18話 千の夜をこえて
「「よろしくお願いします」」
挨拶こそなんとか交わしたものの、わたしの心の内は対局どころではなかった。
いやおかしいだろなんのためにふくを大将に据えたと思ってるんだ君に当てるためだよ君ずっと大将だったじゃん何最後だけ変化させてきてるのイミワカンナイ。
言ってやりたいことが脳内を支配してやまない。
が、冷静に考えて、それを言っても仕方ない。わたしたちが勝手に、そうだと思い込んでいたのだから。相手がそれを逆用するのは、当然の選択だ。賭けに負けたわたしたちは、その条件を甘んじて飲むしかない。
正直ヒトカゲは捨て対局のつもりだったから、研究とかは全くしてない。けれど、海鵺とふくが二人とも勝つという展開は、あまり期待できない。というか、期待するわけにはいかない。
わたしは、テーブルの下で、拳をぐっと握りしめた。
わたしが勝つしか、ない。この、圧倒的な王者に。
と、
「王手です」
審判の声が、わたしの決心をへし折った。
さーっと、血の気の引く音がする。
反射的にヒトカゲを見やる。
してやったり、という、微笑。
「クソッ」
用意の作戦というわけか。
速攻。
それ自体は、割と指される戦形ではある。が、それはせいぜい初中級者の間であり、上級者の間では「速攻は雑魚のすること」という認識が一般的だ。序盤でポイントを稼いでも、こで与えた情報によるマイナスの方がでかい、という結論が出ているのだ。
であるにも関わらず、ついたて将棋指しの頂点に君臨する女が、速攻を指してきた。
……何か、掘られていない鉱脈を見つけたのか。
速攻で決め切る攻めの筋を見つけたのか、あるいは序盤でポイントを稼ぐプラスが、情報を与えるマイナスより大きいと考えたのか。単にわたしの動揺を誘うために指したと楽観視することもできるが、先の微笑を見るに、その筋は考えから外したほうがよさそうだ。
事実、この速攻により、ヒトカゲは、わたしの一番重要な情報を得た。二兎追って見事二兎とも仕留めてみせた。
「王手、かー……」
背もたれに体重を預け、虚空へ呟く。
一分弱時間を使い、とりあえず、受ける選択。駒損は仕方ない。情報を与えてしまったのも、仕方ない。今のは完全に事故だ。わたしに非があったわけではない。運が悪かった。
反則なしのわたしの応手に、ヒトカゲが眉を顰める。さあどうくる。深追いしてくるか、いったん手を引くか。
「……」
すっと、海鵺の腕が動く。審判が確認し、わたしの手番となったことを示す。
手を引いた、と考えて良いだろう。王の位置を把握したというアドバンテージだけを持ち帰ることにした、という事か。
正直、助かった。心の中でだけ、ほっと息をつく。
とりあえずそこから数手は、王の位置をずらす事に使った。
そこからしばらく、牽制し合いながらの駒組が続く。
さてどうするか。
こちらは王の移動にだいぶ手数を使ってしまったから、おそらく形勢はやや悪い。
いくつかの筋で歩を伸ばしているが、ぶつからない。
なんとかして先にぶつけたいが、相手の攻め筋が見えない分には運任せとしか言いようがない。
と思っていたら、
「チッ」
すっと、審判の手がわたしの盤面に伸びた。歩を取られた。
ついたて将棋において、どちらが先に取るかは大いに重要だ。しばしば、数の力がものを言うからだ。
思わず舌打ちが出る。どうにも運が悪い。
……いや。運が悪いと思わせられるほどの、鋭い嗅覚。それこそが、彼女の実力だったか。
かつて動画で驚嘆した彼女の才能を思い出す。
わたしにもこれだけの才能があれば……。こみ上げてきて、慌てて口元を抑える。こんな感情まで思い出さなくて良い。
ぐにぐにと両頬をこねくり回して、気持ちを入れ替える。
さて。
盤面へ目を向ける。
ここは行くべきか。退くべきか。
顎に手をやって、ここまでの展開を頭に描く。
ふぅむ。一応、リスクは低そうだ。
それに、退いてばかりではジリジリとリードを拡大されてゆくだけだ。勝つためには、どこかで大きなものを賭ける決心をしなければならない。
「よし」
ここは行く!
音を立てないよう注意しながら、決断の一手を力強く指す。
が、
「……」
ノータイム。涼しい顔で取り返された。
ぐむ、と、声が漏れそうになる。
視界とともに、十秒前の決意が揺らぐ。
こういった局面。何も懸かっていない勝負ならば、迷わず初志を貫く。
しかし、絶対に負けられない、大切なものが懸かった戦いにおいて、相手より自分を信じるのは、あまりに難しい。
特に相手が、自分よりはるかに格上だった場合。
「…………………………」
多分。大丈夫だと思う。
飛車は、走れる。
そう考えて伸ばした手が、止まる。
ヒトカゲは、ノータイムで指してきた。
それは、つまり、もしかして。
走ってはいけない局面なのか?
