見えないボディーガード
「ごめんね。うちは、ママも弟の恭平も動物アレルギー持ってるから…」小さな体で口の周りをミルクで真っ白にしながら給食で残って牛乳を飲んでる茶色い子犬の背中を撫でながら言った。
この捨て犬と出会ったのは…
学校からの帰り道、ポツポツと降り出した雨が、いきなりザァーザァーとなり、図工で賞を取った絵が濡れないように雨宿りできる場所をさがしていた。
パシャッ…パシャッ…
『ここにしよっ!ふぅっ、危なかった。濡れてないよね?』身体を丸め込み傘のようにしてかばってきた、この絵。弟の恭平を中心に描いた″家族″。生まれて初めて金賞を取った。公園内のトンネル付き遊具の中で、恨めしそうな目で真っ黒く染まった空を見上げた。
カサッ…カスッ…シュッ…何かを擦るような音がして、肩が縮む。こわごわと振り向くと、1匹の子犬がダンボール箱の隙間から小さな顔だけを出して、私を見ていた。
「きみも雨宿り?…な訳はないよね。」ダンボール箱の蓋を外すと、子犬はやっと首が自由になったのか、小さな声でキューと鳴いた。
おおかた捨てた人も多少の罪悪感があったのだろう。箱の中には、小さな肌掛けと袋に入ったドッグフードがチョコンとあった。
「これじゃ食べれないのにね」袋を開け、ザラザラと子犬の前に出すと、お腹がすいていたのか、物凄い勢いで食べ始めた。
『ダメだ。ちゃんとあった所に返してきなさい。知ってるだろう?母さんや恭平に…』雨がやんだ後、絵と一緒に箱に入った子犬を家に連れて帰ったら、お父さんにそう言われた。
『わかってる。でも…』私の必死な願いも、ママや恭平の事を考えると、叶う事はなかった。
「ごめんね。本当に…」子犬は、自分の置かれてる状況を理解していないのか、私の指を小さな下で舐めていた。
公園の中だと、見つかってしまう可能性もあるから、私は少し遠くの余り人が来ない神社の祠の下に箱を隠した。
「ここだったら、神様がちゃんと守ってくれるからね」どういう根拠かはわからないけど、恭平がまだママのお腹にいる時、逆さのままだったから、よくみんなで神社に来てはお願いしていたから、神様なら子犬を危険な事から守ってくれると思った。
「いい?また来るからね。ここからあまり出ちゃだめだよ?きみよりもおっかない犬に苛められちゃうからね!わかった?」親が子供に言い聞かせるように、私は「わん」としか言えない子犬に言い聞かせ、その場を立ち去った。
それからも、給食の残りがあろうと、なかろうと私は学校帰りに、子犬の所に立ちより、ご飯を分けてあげたり、狭くなった箱を取り換えてあげたりしていたが…
「おーい。チャコー?どーこー?ご飯持ってきたよー?」箱の中よりも外の世界が気に入ったのか、私の前に姿を出す事が段々と少なくなり、いつの間にかその箱からはチャコがいる形跡すらもなくなっていった。
「じゃ、気を付けて帰るんだよ?ここ最近、不審者情報が多く入ってきてるからね!」中学生になった私は、この夏にピアノのコンクールを控えていて、部活のない日はこうしてレッスンにきている。
「はーい。大丈夫ですよ。ちゃんと明るい道通りますから!先生、さようなら!」手を振り、駅まで向かった。
ガガッ…ダダッ…
「工事?さっき通った時、やってなかったじゃやってなかったじゃん!」いつもの大通りは、運悪く工事をしていて、人ですら通行止め。腕時計をみると、もうすぐ八時。いつもだったら、パパに頼んで迎えに来てもらえるのに!今日に限って、出張なの!¥・と勝手に親を責めてしまう。
「んぅ。ま、いっか。公園通っていこ」慣れ親しんだ道でも、街灯の少ない道は些か不安ではある。
「懐かしいな。小学生の頃を思い出す」幾ら少子化少子化と騒がれていても、公園で遊ぶ子供が全くいないと言う訳ではない。
滑り台、ブランコ、シーソー…公園で遊び呆けては、よくママに注意されたっけ…
「急がないと…」
あと少しで講演を出ると言う時、ガサッと言う音が私の耳に届いた。周りを見回しても誰も居ない、「気のせいか?」と前を見た時!
