3話 ひとつだけ
「あのさ。海鵺って、いるじゃん」
夕食中。ビールをあおる姉ちゃんに、ふと話を振ってみた。
「ん? んー。美人だよな。アンタと違って」
「オマエとも違ってな」
盛大にげっぷをする姉ちゃんに白い目を向けて話を続ける。
「それでさ。海鵺と、もう一人の後輩の子? ってさ、将棋部員なの?」
「ああ、ふくな」
「ふく?」
「茜ふく(あかね・ふく)。一年生だから、アンタの一個下ね。あの子も可愛いよなぁ。なになに? 惚れちゃった? どっちに?」
ビール片手に、ニヤニヤと訊いてくる。親戚のおっさんか。
「アホかよ。女同士だぞ」
「バッカ、女子校だぞ。百合もレズもあるに決まってんだろ。それ目当てに来る奴もいるし、ノンケがレズに替わる瞬間だってアタシは何度も目にしてきてんだぞ。アンタがそうなったって、アタシはなんも驚きゃしねぇよ」
「……なんか、もう、いいや」
わたしはそんな光景見た事ない。単純に友達がいないから見る機会がなかっただけなのかも、と考えたら少し哀しくなったので、さっさと部屋に引き上げることにした。
ぼふんとベッドに寝っ転がり、何となしにスマホを取り出す。将棋をやめてから、日がな一日中スマホをいじっている気がする。別にスマホで何をするというわけでもないのだが。
「……案外、競技人口多いんだな」
特にすることもないのでついたて将棋について、ぽちぽちと調べてみた。
ついたて将棋は、案外市民権を得ているらしい。大会も開かれているそうだ。ていうか、普通の将棋大会の隣で開かれていたそうだ。いろいろな大会に参加してきたが、全く気付かなかった。
ルールを調べてみた。
「……なるほど」
納得した。
基本的なルールは、通常の将棋と変わらない。お互いに20枚の駒を所定の位置に置いて、対局スタート。一手ずつ交互に指し、相手の玉を先に討ち取った方の勝ち。
ただし、通常の将棋が一つの盤面の上にお互いの駒が入り乱れるのに対し、ついたて将棋では、お互い盤面を持ち合い、間についたて、すなわち壁を用意する。
そして互いに自分の駒だけ見える状態で、指し進める。
つまり、相手が何を指したのかを予想しつつ、相手に予想されにくい手を指してゆく必要があるわけだ。
海鵺とふくの間に生まれた棋譜を思い出す。
だからあんなに意味の分からない、通常の将棋では絶対に現れ得ない棋譜だったのか。至極納得した。
「……ちょっとだけ、やってみるか」
なんとなく、興味をそそられた。
まぁ、将棋と名の付くゲームではあるけれど、将棋ではないし。
そんな言い訳を心の中で唱えながら、ついたて将棋のアプリを一つインストール。ネット対戦してみる。
最初、ベッドに寝っ転がっていたが、
「……………………ん~~~~~~~~~~~~~~~~~~~」
気づいたら、正座していた。
思い出した。
何もわからなかったころ。ただひたすら考えて、考えて、考えて、考えることが楽しかったころ。
考える。考える。考えて、考えて、読んで、読んで読んで読んで読んで読む。先の展開を、過去の進行を読む。
頭を掻きむしり、髪の毛をブチブチと抜いて考える。痛みで、思考を動かす。
体温が上昇する。喉が渇く。お腹が減る。
甘いものがほしい。飲み物がほしい。
が、それを取りに行く手間すら惜しい。
脳内で、駒たちを躍動させる。一秒も早く、一手でも多く、読み続ける。
やがて、
「…………………………………………ふぅ」
あなたの勝ちです。そんな文字が、画面に表示される。
すっと、体温が下がる。汗がひんやりと冷えて、初めてたくさん汗をかいていたことに気づいた。
…………気持ちいい。
圧倒的快楽が、わたしを支配する。考えに考えに考えた末の勝利は、大量に脳内麻薬をぶちまける。何も考えられない。ただただ気持ち良い。楽しい。嬉しい。
わたしが、将棋から離れられなかった理由。
気づいたら、次の対局を始めていた。
風呂に入ることも忘れて、指し続けた。