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「ただいま、梨々子さん」
ベッドに雪崩れ込んできた石けんの香りに、眉をしかめたのは幾度目だった?
返事がないのをいいことに、もぞもぞとお布団に潜り込もうとするライを片手で止めながらサイドテーブルのランプを点ける。
5時…夕方じゃないわよ、朝。夜明け前の一番安らかな微睡みの時間よ?
これだから時間不規則商売は!
「どうして素直に自分のベッドで眠れないの!ここは私の部屋、わかってる?」
「わかってるから来たんでしょ。何度言っても僕の部屋で待っててくれない、梨々子さんが悪い」
「他の女の匂いが染みついた布団で、眠れるわけないでしょ?!」
拗ねた子供の戯言に、勢いで返して失敗に気づいた。
「妬いてるんだ、可愛い」
無駄な抵抗を払いのけ、ライが満面の笑顔で飛びついてきたのは必然。
言葉のアヤなのにぃ…ちょっぴりはね、嫉妬も入ってるかも知れないわよ。だって自分の飼い猫が知らない人に懐いてたらショックじゃない。
でもほら、そんな理由じゃなくて…いえ、それが嫉妬?
「大丈夫、僕の一番は梨々子さんだからね」
ぎゅーぎゅー苦しいくらいに抱きしめられて、諦めの吐息を吐く。
最近思考が無限スパイラルに入っちゃうことが多い気がするわ。それで考え込んでる隙を突かれてライにいいようにされちゃうってパターンが定番なの。
「好き、大好き…」
囁きならがら深く口づけられて、なし崩しに受け入れる。
でも、今日は大事なことを忘れて、流されたりしないわよ。ひっかかるじゃない。1番って表現は2番も3番も、きっとその先だっていっぱいる人が使う表現よ。わかってる?
「ストップ」
奴の不用意な発言のおかげで、私の中の甘い霞は吹き飛んだ。
勢いづいて首筋に胸元に進もうとした頭を押し止めると、布団を引っ張り上げてにっこり一言。
「もう少し眠りたいの。睡眠不足で出勤すると、仕事に差し障るのよ」
僕のモノ宣言から10日、いつ手に入れたのか合い鍵を使って不法侵入を繰り返す隣人に貴重な睡眠時間を削られているのだ。これは紛れもない本音である。
それとね、もう一つ。隠してる理由もある。
さっきみたいな些細な言動といい、職場といい、年齢といい、ライには私が手放しで信じ切れない要素が多すぎるの。
この調子じゃ今の所、際どいながらも守ってる最後の一線だって、遠からず踏み越えることになるかもしれなくて、だけど本気になっちゃった後で他に好きな人ができたとか、さらっと言われちゃったら簡単に立ち直れない自信があって。
だから、一緒の時間が増えるたび芽生えていく何かに、私は気付かないふりをする。仕事を振りかざして、彼と距離を取る。
「ふうん…じゃ、次の機会にね。おやすみ、梨々子さん」
そんな気持ちを知ってか知らずか、片眉上げただけであっさり引き下がったライは、子供にするようなキスを頬にくれて、さっさと夢の国の住人になった。
ちゃっかり私を抱きしめてはいたけど、わきまえてるというか、飢えてないというか、あんまり淡泊だとやっぱりホストにからかわれてるような気がしちゃうな…。
ま、いいけどね。深入りしなきゃ良いだけだもの。
Tシャツ越しに感じるライの体温に寄りかかって、私もゆっくり目を閉じる。
まったく、明日こそは自分の部屋で寝るよう、きちんと言い聞かせなくっちゃ…。
そんな連日の早朝襲撃で疲れが溜まっていた夕方、嵐はやって来た。前触れもなく。
「あんたね、ライの1番て」
やっと気の抜ける自宅について、後は鍵を開けるだけなのに、背後からアンタ呼ばわりとは失礼な。
憤慨して振り向いた先には、いかにも夜のお仕事出勤前って風に、ばっちり決めたお嬢さんが仁王立ちしてる。
「ライのお得意様?それとも個人的に付き合いのある女性?どちらにしてもヤツ絡みに違いはないようだけど、私にご用でも?」
