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一人で企画を実行する【セルフプランニング】シリーズ。
【SF一人祭2013】第一弾『恋人は会社役員』の第四部です。
夜の帳が完全に降りた午後八時。
それを少し回った頃、わたしは高級ホテルの会議室の前に居た。
カウチソファで時間が過ぎていくのをゆったりとした気持ちで佇んでいる。
左腕の時計で時刻を確認してから視線を上げた時、会議室のドアが開いた。
わたしは会議室から出て来た久志部長に駆け寄った。
「お疲れ様でした」
久志部長は疲れた様子も見せずに、私に手を振った。
「政府の役人達は頭が固いな」
わたしに微笑みながら、会議の感想を洩らす。
わたしは会議資料を受け取りながら応える。
「仕方がないですよ、役人ですもの」
その言葉を聞いて、久志部長はわたしに微笑んでくれた。
「それもそうだな」
二人で笑いながら地下の駐車場へと向かった。
久志部長が車のキーロックを解除して、助手席のドアを開けてくれる。
そして、わたしが助手席に滑り込んだのを確認するとドアを静かに閉めてから運転席に乗り込む。
一度も切り返すこともせずに地下の駐車場から出て、車をスロープから地上へと走らせる。
「僕は会社に戻るけど、その前に君を家まで送り届けるよ」
「はい」
わたしは久志部長の言葉に逆らわない。
それは、彼に対するわたしなりの気遣いだと思っているから。
都市高速を駆け抜けていく、久志部長とわたしを乗せたアッパークラスセダン。
ビルの林を縫うようにして伸びている都市高速を速く静かに走行する。
街の光が遠くまで見えて綺麗な景色が車のウィンドウに流れていく。
「部長」
窓の外を見ながら、わたしの口がふいに言葉を出した。
「なんだい?」
久志部長は動ずることなく車を運転している。
このシチュエーションでわたしは部長に声を掛けるのだが、それはいつも仕事のこと。
だけど、今日は違う。
今日こそは仕事以外のことを訊きたくて。
「立ち入ったことを訊いてもよろしいですか?」
わたしは勇気を振り絞った。
「答えられることならね」
久志部長はチラリとこちらを見て微笑んだ。
良かった。
わたしはそう思った。
いつもいつも訊けそうな雰囲気なんだけど、どうしても切ない気持ちが邪魔をして。
「あのぉ、独身だって仰いましたけど、ホントに独身なんですか?」
あら、やだ。
わたしって何を訊いてるのかしら、まったく!
単刀直入じゃない、それって。
「うん、そうだよ。おまけに恋人もいないしね」
運転する視線を全く変えずにアッケラカンと答える久志部長。
「あ、いえ、そのぉ、恋人の話までは……」
何を赤くなってるんだ、わたしは!
「強いて言えば、仕事が恋人かな? なんちゃってね」
視線は前を見たまま、苦笑いする久志部長が付け加えて答えた。
わたしは凄く気恥ずかしくなって、俯いていた。
しばらくの間、ロードノイズとエンジン音だけが車の中を制していた。
「他に質問は?」
逆に久志部長から切り返していた。
あちゃー、ヤバイわよ、ヤバイ!
「えーっと、初恋の人とかは?」
おいおい! 何を訊いてるの、わたし!
そんなことを訊いてどうするの?
どんなタイプの女性が好みですか?の方がもっと建設的でしょうが!
あぁ、バカなわたし。
「ごめん。その質問には答えられない」
久志部長は静かに言った。
「そ、そ、そ、そりゃそうでしょ。え、えぇ!」
わたしはシドロモドロだった。
だけど、久志部長の次の言葉を聞いて、ドキドキしていた鼓動が収まり冷静にならざるを得なくなった。
「僕には記憶が無いんだ」
久志部長は坦々と言葉を口にしていた。
「え? それってどういうことです?」
わたしは真顔で久志部長の横顔を睨み付けた。
「普通、小学校で可愛い娘がいたとか、中学校で手をつないだとかキスをしたとか、そういう記憶があると思うんですけど?」
わたしは仕事口調になっていた。
それだけ真剣な気持ちで、わたしは久志部長に訊いているということでもあるのだけれど。
「本当に記憶が無いんだ。僕のメモリーバンクにあるのは二十七歳からの記録だけなんだ」
え?
メモリーバンク?
二十七歳からしか記録がない?
「記憶」じゃなくて「記録」って?
