16話 奇跡
幸運にも、二回戦も三連勝で勝ち抜けることができた。
これで準決勝へ進出。
「げ」
対局場へ着いて、思わず苦い声が出た。
相手は、女流棋士、堀田小路擁する高校だった。
しかも、わたしの相手は小路だった。
「いやおかしいでしょ」
こいつ、隣の将棋大会の解説に来たんじゃないのかよ。いやわたしが勝手にそう思っていただけなんだけど。でも、ついたて将棋をするなんて聞いたことがない。
先日の電話でキッパリと女流棋士へのお誘いを断って以来、関わってこないから、これで縁が切れたものだとばかり思っていた。
では、なぜ今、ついたてのむこうから、小路が私に対して敵意むき出しの目を向けてくるのか。
こええなぁ。
「わたくしにとって、ついたて将棋は、趣味でしかないわ」
ふいに小路がしゃべりだした。
「はぁ」
そうなんだ、としか言いようがない。あるいは「じゃあ負けてください」と言えば良いだろうか。
「でも。でも、この対局だけは、殺す気で勝つわ」
ぞくっ、と。全身に鳥肌が立った。
本気だ。それこそ、対局でわたしに勝てなければ、殴り合ってでも勝つ、と続きそうなほどに。
奨励会の入会試験で感じたソレと、同じ。
人生を賭けた人間の、本物の殺意だ。
「将棋から逃げたあなたなんかに、将棋と名の付くゲームで負ける気はないわ」
が、彼女の言葉が、わたしに、火をつけた。
「――プロへの道から先に逃げたのは、君だろ」
と、
『それでは対局を始めてください』
お互いに言いたいことをぐっとこらえて、頭を下げる。
「よろしくお願いします」
初手をわたしは、バチィッと、大きく音を立てて指した。
小路も、力強い手つきで返してきた。
将棋の駒は、その価値に応じて大きさ、厚みが異なる。
故に音を出すと、駒によってその高さが違ったものとなる。
ついたて将棋において、音を立てる行為は、相手に情報を与えるだけ。ただのマイナスだ。
けれど、わたしは盤面を叩き壊す勢いで指す。
小路も、バチィッ、と激しい音を立てる。
「わたくしは、あなたより先に、自分の才能の大きさを見極めただけよ」
基本的に対局中は、しゃべらないのがマナーだ。相手の声がうるさければ、審判に申し立てをすることもできる。
が、私は、それをしない。かわりに、
「たった一回、入会試験に落ちただけで才能の大きさなんてわかるわけないだろ」
ビシィッ、と、力強く指す。
「わかるわよ。わたくしにも、あなたにも、プロの卵になる才能すらなかった。だから、あなたは今ここでわたくしとついたて将棋を指している。違う?」
ぐっ、と、声に詰まった。
ついたて将棋に対するわたしの感情の如何はともかくとして、字面だけ追えばそれが真実だった。
わたしは何も言えず、それでも力強く指した。
「わたくしは、不幸にも、強くなる才能を持たなかった。プロの卵になる程度にすら。けれど、女流棋界という環境が整っており、幸運にもわたくしは女だった。だから、この道を選んだ。将棋に挫折し、それでも、将棋で戦う道を選んだ。あなたにも、同じ道が用意されていた。でも、あなたはわたくしと同じく将棋に挫折し、わたくしと違い将棋そのものから逃げた」
バチィッ、と、今までで一番強く指された。
王様付近の歩が食い破られた。
「三回目の奨励会試験、将棋をやめる覚悟で挑んだって言ったわよね。何故、女流棋士として将棋を続ける覚悟を持たなかったの。将棋をやめるより、続ける方が、ずっとずっと、苦しい。辛い。悔しい」
局面の悪化に手の止まるわたし。
そんなわたしを咎めるように、小路は言い放った。
「あなたのその覚悟は、背水の陣ではない。周到に、逃げ道を用意していたのよ」
彼女は泥沼の中でもがき、あがいている。
それでも、この沼の中に踏み込んで来いと、共に死にに行こうと言っている。
ライバルとして。
……なるほど。わたしにはもったいない、良い友達を持ったものだ。
だから、
「違う」
バチッと、覚悟を込めて指した。
「わたしには、用意されていなかった」
将棋から逃げた。たしかにそれは、その通りだ。ずっと目をそらしてきた事実だ。認める。
だけれど。
「わたしにとって、女流棋士は、道じゃなかった」
なぜ女流プロにならなかったのか。情けなさ過ぎて話せなかった理由を、口にする。
「わたしは将棋が好きだった。愛していた。一時期は憎さ百倍という感じだったけれど、今ではまぁ悪くない距離感だと思っている。でも、わたしがなりたいのは、プロ棋士なんだ。将棋を職業にしたいわけでも、勝負の世界に身を置きたいわけでもない。ただ、プロ棋士に、憧れていたんだ。名人になりたかったんだ」
名人になりたいなど、奨励会試験に三度もハネられた人間が口にしたら、鼻で笑われてしまう言葉だけれど。
わたしと小路とでは、目的が、目標が、歩む道が違った。
それだけのこと。
「それに、わたしは、ついたて将棋も憎からず思っているよ。好んで歩む道になる程度には」
「……………………なによ、それ」
小路が、パチリと力なく指す。
さて。局面も佳境を迎えた。
お互い音を出して指し続けたから、相手の陣形は大体想像がつく。おそらく、そろそろ既に、どちらかが倒れている局面だろう。
と、その時。
「負けました」
ふくの、絞り出すような声。
うつむいて、こちらも見れないという様子だ。