手が震える。
呼吸が浅く、荒くなる。
地面が揺れる錯覚に、思わずパイプ椅子にしがみつく。
分かっている。わたしが、自分の中で、ヒトカゲを大きくしすぎていることは。強く見すぎていることは。きっとこの局面も、はたから見れば「何考えすぎてんだバカじゃないの」と笑い飛ばす程度のものだ。
けれど。嫌な予感が、拭い去れない。
わたしの決断の一手が、いともたやすく覆される未来が、脳裏から離れない。
飛車を走った手を咎められる。それはすなわち。
わたしの、負け。
「…………クソッ」
本能的な悪寒に、屈した。部分的な敗北を、受け入れる。
とはいえ、まだ挽回できない差ではない。飛車を走ってあがく余地もなく負けるよりは、一旦謝っておいて、他の筋から紛れを求めていく方が負けにくいだろう。それに、そもそもここで飛車を走ったところで、大したメリットは得られない。リスクに対するリターンが少なすぎる。
心理的敗北を合理的な考えで塗りたくって、見えないフリをする。
いつもの、ずるずると泥沼に引きずり込まれていくパターンだった。
当然、形勢がわたしに傾くことはない。天秤の勾配は、増すばかり。
部分的な敗北を各所で繰り返すことで、いつしかそれは盤面全体に広がっていた。
「…………………………………………………………………………あー」
ヒトカゲは反則の使い方が上手いなぁ、と、既に折れかけた心が勝手に反省会を始める。
わたしが「ミス」としてカウントしている反則を、ヒトカゲは「盤面可視化のツール」として使っている。多分、反則一つあたり、わたしの2、3倍の情報を得ているだろう。結果、反則回数こそわたしの方が少ないが、駒の損得、玉の可視不可視、駒の働き等、形勢判断するあらゆる要素で上を行かれている。
反則負けに追い込むくらいしか、わたしの勝ち筋が見えない。
そして同時に、反則負けに追い込めるほど、ヒトカゲを焦らせる手がない。
つまるところ局面は、既に、わたしの「負けました」を待つばかりとなっていた。
と、
「負けました」
海鵺の、絞り出すような声。
思わず、自分の対局のことも忘れてぐりんと顔を向ける。
「……マジか」
無意識に、声が出ていた。
海鵺が負けたことに、ではない。
顔を伏せ、ただ歯を食いしばる姿にでもない。
最後の最後まであがき、一手詰めまで指された、海鵺の最も忌み嫌う終局図。
ドクン、と、血が騒いだ。
「……………………………………わかった」
わたしの、見るも無残に蹂躙された駒たちへ力強い視線を注ぎ、呟く。
あとは、任せろ。
よし。
目つきが変わったのが、自分でもわかる。先までぼんやりと、周囲の風景を見る時と同じ目で盤面を見ていたが、今は違う。クリアに、よく見える。
なにはともあれ、まずは局面を乱さなければなるまい。
乱して乱して乱して、こちらの得意な展開にする。勝負事は、いかに自分の強みを発揮できるかにかかっていると言っても過言ではない。
音を立てないよう繊細に、しかし腕力に任せた強引な手を連発し、盤面に摩訶不思議を生み出す。台風のごとく巻き込んで、吹き飛ばしてやる!
