2002年7月 SIDE TOOKO
三十秒おきに後ろを振り向かないと不安で歩けない。そもそも、一人で外を歩くのが怖い。けれど、お食事の準備の為にお買い物に行かなければならないから怖いなんて言ってられない。右手は三角巾が取れたからビールを一ケース抱えられるようになった。また後ろを振り返る。誰もいないとホッとする。自転車の音がすると抱えていたものを全て地面に置いてしゃがみこむ。お買い物がはかどらない。今日のお買い物は普段だったら三十分もかからないスーパーで一時間四十分もかかった。
これがPTSDの症状なのかな。お薬は定期的に飲んでいるけれど良くなる気配はなかった。そんなにすぐに良くなる病気じゃないのかな。
家の中の事は、さくやに迷惑をかけたくないからしっかりやらなきゃって思って、お仕事をしている時以上に頑張った。「いってらっしゃい」も「お帰り」も言える生活は満ち足りてた。
そんなある日、キッチンでお夕食の準備をしていたら玄関の方で音がした。さくやが帰ってくるには早すぎる。それに、さくやは帰ってくる前に必ずメールをくれる。
ドアノブをガチャガチャと外から触れられてる音がして、その後、走っていく足音がした。何だろう。怖い。そう思ったら息が吸えなくなった。息を吸わなきゃ吸わなきゃと思えば思うほど喉の奥でひゅうひゅうと息が漏れる。どうしたら良いのか判らない。苦しい。
深呼吸しなきゃ。とにかく息を吸わなきゃ。自分を落ち着かせようと必死になって、倒れこんだソファーで掴んださくやのスエットを抱き締める。そうすると気持ちが幾分落ち着いて、息が吸えた。まだ不規則な呼吸だったけれど、ゆっくりゆっくり深呼吸が出来るようになった。さくやはあたしの精神安定剤のようだった。
ようやく落ち着いてから、さくやにさっきあった事をメールした。
『大丈夫か?俺、玄関前着いたら電話するから、チェーンしてろ。』
『判った。ありがとう。』
玄関に寄るのも怖かったけど、そっと寄ってチェーンをした。これで、大丈夫。あとはさくやが帰って来てくれれば問題ない。
あたしはテレビを見る習慣がない。静かな部屋にいきなり携帯の着信音が鳴ってビックリした。この着信音は斗亜さんだ。
「はい。とーこです。」
「おう。瞳呼。元気か?」
「この前、お店から帰る時にひったくりに遭っちゃって、あまり元気じゃないんです。」
「マジか。お前、大丈夫か?」
「あんま、大丈夫じゃないです。」
「じゃあ、兄ちゃんが元気にしてやる。今度の土曜日花火大会あるだろ。一緒に行こうぜ。」
「いつきさんとは行かないんですか?」
「今、喧嘩中。」
「とーこ、行ける自信ないです。お外に出るの本当に怖くて。」
「俺が守ってやるからよ。浴衣着て行こうぜ。」
「本当にごめんなさい。また今度誘ってください。」
「判ったよ。身体大事にするんだぞ。」
「斗亜さんこそ。」
「俺も、ダブルワーク始めたからよ。身体が資本ってな。」
「そうなんですか?」
「オンナ一人食わせていくのは大変だ。でも、それが男ってもんだろ。」
斗亜さんは、性同一性障害だ。男でいる事にこだわっている。
「そうですね。無理しないで下さいね。」
「瞳呼も、また、たまには店に顔出せよ。」
「はい。ありがとうございます。」
「じゃ、またな。」
花火大会のシーズンか。一度は行ってみたいけれどあの人ごみに耐えられる自信がなかった。それに斗亜さんと二人きりで行ったなんていつきさんにバレたら後で何を言われるか判ったもんではない。怖い怖い。
さくやはそういう行事も人ごみも好きではないから、今年はお家でゆっくりしてろってことなんだろう。キッチンに戻って夕食の準備の続きをしていたら今度はさくやからメールが入った。
『今から帰る。』
『気を付けて帰って来てね。』
さくやの職場からここまで約二十分、それまでには夕食は出来上がりそうだった。
今日もさくやは帰って来てくれる。『今から帰る。』ってメールがあるといつもワクワクした。ビールが冷えてるか確認して、お風呂の準備をして、まるで新婚さんのような生活だった。
知ってる。さくやはここにいれば便利だから帰ってくるって事。
屋根があって、寝床があって、ご飯があって、ビールが飲める。それ以上でもそれ以下でもない。
それでも、良かった。だってあたしの当初の目的は、さくやに屋根があるところで寝てもらうことだったんだから。
「ただいま。」
さくやが帰って来て、まず指輪を外してカバンをおろす。
「お帰り。」
「駐車場、契約してきたから。」
唐突に言われてビックリする。
「今まで停めていたとこも駐禁じゃないけど、落ち着かねぇから、月極めのとこ、とりあえず一か月だけ契約してきたから。」
言われていることの意味が、頭では判っても心が追い付かない。
それって、この先一か月はここに帰って来てくれるって事なんだろうか。
「さくやは、ここに帰って来てくれるって事?」
「他に帰るとこ、ねーもん。」
にやり笑ったさくやの顔が、憎たらしくて愛おしかった。




