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ああ、釈然としない…。
美味しいパスタも、午後の緩やかな時間の流れも、心地よいクーラーも、全てにおいて快適な空間を演出してるって言うのに、どうしたって腑に落ちない。
「メール打つなら自室に帰ったらどう?」
諸悪の根源は、窓際の日だまりにいた。
私のお気に入りのポジションに怠惰な猫よろしく転がって、携帯をカチカチカチカチ…うるさいのよ!
「ごめんね、相手できなくて。もうすぐ終わるから待ってて?」
素敵に微笑まれても、あなたのご用が終わるのを待ってる義理は私に無い。
そもそも、自宅を我がモノ顔で歩く他人の存在が癇に障ってしょうがないのよ。作ってもらったご飯にけちつけるのも何だとは思うんだけど、勝手に冷蔵庫は開けるし、お風呂は沸かす、洗濯もしちゃうって昨日会ったばかりの人間がすることなの?
ここはひとつ断固とした態度で臨まないと。
「あのね、相手がどうとかじゃなくて…」
「パスタ、口に合わなかった?」
「いえ、大変美味しいです…や、そうでなく…」
「あ、掃除もしておいた方がよかったとか?」
「とんでもない!お洗濯だけで充分です…だから…」
「うーん、もうちょっとだけ待って?」
「…はい…」
………うがー!!何引き下がってるの、私!!
でも、でもぅ…。あの笑顔で小首傾げられると、つい負けちゃうのよぉ。
そもそも、ベッドでの激しい攻防の後、根負けして『もう、ライの好きにして』って口を滑らせたのがまずかった。
小躍りしそうな勢いで布団を飛び出した彼は、湧かしたお風呂に私を追い立て、出てきたら美味しいご飯でおもてなし。
文句を言う暇さえ与えてもらえず、口を開けば笑顔でかわされる。
…勝てない…違う、勝負にならない。
諦めて、残りのペペロンチーノを片づけにかかりながら、目の前の男を盗み見た。
ジーンズにTシャツのラフなスタイルでも、イケメンは決まるのね。この容貌と、ホストの話術があれば女はよりどりみどりでしょうに、猫一匹の為に5つも年上の私に入れ込むなんて変な子。
…はっ!恩返し?猫の恩返しなの?こいつホントは猫??
「終わったよ、梨々子さん」
携帯放り出して、膝にごろごろとなついて来たライの髪の中をつい、探ってしまう。
「…どうかした?」
「いえ、猫耳が隠れてるんじゃないかと思って」
ほら、あの子黒猫だったじゃない?髪に同化して見えないだけで、きっとあるはずなのよ、この辺に。
「?猫耳好きなの?コスプレ好きならアキバで揃えてくるけど」
好きじゃないわよ、そんなもの!
「
あなた、あの日の黒猫じゃないの?」
我ながらバカな質問したとは思うわ。
でも、首を傾げて邪気のない笑顔を向けてくるその仕草は、にゃんこ達が構って欲しい時に見せる表情にそっくりだったんだもの。勘違いしてもしょうがないでしょ?
「梨々子さん面白い」
くすくす声を上げるライは奇妙な言動を気にすることもなく、長い腕の内に私を囲い込むとふわりと抱きしめた。
「猫はあなたにこんな事できないでしょ?」
頭のてっぺんにキス。
くすぐったい感触に顔を上げると、間近に迫った薄い唇が目尻に、鼻先に触れては離れる。
「梨々子さん、好き」
小さな声は、唇の中に吹き込まれた。
柔らかな温もりは非現実的で、自分が体験していることなのにどこか遠い。
……呆けてどうする。易々と捕まるなんて私らしくない。
引き戻した意識で持ち直し、キスの終わりを胸を押して告げるのに、全身でそれを拒否された。
のし掛かられて、倒れ込んで。背中に当たるフローリングに体温を伝える。
「学習しないね。あなたは僕のモノ。抵抗は許さない」
頬を包む両手は顔を背けることを封じて、触れ合ったままの唇は声をくぐもらせた。
「口を開けて…」
命じられても聞かないわよ。
嫌いじゃない、憎めないけど好きとは違う。まだ早い。触れ合って確かめ合うには、彼の事何も知らない。
「…強情…でも、可愛い」
楽しそうに囁いて、唇が離れた。
諦めたのかな?
