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土曜日の早朝、駅構内から出ると、とっくに上っているはずの太陽は、分厚い雲と冷たい雨に遮られて全く姿が見えない。
完徹だけでもつらいのに、初秋の冷たい雨の中、マンションまで歩かなきゃならないかと思うと気が重いことこの上なかった。
かといってタクシー拾ってもワンメーターにもならない距離じゃ、乗車拒否されかねないしね。誰でもいいから早いとこ『どこでも○ア』発明してくれないかしら…。
諦めて踏み出した帰路には、朝なら必ず出会うジョギングするを人も、犬を散歩する人もいない閑散とした光景。
当然か。濡れねずみになってまで健康維持や犬のストレス解消し酔うなんて物好き、そうはいやしないわよ。
時折吹く強い風に負けないよう、傘を握りしめて歩く私は、静かな街並みに気を抜いていた。
そう、生き物が外にいるはずはないってね。
だから何気なく通り過ぎようとした電柱の陰に、蠢く何かがいるって知った時は心臓が止まるかと思ったくらいよ。
急ブレーキをかけてよくよく観察すれば、黒い塊に見えたのは広い背中。
傘もささずに道ばたにしゃがみ込んで、何やら胸元を押さえてるとは、もしかして心臓発作とか??
「どうかしましたか?」
思わず声をかけたらば、ゆっくり振り向いた顔と目が合った。
濡れそぼった長めの髪に顔半分を隠された、若い男の子。
「あっ…その、猫が…」
下げられた目線を追うと、かき合わされたジャケットの胸元から、蠢く毛玉が見え隠れする。足下には濡れて崩れかかった段ボールと来れば状況は一目瞭然だった。
「捨てられてたの?」
「はい…」
困ったように微笑むのは、自分で連れて帰ることができないから、なんでしょうね。
まあ、そうでなきゃとっくに猫付きで家に帰ってるはずだし。この時期の雨はシャワーには向いてないもの。
「引き取り手が見つかるまでそうしてるつもり?」
子猫を濡らさないように彼に傘をさしかけると、不思議そうにこちらを見つめながらこくりと頷く。
飼い主見つけるには何時間雨に打たれればいいか見当もつかないって言うのに、若さって無謀よねぇ。
ふむっと、泣きやみそうにない空とずぶぬれの青年を見比べて、自然と唇が苦笑に歪んだ。
……ほっとけないか。
「私が連れて帰るわ。家族に猫大好き人間が二人もいるから喜ぶでしょ」
マンションじゃ飼えないけど、実家には母さんと兄嫁がいる。
2人とも猫と名の付くものなら何でもいいのかってくらい無類の猫好きで、今も捨てられてたのを3匹飼ってたはずだから、そこにこの子を置いてくるくらい、喜ばれることはあっても怒られることはないでしょ。
万が一断られても、会社で探せば一人や二人猫好きはいるはずだし。
頂戴と、差し伸べた手を彼はしばしの逡巡で眺めていたけれど、やがてそっと抱き上げた子猫を手のひらに乗せてくれた。
小さな体を震わせて、泣き声も弱々しい黒猫は、生後2ヶ月ってとこかしら。
暖かな懐から、急に外気に触れて怯える様子を見せるのを、ブラウスと素肌の間に落とし込んで落ち着かせる。
いきなりそんなことをしたもんだから、男の子のほうが驚いちゃって、目をまん丸にして聞いてきた。
「爪、痛くないの?」
「このくらい平気。寒いとこの子が死んじゃうからね」
始めはもぞもぞと動き回っていた子猫も、胸に手を添えて足場を作ってやると大人しく暖を取り始める。
こっちはよしっと、次は…
「使って」
びしょぬれの姿にもう遅いかなと思いつつも傘を押しつけると、その意味に思い至った彼が盛大に首を振る。
