。
今後のためにも彼らがどう行動するのか、俺も理解しておかなければいけないだろう。
「見張りがいる気配を感じるか?」
全員が首を振る。
「ラスターの意見を聞いておこう」
ロイが俺を見る。
「伐採場の時はどうやったんですか?」
「状況が違う。一から俺たちのやり方を、今、口だけで説明するのは勘弁してくれ」
「まあ、そうですね……」
アテが外れたな。
言葉だけでも一応聞いておきたかったんだが、明るさも地形も違うこの場所で今あの時のやり方を説明して貰う部隊としてのメリットは、この作戦に関しては無い。
俺は実は村に人が居るのではないかと思っている。
いや、絶対ではないがおそらく、だ。
この場所に来て粒子で探ったところ、確かに人影こそ捉えることができなかったものの、おかしな点を発見したのだ。
それは地面だ。
ここから見える村の入り口付近、俺の目では見えないが随分と荒れている。
集中して粒子を飛ばすとそれが足跡であることが分かった。
ほとんど村に入る向きで揃っている。
出て行く感じではない。
逆の入り口から出て行く跡が残されているかもしれないが。
「とりあえず、俺なら森を移動して見える範囲を全部確かめてみようって思いますけど」
「正論だな。移動するぞ。ハイデン、タッカ、ゼナ、頼む」
工作部隊を先頭に仕掛けを警戒しながら森を移動する。
横目に動いていく村に人影はやはり確認できない。
「さて、どうだ」
「ロイさん達ならこういう場合どうするんですか?」
「出入りが無いか監視する。夜になったら近付いて探る」
セオリーといえばセオリーだな。
リスクを負わないのは当然だ。
しかし問題がある。
待つのが面倒くさい。
「万一発見された場合、決めた通り離脱して監視ですよね? でも夜だと複雑なルートを相手が持っていた場合、追跡が難しくなりませんか」
「何とも言えないな。昼間よりは見つからずに追うのは簡単になる。ただお前の言うように、見失う確率が高くなるのも否定はできない」
ゼナが吐き捨てる。
「俺たちは昼も夜も訓練してる。素人が余計な心配はしなくていい」
「ゼナ」
ロイが認めた以上、ゼナもそれ以上何も言わない。
黙ってそっぽを向く。
「やけにつっかかるな。どうしたんだ」
「そんなんじゃない。ロイの言い方だと、誤解される」
ルパードだけでなく、他の人間も奇妙な顔でゼナを見ている。
「気にしないでくれ、ラスター。ゼナはああ言ったが、俺たちはお前を発見できなかった以上、追跡に関してはお前の意見を蔑ろにするつもりはない。俺個人も一度お前には負けてるしな」
ギュッとゼナが拳を握るのが見えた。
「それだって、あの時だって、ズルしたんじゃないのか」
「ゼナ、もう黙れ。これ以上まだ何か言うのならお前は外す」
ロイが表情を変えずにそう告げると、ゼナは目を閉じ、ごめん、と呟くと顔を背ける。
束の間、シンと静まり返る。
苦手な雰囲気だ。
ゼナどうしたの、とタッカが心配そうに声を掛けている。
やめとけ、タッカ。
こういう時は放っとくのがいいんだぞ。
「ラスター、意見があるなら遠慮なく言ってくれ。他に策がある奴もいたら言ってくれ」
ヒョイとバリエが肩を竦める。
俺もこれ以上口を出すのは憚られる。
どうやら思っていた以上にゼナに嫌われてるようだし……。
ゼナに抱いていた上っ滑りな感情が、しおしおと萎えていってしまうのが残念だった。
ペール村
かつて王国が海岸線開発を目的として建設した村。しかしその計画はすぐに頓挫し、残された移住民達が細々と暮らす見捨てられた村となった。当時の領主が管理を放棄した為、現在でもロクに管理されず年に一回役人が渋々やって来るだけとなっている。