わたしには理解出来なかった。
解読不能だった。
「えぇ? それってどういうことですか?」
「そのままの意味だよ」
久志部長はそう答えて、それ以降は何も喋らなかった。
わたしもそれ以上の質問はしなかった。
都市高速のランプから一般道に入ってしばらく進むと、わたしのマンションが見えてきた。
久志部長はわたしのマンションの前に車を止めて運転席を降り、助手席に回ってドアを開けてくれた。
これも彼がいつもしてくれるエスコートだった。
「お疲れ様」
久志部長はわたしに声を掛けてくれたが、わたしは車中での話が頭に残って釈然としなかった。
「お疲れ様でした」
わたしはそう答えるのが精一杯だった。
そんなわたしの後姿に、久志部長は声を掛けた。
「さっきの車の中での話、全部ウソだから」
わたしは慌てて振り向いた。
久志部長は車に乗る寸前だった。
思いっきりの笑顔をわたしに見せて手を振ってから車に乗り込み、静かに走り去って行った。
久志部長のことで、妙な噂が流れ始めた。
「久志部長は、家に帰ってないらしい」
会社の始業は九時だが、早出の社員達は七時に出勤してくることもある。その時間に既に久志部長がオフィスにいたらしいのだ。
そして、どんなに残業しても二十一時までと決められている社則ではあるが、いくら会社役員で社則は関係ないとは言え、毎日毎日最後の社員が帰るのを見届ける取締役部長というのも、何かしら妙なものだと思うし。
更に、海外出張のフライトの関係で朝五時に出勤した社員が久志部長を社内で目撃したとの噂が広がり、夜中の零時にスキーに行く社員が会社で待ち合わせしていて、そこでも久志部長を目撃したという噂も広がった。
そんな渦中に、わたしの同僚の冴子が給湯室で話し掛けてきた。
「ちょっと、ちょっと。華織は部長と恋仲だから、例の噂の件はホントなの? 真相を教えなさいよ!」
だ、誰が『恋仲』なんですってば!
まぁ、そうなれればいいかなぁとは……って、違う!
「知らないわよ、わたし!」
わたしの答えに冴子は怯まなかった。
「まぁまぁ、お熱いことで」
わたしはムカッときて言い返してやったわ。
「そんな仲じゃないわよ、残念ながらっ! あまりにも潔すぎて底まで透けて見えちゃってるわよぉ……」
わたしは自分で言っておいてガックリと肩を落としてしまった。
それを見た冴子が慰めてくれた。
「そーか、そーか、それは悪かったわ。よしよし」
しかし、冴子は怯まなかった。
「で、どうなの?」
「知らないわよ、もうっ!」
もう一つ、久志部長に関しては噂がある。
「久志部長は、お昼ご飯を食べていないらしい」
確かに、昼休みになると久志部長はオフィスから消える。しかし、社内食堂で久志部長の姿を誰も見ていないし、見たという話も聞かない。わたしも社内食堂でもフードコートでも久志部長の姿を見たことがない。
「華織ぃ……」
「知らないわよ、わたしはっ!」
給湯室での冴子の追撃は容赦がない。
「ホントに知らないの?」
「本当に知らないのよ、わたしは!」
冴子を無視して、わたしは部長執務室の接客用コーヒーのお湯を汲んでいた。
「しかし、謎だらけね、久志部長」
冴子がつくづくと言うので、わたしもうなずいた。
「ホントね。謎だらけ」
わたしの言葉に冴子がわたしの横腹を肘で突っつきながら言う。
「部長のこと、好きなくせにぃ」
その言葉にわたしは赤くなってしまい、手元が狂って冴子にお湯をぶちまけてしまった。
帰宅の件といい、食事の件といい、実に不可解な久志部長なのだが、更に不思議なことに、飲み会だけは必ず参加されるのだ。
プロジェクトの打ち上げ、忘年会、新年会、そして新入社員歓迎会と、必ず姿を見せて挨拶までされるのだ。楽しい歓談では、カラオケなんかを歌って場を盛り上げている久志部長だったりするのだ。
ちょっと歌は下手だけど。
何ていうのかなぁ、ちょっと前に流行った『ボーカロイド』ってヤツ?
あんな感じで歌うのよねぇ。
まぁ、カラオケの話はどうでもよくてね。
飲み会の時の久志部長の様子を見てると、やっぱり食べてないのよね。
立食パーティの時にわたしが一度、オードブルを持って久志部長のところに行ったの。
「部長もお食べになったらどうですか?」
そう言って差し出したのよ。
「ありがとう、華織さん。でも、呑む時はね、僕は食べないことにしているんだ」
そう言って、久志部長に断わられたことがある。
その時は、呑んだら食べないのかって思っただけだったけど、飲み会の時でも同じだった。
ビールやワイン、ブランディー、ウィスキーなどのお酒はどんな種類でもグビグビと呑まれるけれど、食べ物は一切口にしていない。
その証拠に、久志部長の前に置いてある割り箸はいつも割れていないのよ。
不思議過ぎる久志部長。ホントに謎が多過ぎるわ。
それは分かっている。
だけど、わたしはまだ踏み込めない。久志部長のプライベートには。
だって、わたしはまだ久志部長に言ってないんだもの。
大切で大事な一言。
とても勇気が必要な言葉。
それは『好きです』っていうセリフ。
これが言えれば、と思う。
これさえ言えたなら、って考えることもある。
でも今はまだ無理。お互いに忙し過ぎるし。
いつも顔を合わせているけど無理無理。仕事で精一杯だし。
それに久志部長の気持ちはどうなのかしら?
だって、久志部長にそんな素振りを感じられないから。
だから、わたしの心の中は不安でいっぱい。
でもいいの。
毎日、久志部長の顔が見れて、久志部長の声が聞けるのなら。
そして。
毎日、わたしに久志部長のその笑顔をくれるのなら。
わたしはそれで充分なの。
今は。
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