これでわたしたちには後がない。わたしも海鵺も勝つしかない。
と気合を引き締めたところで、
「負けました」
声が聞こえた。
海鵺の、対戦相手の。
「ありがとうございました」
涼しい顔で挨拶をする海鵺。
そして、まるで「さっさと終わらせなさい」とでもいうような目くばせを一つよこす。
くそっ、格好いいな。こいつ。
しゃーない。わたしも一丁頑張るか。
と、気合を入れなおした瞬間、
「王手です」
小路の手に呼応して、審判が言った。
血の気が引いた。
マズイ。うまく煙に巻いて身を隠していた王様が、ついに見つかった。
ついたて将棋において王様が見つかるのは、喉元に縄をかけられているのに等しい。正しく逃げなければ縄が徐々に絞まってゆく。
そしてこの場合、王手のタイミングが問題。
序盤での王手は、実はさほど怖くない。なぜなら、王様の逃げ道は上下左右どこでも良いからだ。逆に相手からしてみれば、どこに逃げたのかが見当もつかないというわけで。簡単に姿をくらませることができる。
が、現在は終盤。盤面全体に、自分の駒と相手の駒が入り乱れている状況だ。下手な対応をすれば反則を重ね、首が絞まると同時に相手に情報を与えることになる。
その上、逃げ場所が限られるため、相手の王手も続きやすい。
ここでいかに反則をせず、かつ姿をくらませることができるかがカギだ。……もしかしたら、もう終わっているのかもしれないが。
いや。悲観するのは、終わってからで良い。とにかく今は、冷静に状況と形勢を判断しよう。
駒の総量は変わらないから、こちらの所持している駒を数えれば、相手の所持している駒もわかる。こちらの角金得だ。歩は多く取られているが、さして戦局に影響は与えないだろう。
相手の王の位置はわからない。三択くらいまでは絞れているが、いかんせんそれら複数にアプローチをかける手段がない。
持ち時間は相手が残り三分。わたしが残り五分。
反則回数は、こちらが残り3、相手が残り5。
結論。局面はかなり悪い。
くそっ。どうしてこうなった。勝手に反省会を始めそうになる脳に活を入れる。
目下考えるべきは、どこから何で王手をかけられたのか、という点だ。それによって、玉を動かすか、他の駒を動かすか、あるいは何か打ち込むか、その選択を迫られる。
……王様を逃げてもジリ貧か。いやしかし、反則回数でも負けている現状、反則になりやすい他の選択肢を選ぶのは得策とは言えない。やはりここは、他の駒を動かして相手の攻め駒を取るか、合い駒とするかという展開にしたい。形勢をひっくり返すには、それ相応のリスクを背負わなければならない。
とにかく考えろ。思い出せ。少しでもリスクを減らすために。ついたてのむこうを考えろ。相手はここに至るまで、何を指してきた。何を手持ちにし、今、どういう心境で王手をしたのか。王手をしたと知ったときどう感じたのか。思い出せ。その手つきから。表情から。考えろ。想像しろ。
わたしは潜る。深く。深く。思考の海に、髪の毛の先まで浸かる。
残り三分になるまで潜る。
息を止め、潜る。泳ぐ。頭を掻きむしり、思考を加速する。深い海の底、光を求めてもがき続ける。
「これだ!」
一筋。光を見つけた。
バチッと力強く指して、時計を押す。
残り一分だった。
「うおっ」
これは切れ負け勝負だ。終盤とはいえ、今後自分の手番で考える時間はほぼ全く取れないと考えて良いだろう。相手の考慮時間中にすべてを考えるしかない。
けれど、もし時間攻めをされたら、非常にマズい。ノータイムで相手の攻めをしのぎ切るのは至難の業だ。
が、
「…………」
考え込む。
小路は、時間攻めを選ばなかった。勝負に徹するのではなく、あくまで対局として勝とうという考えなのだろう。
目先の勝利ではなく三年後の勝利。
彼女の信条。
趣味に過ぎないついたて将棋ですらその姿勢を貫く彼女に、ある種の憧憬の念を抱く。
同時に、現在の、目先の勝利のみを必要とするわたしには、彼女の消費時間が天からの恵みにすら見えた。
ビシッ。
時間を使って指された彼女の手は、王手ではなかった。
チャンスだ。
今のわたしに、相手玉を討ち取る時間は残されていない。とにかく反則負けに追い込め。
乱せ乱せ。局面が悪いときは、明快な形にしたら負けだ。盤面をぐちゃぐちゃにして、怪しい手を指しまくって、相手の反則を誘発するしかない。
大丈夫。怪しい手は、わたしの得意技だ。
なにしろ、わたしは『鉄球蒔き』らしいからな。
指すときに響く、鉄球を落としたかのような轟音と、鉄球を蒔いたかのような無茶苦茶な局面を生み出すのが得意だから、そう名付けたらしい。
せっかくの機会だ。名付け親に、嫌というほどに味わっていただこう。
バチィッ!!
鉄球を、盤面に蒔き散らしてやる!
それからは、まさに死闘だった。ノータイムで刺し続けるわたしと、小考を重ねる小路。気づいたら持ち時間は逆転し、わたしの残り時間が十秒、小路の残り時間がわずか一秒となった。
小路が王手。
残り十秒では、考える余裕もない。
そもそも、この局面、考える意味もない。
こちらの王の逃げ場は、二つ。たぶんどちらかは反則で、どちらかはセーフ。
反則ならば、反則数超過で、わたしの負け。
セーフならば、小路の持ち時間が切れ、わたしの勝ち。
残されたのは、指運。
そして――




