2002年8月 SIDE TOOKO
診断書の期限が切れて、晴れて職場復帰したのはいいけれど、通勤路でも五歩に一度は後ろを振り向かないと歩けない。職場でも大きな音に反応してしまい電話が取れない。身体の痛みは取れたけれど、心の傷はまだ治ってなかった。職場の先輩に配慮してもらって、電話のない奥の席に移動して、お仕事中はサングラスをかけて作業することになった。通勤もタクシーを使うことが多くなった。
お家ではご飯も作ってお洗濯もしてお掃除もしていたけれど、時々呼吸が上手く出来ないことがあった。そうなる時は動悸がして息を吸っていいのか吐いていいのか判らなくなる。
さくやに知れたら心配してしまうと思って、さくやがいるときにそうならなきゃいいなと思っていた。
きっかけは、ピーマンの肉詰め。しっかり片栗粉を振ったはずだったのにお肉とピーマンがはがれてしまった。お弁当に入れようと思って作っていたのにこれでは入れられない。
作り直すには時間が足りない。どうしよう。そう思った途端息が上手く吸えなくなった。
いけない。吸わなくちゃ。焦れば焦るほど上手く吸えない。吸えないなら吐いてみようと思って今度は吐くことに集中しようと思っても吐くことすら出来ない。
出勤前にシャワーを浴びて出てきたさくやが、あたしの異変に気付いた。
「どうした?」
大丈夫。そう伝えたくても、声が出ない。
「とーこ。息、吸えるか?」
精一杯吸ってみるが上手く吸えない。
さくやは、あたしを抱き締めたまま背中をさすって「吸って、吐いて。」と繰り返した。
そのテンポに合わせて息を吸ったり吐いたりしようとしてみるが、なかなか上手くいかない。
五分くらいその状態が続いてようやく、さくやの声に合わせて呼吸が出来るようになった。
さくやの髪のシャンプーの香りがようやく判るようになって、尚更落ち着く。
「大丈夫か?」
「うん、ごめんね。」
「こんなこと、前にもあったのか?」
「ううん。」
心配はかけたくないから嘘を吐いた。するとさくやは切れるような目であたしを見つめた。
「嘘は吐くな。」
「何回かはあったけど、大丈夫だよ。」
「とーこはな、頑張りすぎなんだよ。」
その言葉が、胸を突く。自覚はあった。事件の後もお仕事もお家の事も完璧にしなきゃって頑張ってた。身体は無理って言っているのに、心も疲れたって言っているのに、無視してた。
「どうしてぇ。」
涙が出てきた。どうしてさくやは今言って欲しいことをすんなり言ってくれるんだろう。
「頑張るな。」
「だって、お弁当出来なかったら、さくや、お仕事に行けない。」
しゃくりあげながら子供のように訴える。
「弁当なんて、冷食突っ込んで全部チンでいいんだって。とーこは頑張りすぎて疲れてんだよ。あの事件からも日が経ってないんだから、少しは休め。」
逃げ道を作ってくれて、休むように言ってくれるさくや。うっかりそれに甘えそうになる。けれど、さくやにとってのあたしの存在意義は、さくやを屋根のあるところで寝てもらって、ご飯を食べてもらって、お風呂に入ってもらって、ゆっくりしてもらうこと。快適な生活を提供する立場。あたしはさくやの彼女じゃあないんだから。
「ごめんね。もう大丈夫。」
「無理するな。」
「本当に、大丈夫だから。さくや、遅刻しちゃうよ。ドライヤーかけてきた方がいいんじゃない?」
今日のお弁当は見た目は悪いけど仕方がない。許してもらおう。
さくやの前で、過呼吸の症状が出たのはショックだった。あんなに心配かけたくないって思っていたのに。この症状でさくやを縛ってしまいそうで怖かった。さくやは優しい。
過呼吸の症状が出るあたしを放っておけないと思ってしまったらどうしよう。そんな都合の良い話はないか。ただの妄想だ。
妄想してしまうほど、さくやは優しい。どうしたらいいんだろ。
さっきの抱擁だって、あれがなければ過呼吸はもっと酷くなっていた。「大丈夫か?」「無理するな」と言われるたび、こんなあたしでも心配してくれる人がいると安心する。
やっぱり、さくやが好きだ。
でも、あたしのさくやになって欲しいとは、思えない。何故なら、あたしがさくやを幸せにしてあげられるとは思えないから。そもそも「○○してあげる」という発想が好きじゃないけど、さくやを幸せにできるとは思えない。
あたしは事件に遭っているし不安定だ。そもそも、さくやがあたしを好きかどうか判らない。戯れで好きだとか愛おしいとか言ってくれたこともあるけれど、本音は知らない。
さくやが幸せなら、あたしは幸せだと思うけど、今の彼女と幸せになるところは極力見たくない。どうしてだろう。きっと今の彼女に敵視されてるからだ。それに、今の彼女はさくやを振り回しているのを知っているからだ。さくやがもっと好きになって、幸せだと思える彼女と二人で幸せになって欲しい。それを見られたら、あたしも幸せだ。