単刀直入、下手な前置きは無しでいこうじゃないの。
冷静に冷静にっと唱えつつ可能な限りのにこやかさんで問うと、つんと顎を上げた彼女は仕草そのままの口調で言い放つ。
「ライはみんなのものよ。ルールもわからない女に関わってほしくないの」
ぎっと睨まれて、ふぅっと溜息。
みんなのもの…アレは共有財産だったのか。べたべたごろごろ張り付いて、のべつ幕無しいろんな女性に甘えているが、基本野良なんだから首輪なんかつけるんじゃないと、言いたいわけね。
どんなに高級な餌を与えてるんだか知らないけれど、なにかあるたびいちいち牽制に赴くとは、ご苦労なコト。
「それなら引き取ってくれて、構わないわ」
面倒はごめんだ。勝手に懐かれた上に、ケンカまで売られるなんて割に合わない。
自分より背の高い彼女に見下されながら、やっぱりこんなオチだったかと妙に納得して、私は言い放つとさっさとドアノブを回す。
冗談じゃないわよね。何人もいる女に順番つけて、割り当てられた数時間だけ恋人って付き合いきれないっていうの。1番なんて称号、嬉しくもない。いつそこから蹴落とされるんだって怯えながら、一緒にいるのはごめんよ。
「引き取れですって?どんな手を使ったのか知らないけど彼、あんたの部屋に入り浸ってるそうじゃないの!弄んでおいて飽きたから捨てるなんて、何様なの!!」
…すごい言いがかり。別れさせたくて来たくせに、頷けば怒鳴られるわけ?
「鍵はポストに入れておくように言って。私は引っ越すつもりはないから、引き離したいならあなた達でライに、別の部屋をあてがうのね」
「…!!」
小気味のいい破裂音が、長い廊下に響いた。
肩をドアに押しつけられて、思い切り頬を殴られたらしい。自分の身に起きたことなのに詳細が判然としないのは、短時間に猛スピードでお嬢さんが動いたから。
この上暴力沙汰とは…理不尽な…。
「気は済んだ?」
でもま、これで厄介ごとと縁が切れるなら安いもの。じんじんと鈍い痛みを伝えてくる頬を無視して、僅かに揺らぐ瞳を凪いだ気分で見つめる。
ここで感情的に返せば、彼女のお気に召す修羅場になったんでしょうけどね。そこは年の功。冷静に出れば意外とコトは大きくならないものなのよ。
「に、2度とライに近づかないで!!」
捨て台詞を吐いて、派手な靴音を響かせて退場したお嬢さんを見送ると、私はゆっくりとドアをくぐった。
鍵を閉め、チェーンをかけて背を扉に預けると、不意に疲労感が襲い来る。
そうか…ライの襲撃が本当にイヤなら、こうしてチェーンをかけてしまえばよかったんだわ。そうしたら帰宅早々こんな目に合うことなかったのに。
驚いて、怒りながらもそうしなかったのは、私が彼の来訪をきっと、待っていたから。子猫のようにすり寄るライを受け入れて、手に入れたモノの温かさに酔っていたかった。
だから、頬はこんなに痛む。
無邪気に好きって言われたの、久しぶりだったもの。本人も忘れかけていた気まぐれな優しさを認めてもらえて、嬉しかったし。
…全部ね、全部ひっくるめて素の私を抱きしめてくれる腕が、好き、だったんだわ。
皮肉なもので自分の心に気づい時は、彼は1人のモノにならないと教えられた後だったわけだ。
人なつこい笑顔も、旺盛なサービス精神も誰かと共有するなんてごめんよ。大事な人は心も体も全て、囲っておきたいんだもの。
明かりのない部屋で、一人が寂しいと感じるほどに馴染んだ存在は、もう手に入らない。
崩れるように座り込んだリビングには、ラップのかかった皿が数枚並べられていた。
勝手に出入りする気まぐれなライが、置き手紙と一緒に用意していく私の夕食。
「どこにでも、行けばいいのよ」
ずっと誤魔化していたのに、答えは出てしまった。
あなたの、たった1人になりたかったのに。
指先に触れた手紙を見もせずくしゃりと丸めると、料理を皿ごとゴミ箱に捨てた。