「ダメ、そんなことしたらあなたが濡れちゃうよ。僕はほら、今更だから」
水分をたっぷり含んだ重そうなジャケットは、確かに救いようもなく見えた。
それでも、冷たい雨は当分やみそうもないし、どこまで行くのか知らないけれど傘無しっていうのは辛いと思うわよ。
「私のマンションあれなのよ。だから、使って?」
幸いなことに20メートルも走れば我が家である。すぐにも着替えはできるし、洋服でガードされてる猫が濡れるとはない。
自分に必要のなくなるものを貸さずにおくっていうのは、良心が痛むのよ。袖触れ合うも多生の縁って言うじゃない?優しい少年にはちょっとくらいご褒美があってもいいはず。
それがあまり必要性を感じない傘のプレゼントだとしてもね。
使って欲しいって期待を込めて見つめていると、諦めたように彼に微笑みが浮かんだ。
あら、笑うとなかなかいい男じゃない。髪に目元が隠れているのが惜しいけど、綺麗な肌に薄い唇が印象的。徹夜明けのぼろぼろの顔してる自分が、恥ずかしくなってくるわ。
「…方向一緒だから、あなたを送った後に借りることにします」
真っ赤な傘を受け取って立ち上がった背の高い少年と、それは一瞬の邂逅だった。
もう二年も前、ほとんど思い出すこともなかった出逢い。
「思い出してもらえました?」
奔流のように蘇った記憶を辿っていた私を呼び戻したのは、薄い唇に笑みを刻んだ青年で、たぶん成長したあの日の彼。
自信がないのは、記憶が定かじゃないからよ。だって顔、ほとんど見てないんですもの。
「別れ際、確かに言ったわね『あなたも捨て猫みたいね』って」
マンションの前、立ち止まって見やった彼はぬれねずみで、胸の中で丸まる猫よりよほど、捨てられた憐れさを漂わせてたのよ。
その光景はとても印象的だったんでしょうね。捨て猫で真っ先に思い出した青年の姿は、赤い傘をさして寂しそうに佇むあの一瞬だったんだから。
「一緒に住んでた人に連れ帰った子猫を返してこいって言われて、すごく悲しかったんだ。せめて良い飼い主を見つけてあげたかったのに、人は通らない、雨は降り出すで絶望的な気分に拍車がかかっちゃって」
「一緒にって女の人?高校生くらいじゃなかったの?」
「…昨夜、僕のインタビューしてませんでした?」
かなり驚いて質問したら、むっとされてしまった。
えーっと、香奈の一つ下だと思ったんだから23か?猫を拾ったのが2年前だから…。
「やだ、20越えてたのね」
単純な計算で更にびっくりしちゃったんだけど、それを見たライはこれ見よがしに首を振るとさっさと本題に戻っていった。
失礼ね!…って私の方がよっぽど失礼だったわ。あははは…。
「あの日以来、猫の行方とあなたのことが気になって、マンションの前でうろついてみたり、駅の付近で姿を捜したりして。でも、いざ見つけると声がかけられないんですよね」
照れ笑いしてる場合じゃないってば、立派なストーカー行為じゃないの。それって危ない人よ?
と、思うんだけど口にできる雰囲気じゃない。どうも重大な告白をしてるみたいだからね、彼は。
仕方なしに黙って見上げてると、つらつらライの告白は続いていく。
「なんとか自然に近づきたくて、仕事頑張ってこのマンションに住めるくらいの収入を手にしたのに、再会した梨々子さんは僕のこと全く覚えてなかったでしょ?廊下で挨拶したら返事はしてくれるのに、あの日の話題には思い至りもしないんだ。毎日不満は募るし、どうにかなりそうだった」
猫拾ってもらったくらいで随分な思いこみようよねぇ。
だから気になるじゃない、どうにかって、どうなるのよ。覚えてないくらいで、私は何されるところだったわけ?