遠ざかる微笑みに気を抜くと、首筋に濡れた感触が落ちてくる。
「やっ…んっ!!」
反射的に開いた唇は、待ちかまえていた彼に塞がれた。
ぬるりと無遠慮な舌は、押し返そうとすれば吸い上げられ、逃れれば歯列を上あごを撫で上げていく。
嵌められたと理解すれば口惜しいのに、思う端から与えられる快感に打ち消されて、ハレーションを起こした頭は思考すらライに支配されていた。
翻弄されてる、年下相手に。5年よ?人生経験だって、恋愛だって、私の方がずっと先輩なはずなのにどうして?
逃げたくても体中クラゲみたいにふわふわして、ちっとも力が入らない。
しっかりしなさい、私!
「ホントに意地っ張りなんだね、梨々子さんは」
呆れ声のライは、ようやく解放した獲物を見下ろして短いため息をついた。
「もっと夢中になればいいのに。キスに溺れて僕しか感じなければいい。ドロドロに溶けちゃえば快感しか残らないでしょ?」
訳知り顔がむかついて、唇を尖らせる。
残念ながら、いきなり現れた男に夢中になれるほど、愚かじゃいられないのよ。
「ライのテクニックが足りなかったんじゃない?」
押し倒されてる現状じゃイマイチ説得力には欠けるけど、手玉に取られるなんて冗談じゃない。
挑発的に口角を上げると、敵は一枚も二枚も上で。
「そう?じゃ、リトライしなきゃね」
嬉々として、宣言してくれるわけ。
ゆるゆる近づく微笑みに、表には出さないけど冷や汗いっぱいで次の手を考えた。
話題…この流れを止める話題! !
「猫、どうしたか聞きたくない?」
苦しい…脈略もなく猫持ち出すんじゃ騙されないかな。
「…聞きたい。どこにいるの、あげちゃった?」
食いついてくれたか…。
心配に僅かな陰りを見せる表情を和らげようと、私は重い体を押しのけてチェストに手を伸ばす。
「梨々子さん?」
「待って待って、確かこの辺に…あった」
這いつくばってやっと手の届いた引き出しには、実家からの郵便物が無造作に放り込んである。
何度言っても電算化に反対の家族は、いちいち手紙で近況を報告してくれるんだけど、これ結構楽しみなのよね。最近の物には写真が同封されてたはず。お目当ての彼女がたくさん写った奴が。
「はい、どうぞ」
手渡した一枚を食い入るように見つめて、ライの顔が綻んだ。
現在6匹に増えた猫軍団が一同に会した珍しいショットは、あの日の黒猫もはじっこでだらしなく寛いでいる。
「すごい、幸せそうだ。これ、実家?」
縁側に庭は都会じゃそうはあり得ない光景で、彼に話した通り家族に預けたのだとすれば答えるまでもない疑問。
「うん、すごいでしょ。どんどん拾ってくるものだから、帰るたびに増殖してるの」
ミニアルバムに収納してある分も渡して、一人ずつ馴れ初めを紹介してやると、さっきまでの強引さは鳴りを潜め、次第にほんわかムードが漂ってきた。
やれやれ、危機は脱したわね。このまま午後ののんびり感を堪能させて頂戴よ。
「可愛がってもらってるんだ」
ご機嫌なライを刺激しないよう、距離を置いて座り直した私はパーソナルスペースを手に入れてホッと肩の力を抜いた。
「猫激ラブな人達だからね。子供もいるのに、その子らと猫の扱いが一緒なのよ。むしろより可愛がってるくらい」
「梨々子さんも猫好き?」
「子供の頃から常に一緒だったからね。一人暮らしが寂しいのは猫がいない事かしら」
ビバ、無難な話題。和むわねぇ。
ニコニコこっちを見てるライも、人畜無害な綺麗な男の子になってるもの。平和平和。
眺めてるだけならいい目の保養だわ。
…ところが、人生、そう甘くはないのだ。
「大丈夫、これからは僕が一緒だから寂しくないよ」
ぽす。
間抜けな効果音と共に飛びついてきたのは、柔らかくも小さくもない巨体。
ああ、やめて!胸に頭をすりつけないで!小動物じゃなから可愛くないのよ、卑猥になるの、あなたがやると!
「ずーっと側にいてあげる。梨々子さんを夢中にさせるって宿題も残ってるし、絶対離れないからね」
そう来るの?そう来ちゃうの?なごやかさんじゃダメなのね?そして覚えてるのね、私の不用意な一言も!
張り付いて喉をならさんばかりの偽猫は、貰い手が引く手数多のくせに家に居着くと決めてしまったようなのだ。
人間なんて飼っても、かわいくないじゃないのよぅ…。