ゴクッ…
目の前に薄汚れた男が現れて…
フガッ…ンゥッ…モガッ…
茂みの中に引きずり込まれた。
「はなっ…」声を出そうとしたら、首を絞められ意識が遠くなる。
ビリッビリッ…と服を裂く音と男の不気味とも言える息遣いや生温かい息が私の耳や胸元にかかる…
グルルルルッ…ガサッ…
耳の奥へ低く唸るような音が、振動として伝わってくる。
グワッ…グギャンッ…
「わっ!辞めろ!離せ!」私の上にのしかかっていた重みがなくなり、急に体が楽になったが腰が抜けて動けない。
グルゥ…ギャウッ!!!
「ぎゃーーーーーーーつ!!ひっ!」悲鳴のような声がし、辺りが急に静かになった。
どれ位そうしてただろう。顔に何か冷たい物があたり、目を開けた。
「雨?」起き上り、制服についてる土を振り払っても、なんとなくまだ汚れてる。
家に帰ると、ママは狼狽し、恭平は鳴きそうになるし…
「完全に襲われてはいないから!急にいなくなったの!」あながち嘘ではない。本当なのだ。それからは、パパやママにちゃんと迎えに来てもらったりしていた。
―なんだったのかな?凄く懐かしい匂いがしたんだけど…
「おーいちょっと待てって!」
「フンッ!浮気者!」中学三年になった私は、先月この…
「だから、あれは誤解なんだってば!」私の後を必死に追いかけてくる、伊藤颯太に告白され、付き合ってはいるものの度重なる颯太の浮気(本人は、ご飯食べただけと言っている)にいい加減我慢の限界にいた。
「知らない!颯太の嘘つき!もう帰る!ばいばいつ!」颯太の手を振りきると、私は大股に先へと歩く。だって、いつも颯太が追いかけてくるから…
「だから、誤解なんだって!」背後から颯太の必死な声が届く。
私は、路地裏の少し暗い街灯の辺りで颯太を待ち、ここで颯太とキスをするのが習慣になっていた。
グルルルルッ…グルルッ…
いつものように沙織を追いかけようとしていたら、ふと低い呻き声が聞こえた。
「なに?この音。虫?」辺りは秋というのに、虫の音すらも急に止み、シンとした。
タタタッ…何かが走る音がし、街灯の下に黒い影が浮かぶ。
「沙織?」にしては、小さ過ぎるな。
グルルルルッ…
ゴクッ…
―あれは、なんだ?
街灯の下にポッカリ浮かぶ、黒い影は大きな犬にも見えたが、狼にも見えそうな体で真っ赤に光る二つの目で真っ直ぐ俺を見て低く唸っていた。
「な、なんだよ。シッ!シッ!アッチ行けよ!」黒い影は、動かずただただ唸り俺を見る。
カツンッ…コンッ…足元にあった小石を陰に投げつけても、動かずひたすら俺を見ていたが、やがて姿を消した。
「なんなんだ?いまのは…。沙織には、後でラインで謝っとくか」
先ほど、黒い影があった場所を通ればマンションまで数分で行けるのだが、なんとなく怖くて少し遠回りで帰ることにした。
「はぁ、早く高校生になりたい。そしたら、堂々と付き合えるのに!」
―受験生だからって、恋愛をしちゃいけないルールなんてねーのに…
鞄を背負い直し、トボトボと繁華街を歩く。ちょうど、吉野家が見える目の先の細い道を入ればマンションの裏側に…
グルルルルルッ…
「あっ、沙織からだ」ポケットの中にスマホを入れていたから、音に気付かなかった。
繁華街の灯りを背中に向け、神経をスマホに集中させていたから、背後からジリジリと近づいてくる気配に気付く事はなかった。
ガタンッ…背後で何かが倒れた音がし、振り返ると…
ゴクッ…
―いつの間に?