「例えばどんな具合に?」
興味津々で聞いてみたらば、さらりと怖いお答えを頂ける。
「部屋に押し入って猫を捜して、僕を思い出してくれるまで監禁しようか、なんてね」
……そりゃあ、落ち着いて今日を迎えられてよかったこと。もしも爆発なんてした日にゃ取り返しのつかない犯罪者のできあがりだもの。
「恐ろしいこと考えるのね。昨夜会えて、私は命拾いした気がするわ」
編集長に大感謝したくなる時間外労働は初めてだったのに、何故かライが笑うのよ。くつくつと喉の奥で張り付くような、気味の悪い声出してね。
何?私の安全はまだ保証されてないとか?
「偶然じゃないんですよ、梨々子さんが昨日店に来たのは。僕の起こした必然」
まさか、と笑った顔が引きつったのは、彼の真剣な目を見たから。
「仕事よ?どうしてホストが私の仕事に口出せるのよ」
編集部とホストクラブなんて、全然共通点がないじゃないの。
「企画を通したのは誰?」
「…編集長」
「新人さんに担当を決めたのは?」
「…編集長」
「梨々子さんに同行を命じたのは?」
「…へんしゅうちょー…」
「宮下様は僕のお客様なんだ」
……ああ、そう。グルか、グルだったのか。
そうね、今考えると編集長らしからぬ行動が、端々に見えるじゃないの。
ホストなんて言葉が出そうもないお堅い人物からの企画書に、任せたら限りなく不安な香奈の抜擢、連日残業続きだった私に有無を言わせぬ同行、全部変よ!
「指名客が減って大変なんだと匂わせて、取材をお願いする。編集者は宮下様の敵にはならない新人を起用してみたらと提案して、仕事熱心な先輩を同行させれば安心だよってけしかけた。もちろん、僕は絶対に二人をお客様にしないって条件付きでね」
「ホストってホストって…」
声にならないじゃない。この、舌先三寸めっ!
編集長にも呆れるけど、私1人に会うためにそこまでするこいつにも呆れるわ。
睨みつけながら、ひとつ思いついた疑問をぶつけてみた。
「10人はいる編集部で、確実に私が来るって保証がどこにあったのよ」
ここ、重要ポイントよ。うまくけしかけに成功したって、お目当ての人物が来なければ意味ないはずなんだから。
「ずっと仕事の愚痴を聞いてたんだよ?そのくらいリサーチ済み。今年の新人は一人だけで、指導は梨々子さんがやってる。仲も良いみたいだし、彼女のフォローも得意な先輩と来れば宮下様の考えるコトなんて手に取るようにわかるよ」
得意げなライの様子は、私が脱力するのに充分過ぎる威力を持っていた。
大の大人が、若造にいいように操られるってどうなの?しかもホスト一人のために企画起こさないでよぉ…おかげで吐くわ、捕まるわ一大事なんだから。
そう、そうよ。私捕まったままなんだわ。ベッドの中、至近距離で見つめ合っちゃって、手足は押さえ込まれて。
説明を聞く限り、望みは果たしたのはず。いい加減解放してちょうだい。
「すぐに思い出しさなかったのは本当に悪かったわ。今はすっかり脳に刻んだし、廊下で会ったら愛想よくお返事もしちゃうから、もういいでしょ?これ、どかして」
重い手足をか弱い抵抗で示してみせると、ご機嫌だった彼の表情が曇った。
あからさまに、全身から不機嫌オーラをまき散らして、ね。
今度は何?!
「梨々子さん、ホントに人の話聞いてないよね。あなたは僕のモノって言ったでしょ?」
「一方的に宣言しただけじゃないの!納得してないわよ」
なんて始末に負えないガキ!なまじ図体がでかいものだから、正に力ずくじゃない。私はおもちゃじゃないのよ!
火を噴きそうな勢いで睨んだら、ライはすっかりへそを曲げちゃったみたいで。
「じゃ、納得するまで放さない」
ちっとも目が笑ってない全開笑顔で、宣言されちゃったのよね~…。
一体どうしたら出てってくれるわけ?!ここ、私の部屋なんだけど!!