「……」
二人合わせて十手ほど指した。審判の手は煩わせない。お互いの駒がぶつからない、序盤のようなジリジリとした、距離の探り合い。
ただそれだけのやり取りが、奮起したばかりのわたしの心を折りに来た。
顔色一つ変えないのだ。
小考を挟みつつも、眉一つ動かさず指してくる。
動画で見たときは、もっと、喜怒哀楽をハッキリと見せて戦っていた。
もちろん、ネットを介した対局はこうして顔を突き合わせているわけではないのだから、ポーカーフェイスにする意味などない、という事くらいはわかっている。
が、生来のネガティブな気質が、「わたしの実力がヒトカゲの表情を変えるにすら至らないのでは」と声を上げる。
そうして、思い出す。
そうだ。自分が全国でほとんど勝てず、奨励会にも入会できなかった理由が、これだ。
わたしの、悪くなってから乱して混沌を呼ぶ棋風は、相手のミスに依存する将棋だ。だから、本当に強い、ミスをしない人相手には、通用しないんだ。
くそっ。わたしはここまでなのか。
と、心の中で諦めかけたとき。
「すうううううううううううううううううう、はああああああああああああああああああ」
深い深呼吸が、聞こえた。
ふくの、それだ。反射的に顔を向けると、ぐっと握り拳でこらえ、じっと食い入るように盤面を見つめている。
……ああ、そうだ。自慢の弟子が、わたしの教えを忠実に守って、闘っているんだ。わたしが諦めるわけにはいかない。
頬を数度叩き、気合を入れなおす。
持ち時間ももう残り少ない。いい加減、勝負を決めに行かなければいけない。
天井を向き、目を閉じる。
これまでの流れを振り返り、今、何を指すべきか。踏み込むべきか、耐えて反則勝ち、あるいは時間切れ勝ちを狙うか。
……目の前の化け物に、後者二つは、通用しなさそうだな。まぁ、一つ目が通用するとも思えないけれど。
考える。考える。考える。考える考える考える。必死に、死ぬ気で、脳みそがブチブチと千切れそうなほど、考える。
そうして、暗闇の先に、一つ。光を、見つける。
「……………………大丈夫」
勝算は、ある。低い確率だけれど。ないわけではない。というか、これに賭けるしかない。あとは、わたしの勇気の問題だ。
わたしはこれまで、未知の領域に踏み込むことを避けてきた。
それが、三度の奨励会入会試験の挫折であり、才能の限界だった。
踏み込めるか否かは、読みの力と、勇気の問題だ。
読みの力は、努力だ。
勇気は、才能だ。
そう信じてきたし、今でもそう思っている。
『何かに挑戦したら確実に報われるのであれば、誰でも必ず挑戦するだろう。報われないかもしれないところで、同じ情熱、気力、モチベーションをもって継続しているのは非常に大変なことであり、私は、それこそが才能だと思っている』
わたしには、才能があった。
わたしには、決定的に才能がなかった。
だから。
今。
わたしは、才能を産みだす!
「わたしは……わたしは! 鉄球蒔きだ!!」
バチィッ、と、わたしの代名詞となった力強い手つきで勝負手を放つ。
それは、いつもの泥沼を呼び込む手ではない。
素っ裸で相手の王へ突撃するような、無謀な攻め。
勇気の踏み込みだ!
ヒトカゲの顔色が、少し変わった。
先までのひょうひょうとした、余裕のある顔色ではない。わたしの気迫に当てられでもしたのか。ざまぁみろ。笑いそうになるところをこらえ、盤面に集中する。
劣勢も劣勢。しかも今の手が王手にならなかった。こちらの王は、かろうじて体を躱し、身を隠してはいるものの、見つかったら今度こそ終了。こちらの王が見つかる前に、相手の王を見つけ討つ。
野ざらしの荒野から、建物の中に隠れた相手をスナイプするような、無理難題。
やってやろうじゃないか。知らず口の端が吊り上がる。
隣で対局終了の挨拶が交わされた気がしたが、そんなことを気にする余裕はない。脳内は盤上のすべての可能性を開拓する作業ですべて埋め尽くされている。
どちらが先に王手をするか。それが勝敗を決すると言っても過言ではない。81マス。そのうちのどこかに、息を殺してじっと潜んでいる。
感じろ。気配を。読め。ここまでの動きを。その、心理を。考えろ。脳みそから血が出るまで。脳細胞がぶっ壊れるまで。身体の全機能を停止して、そのすべてを思考に割け。
全身をひっかく。頭を掻きむしる。髪の毛を引っ張る。叩く。殴る。脳が欲するままに痛めつける。髪の毛が抜ける。知らん。血がにじむ。知らん。爪が割れる。知らん!
そんなことより、一手でも深く潜る! 光の届かない深海を、沈む!
苦しい。怖い。それがどうした。死ぬ気で探せ! 見つけられないなら死ね!
手を伸ばす。酸素を求めて喘ぐ。視界を四方八方無茶苦茶に巡らせる。
その先。
「こ れ だ!!!」
一条の光を、バシィッ! と指す。
「お、王手です!」
「えっ」
審判の声に、間抜けな声が呼応した。
ヒトカゲの目がこちらをまじまじと見つめる。
「………………………………………………………………………」
大長考。
顔をしかめ、目をぎゅっと閉じ、見開き、おでこに手をやり、腕を組み、天を仰ぐ。
そうしてヒトカゲは、あらゆる苦悶の表情を通り越し、元の涼しい顔で、頭を下げた。
「負けました」
「ありがとうございました」
顔を上げたところでふくに抱き着かれ、そこで初めて、全国への切符を掴んだことを知った。