「だ、大丈夫だ!家まで近い。に、逃げよう」
敵に後ろを向ける形で逃げてはいけないと知ってはいるが…。必死だった。ゴミ箱に当ろうが、停めてある自転車にぶつかろうが、後ろから不気味に光る二つの目が笑いながら俺を追いかけ…
グルルッ…ガブッ…グシャ…
「ぎゃああああああああああああっ!」
たまたま近くを走っていた男性になんとか助けられ…
「…って訳。って泣くなって!何もお前が悪いって訳じゃねーんだし」この騒ぎを聞きつけた沙織は、学校が終わってすぐ病院へと駆け込んでくれたらしいが、俺は局部の手術でまだ麻酔から目覚めてなく、俺の母親が心配して声を掛けても、帰ろうとはしなかったらしい。
「だって、あの時喧嘩なんかしなかったら…」
「でも、おかしな話なんだぜ?ほら、俺を助けてくれた人が言うには、犬が俺を襲ってたって」
「犬?野良犬?大勢の?」涙を拭いながら、病室のベッドで腰回りをガチガチに固められている颯太を見た。
「ううん。1匹。あれほんとに犬か?真っ赤な目をして、ジッと俺をみてんの。気味わりーよ」
「……。」犬という言葉に、思い当たることがあった。颯太には話していないが、前に私が変な男に襲われそうになった時、制服のアチコチに犬のような毛が無数についていた。まだとっておいてある。
―同じ犬なんだろうか?でも…
一方で私を助け、一方で颯太を襲う。とても、同じ犬の仕業には、思えなかった。
颯太は、半年間入退院を繰り返し、時間はかかったが私と颯太は結ばれた。
「ごめんな。ついててやれなくて」高校を卒業する直前に私の妊娠がわかり、颯太と結婚し一年がたった。生まれてきた子は、男の子。今日は、産まれて三カ月目の検診。
「そうよねぇ。パパは、あっくんよりもお仕事の方が大事だもんねぇ…」と最近仕事ばかりの颯太を虐める。
「なんて…。ほら、取引先にいくんだから!ネクタイ!曲がってる」直しながら、キスを愉しみ送り出す。
「さっ、あっくんもお着替えしようね」
ピピッ…ピピッ…
【臨時ニュースです。本日、午前4時25分頃、近代市5丁目で強盗殺人が起こりました。犯人はいまだ逃走中で…】
「へぇ…。隣の市で事件だって。やぁねぇ…」この時の私は、まだこの事件が自分に降りかかってくるとは夢にも思わなかった。
「さて、お支度も出来たしいこうかな?っと、その前に…」リビングボードの上にある1つの写真立て。中に入っているのは、写真ではなく私が描いたあの時捨てられていた子犬の柄と助けてくれた犬の毛が収められている。不思議な事もあるもので、これまでにもなんどか危ない目にあいそうになると、私も颯太にも、犬の低く唸るような声がどんなに騒がしい場所に居ても聞こえてくる。
「んぶっ…」篤が、口元をあぶくでいっぱいにしながらジッと見る。
「我が家の守り神様かな?まだ生きてるか、わかんないけどね」ベビーカーに篤を乗せ、保健センターまで押していくも、時折感じる後ろからの視線。姿は見えない。
―生きていたら、ちゃんとお礼を言いたい。
でも、彼?は、なかなか姿を現さなかった。
保健センターには、時間より少し遅れて着いたが、数人の親子がいるだけだったから、あまり時間もかからず、篤も珍しく泣かなかった。
「今日は、パパの帰りが遅いからね。このままお出かけしようね」ベビーカーの中で眠っている篤に呼びかけながら、最近出来たショッピングモールへと足を運んだ。
ハアッ…ハアッ…
―大丈夫だ。まだ俺の顔は出ていない。ほんの…ほんの出来心だったんだ。
真夏だと言うのに、紺色のジャンバーを着こんだ男は、額から汗を流しトラックの陰に隠れていた。
「ここは、どこだ?」無我夢中で走っては来たものの、男には土地勘はなく、どこかの店の裏側としか認識がなかった。
「か、金…」走り続け喉がカラカラな男は、ポケットを探り財布を取り出した。
「ちっ、ロクに入ってもいねー」小銭をかき集め、数える。
「260円か」汗を拭い、裏で作業をしている奴らに紛れ込むように、店の中に入った。
「涼しいな。デパートか」男は、店内をうろつき自動販売機を見つけると慌てながらも、小銭を放り込んで適当にボタンを押した。
ガタンッ…取り出し口から冷えて水滴のついたコーヒーを出すと、一気に飲み干し、喉を潤していった。
「さて、どうするか?」こんな所で騒ぎを起こせば、病気で寝込んでる母ちゃんに迷惑がかかる。男は、椅子に座りながら、楽しそうに笑いながら歩く買い物客を眺めていた。
―金だ。金さえあれば、母ちゃんを病院に連れて行くことが出来る。
男は、ギョロギョロとした眼差しで、簡単に金を奪えそうな弱い親子にターゲットを
絞ると、静かに後を付けていった。
「あっくんは、いつもご機嫌ねぇ」
んぶぅっ…ベビーカーの中で大好きなおもちゃを握りながら、小さな目で私を見る。
―産んで良かった。反対されるままに中絶なんてしたら、きっと…
「早く帰って、パパの大好きな物作ろうね」まだ喋る事も出来ない乳児ではあるが、篤の存在はひたすらに大きかった。
家までの長い長い坂を買い物した袋をベビーカーにひっかけて、上る。途中、途中休んでは、篤の様子を見ながら水分補給をし、頂上の安定した道に辿りつく。
「ふうっ、暑い暑い」ハンカチで汗を拭うも、汗は次々に吹き出し始める。
「…ほんと、田舎なんだから。騙されたのかな?あの人…」新興住宅地とは言え、建っている家は少なく、まだ空き地が多い。
「…い。」
「あと少し…」
ガシッ…いきなり背後から肩を掴まれ、振り向く。
「……。」
ゴクッ…目の前に立っていたのは、息を切れ切れにした男。
「か、金を出せ!こ、これが目に入らんか!」と目の前に赤黒く変色した包丁を突き付けてきた。
「金だ!い、いくらでもいい!と、とにかく金をくれ!!」一瞬目の前の男が、何を言ってるのかわからず、男は私が肩から下げていた鞄を無理やり奪った。
ガタンッ…
「えっ?嘘!」ベビーカーに男が当たり、そのまま坂を下りていく。
「ちょっ…いやっ!停めて!停めて!誰か!早く!」
―お金なんかいい!篤!篤を助けないと!
