2002年4月 SIDE TOOKO
そう、あれは受話器から聞こえた声だった。
「髪の色、何色?」
ハスキーでセクシーな酔っぱらいの声。
どう答えたかなんて、覚えてない。
本当はその時、もう「何か」ははじまっていたのだと。今になって思い出す。
四月になっても、まだ寒い風が通り抜ける繁華街。
あたしは早足に「あたしが居られる場所」に向かう。
この歳になってまさか反抗期な訳はないと思うけど、この時期のあたしは家に帰ることを強力に拒否していた。
通り過ぎる人の波。きらめくネオン。コンビニやゲームセンターから聞こえてくる陽気な音楽。そんな雑多なもので心が慰められていくのを感じる。
まだ所々に雪が残って滑る足元に気を付けながら、ようやく着いた雑居ビルの入り口で、普段は吸わないタバコを買って、エレベーターに乗り込んだ。
今日の手土産はシュークリーム。頼まれてもいないのに、あたしはココに来る時には必ずお菓子を持参する。それは挨拶みたいなものなのか、自分ではもう判らなくなっていた。
ポーンという音と共に四階のフロアに足を踏み出して、もう一度自分の服装をチェックする。「夜のオンナ」には決して見られないように。「真面目で世間知らずな女の子」に見えるように。今日の服装もOKそうだった。
『FIVE』木製のプレートにシルバーでそう表記されてるだけ。
重厚そうな、実際にも重いドアの前で一つ息をついて、あたしはそのドアを力いっぱい開いた。
突然聞こえてくるカラオケの大音量と、グラスのカチャカチャと揺れる音。
入り口で大きく息を吸い込んで、あたしはようやく「あたしが居られる場所」に帰ってきたことを実感する。
「お~!瞳呼。いらっしゃい。」
もう、酔いの回った幾分低い声で店長の斗亜さんが、あたしに声をかける。
「いらっしゃい。」
少し遅れて店長の彼女のいつきさんの声が重なる。
「こんばんは。」
控えめで甘めな声。あたしはこのお店では猫を三枚以上かぶることに決めていた。
言いながら店内を見回す。今日は金曜日なだけあって、お客さんも多いようだ。テーブル席は全部埋まっている。カウンターもギリギリってとこだ。
「おい、瞳呼。牛乳買ってきて。」
ジャケットを脱ぐタイミングより早く、斗亜さんがあたしに注文する。
「いいですよ。」
素だったら「え~!とーこお客さんなんですけどぉ!」抗議するとこだけど、あたしの上のネコ三匹は柔和な笑顔でそう言わせる。
「じゃあ、先にこれ。」
今日のお客さんの数じゃあ足りなかったけど、シュークリームの箱を渡すといつきさんがにっこり笑って受け取ってくれた。その横で斗亜さんは牛乳を買いに行くお店の位置から牛乳の種類や本数、領収書の名前までスラスラと言ってよこす。
「了解です。」
歩き出そうとして、以前から言おうと思っていた一言を口に出すか悩んで、決心して振り返る。
「シュークリームとお使いのお礼に、今度素敵なボーイッシュの方、紹介してくださいね。」
斗亜さんがにやりと笑う。「判ってらぁ。」言いたげな顔。
あたしはその顔に半分安心して、ついさっき通ってきた重い扉を開いて廊下を反対向きに歩き出した。
『FIVE』は普通の飲み屋とちょっと違う。
あたしも「普通」という人とは多分ちょっと違う。
あたしは男より女の子が好きな「レズビアン」だし『FIVE』に来るお客さんも男より女性が好きな「レズビアン」か、男も女性も両方愛せる「バイセクシャル」の人だ。
店長の斗亜さんは、どこから見たって男の人だし、性同一性障害だけど、戸籍上は「女性」だし、彼女のいつきさんもそれを知っていて斗亜さんを愛してる。
きっと、社会にはあまり理解されないだろう。
でも「あたしたち」にはこういう場所が必要だった。
牛乳四本はさすがに重い。でも、その少しはあたしもカルーアミルクで消費するんだから、まぁいいか。
さっきの道をまた戻って、エレベーターに向かおうとした瞬間、あたしは固まった。
どうみても酔っぱらっている男が先に乗っている。例え四階までの数十秒でも、あたしはその男と同じ空間を共有する気にはなれなかった。
「お先どうぞ。」
さっき買ったタバコを買うふりをして男を促すが、そいつは好奇な目であたしを見たまま、エレベーターの扉を開きっぱなしにしている。
……仕方ない。全身に鳥肌が立っているのを意識しながら、あたしは一度ビルの入り口の自動ドアを出た。
そのくらい、男が嫌いだった。
しばらくして戻ると、もうそこには人影がなく、あたしは安心してため息をつく。さっきと同じルートを辿って、重いドアに体重をかけて開くと、そこにはさっきと変わらない音たちが溢れていて、それがあたしを安心させた。
「おう。瞳呼。ありがとうな。」
斗亜さんに牛乳とおつりと領収書を渡して、あたしはようやくカウンターの端の席に落ち着く。そこはいつもの特等席だった。