「いやっ!篤!篤―――っ!」ベビーカーは、どんどん勢いを付けて坂を下る。坂の下は、道路。東名が近い事もあり、かなりのスピードで車が走ってる。それをめがけて…
「停めて!誰か!停めてーーーーーっ!」靴が脱げ、転んでも必死に追いかけた。
ガタガタガタッ…ベビーカーは、真っ直ぐさかを下る。
「い、いやぁああああああっ!」
プァッ…プァッ…ビィイイイイッ!
けたたましく鳴るクラクション…
グルルルルルルルッ…
グギャンッ…
一瞬、何かが前に向かってもの凄いスピードで走っていくのが見えた。
「あ、あつしーーーーーーーっ!」
私の声が聞こえたのか、道路を挟んだ向かい側に見覚えのあるベビーカーが見えた。
「篤…篤…」私が側に駆け寄ろうとした瞬間…ハッキリと見えた。あれは…
ンギャーーーーッ!!
通行人の女性に抱かれた篤は、激しく泣いた。いつもよりも、より激しく…
「ほーら。泣かないの。ママが来てくれたよ、ぼく…」女性から篤を受け取ると、周りで足を停めていた人の拍手に包まれた中、他の方が110番通報してくれて…
「だっ…おま…ん、良かった、二人とも無事で…」警察の方が、颯太の会社に連絡をし、仕事を切り上げて、駆けつけてくれた。
「颯太は?」
「ん。そこ…」大泣きし、泣き疲れた篤は目が覚めた瞬間、白衣が目に入ったのか?再び大泣き!
「これだけ元気なら大丈夫!擦り傷一つもない!周りを驚かせた颯太は、病院のベッドでスヤスヤと眠っている。
「あれ?なんで、それ持ってるの?」彼の手には、私が作った篤の好きなアンパンマンのマスコットが握られていた。
「あァ、これ?不思議なんだよな。ほら、前に俺が犬に襲われた事あっただろ?」
本当に信じられない事を彼の口からきかされた。あの電話を受ける前、取引先を出た彼は、1匹の犬に前を塞がれた。あの1件以来、犬恐怖症になった。
『なあ、頼むよ。そこどいてくれないかな?俺、早く次の取引先行きたいんだけど』何故か犬に対して、低姿勢な俺。
吠えるでもなく、噛むでもなく、ひたすら俺をジッと見上げ…
ポトッ…
口に咬わえていた物を落とし、どこかに向かって走っていった。
「これは…」見覚えのあるアンパンマンのマスコット人形。沙織が慣れない手つきで一生懸命に作ったものだ。それが、なんであの犬が?
「で、その時だったんだよ。お前と篤が事故にあったって連絡受けて…」
「事故と言えば事故だけど…。でも、不思議だったんだ」と、今度は私が刑事さんから聞かされた話を彼に聞かせた。勿論、病室のベッドの上で。
あれから、7年。あの時は、赤ちゃんだった篤ももう小学1年生。まだ、あまり理解はしていないけど、
「今の篤がいるのは、あの犬に助けられたからだよ」そう言ってある。
「おかあさーん!ゲンが、お散歩行きたいってー!」いつも私や彼、篤を守ってくれた犬は、あの事故が起きた数メートル先で息絶えていた。その子の変わりと言っては失礼だけど、犬が苦手な彼の要望で新たに犬を飼い始めた。
「はーい。ちょっと待ってー」雲一つない真夏の空を見上げながら、今でもあの犬を思い出す…