表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
CHASE  作者: 他紀ゆずる
4/12

 何とも言えない違和感に、ふと目が覚めた。

 ふかふかのお布団も、手足を伸ばせる開放感もやっと手に入れた安眠だって言うのに、微睡みの中、気づいてしまえばもう夢には帰れない。

 ゆるゆると覚醒する意識に苛立ちを覚えつつも、重い目蓋を開くことなく探索の手を伸ばした私は、何もかもが自分のベッドと違うことに指先を硬直させた。


 コットンをこよなく愛する人間は、シーツにシルクなんか選ばない。頬に当たる枕カバーさえサラリと肌を撫でるのは高級素材が寝具全てを覆っている証拠。

 スプリングの効いたマットレスも私は嫌い。沈み込む体の重さに絶えられず腰痛の元になるんだもの。だから敷き布団引くタイプのベッドに寝てるのよ。

 そして、極めつけが染みついたパフュームの気持ち悪さ。甘ったるい香りの陰に男物のシトラスが混じり合って、耐えられないハーモニーを醸している。

 人工的な香りを好まない私が、そんなものを安息の場に持ち込むはずがない。ましてや男性の香りなんて今の現状じゃ残ること自体おかしいのよ。


「どこ?!」


 飛び起きた途端に襲いかかる激しい頭痛に、空っぽの胃袋が悲鳴を上げた。

 寝不足が原因の偏頭痛は、短時間の睡眠で回復するどころか悪化してる。ついでに起き抜けに意識した香水に胸のむかつきがプラスされ、今すぐトイレに駆け込まなきゃここで吐くこと請け合いだ。

「………?」

 近くで問いかける声を聞いたけど返事をする余裕はなく、這い出したベッドから見慣れぬ部屋を彷徨ってバスルームのドアをくぐった時は限界が間近だった。

 冷たい洗面台に張り付いて、ほとんど胃液だけの内容物を涙ながらにぶちまけた私は、顔を上げて鏡越しに見つけた顔で己の居場所を悟る。


ホストのライは、隣の住人。彼の車から降りた記憶は--ない。


「梨々子さん、平気?」

 隣にかがみ込んで、上下する背をさする優しい腕をはねのけたのは、条件反射。

「ちか、づかないで…!コロンが、気持ち悪…」

 仄かに香るシトラスに、刺激された胃を押さえながら再び嘔吐した。

 悪いと、頭の隅では思うのに生理反応は収まらず、よじれる痛みに耐えながら押さえられない吐き気と戦う。

「ごめん…」

 短い謝罪に、こちらこそと言いたいけど、無理。言葉より先に、吐く。


 距離を取ってもらったおかげで薄れゆく芳香にようやく落ち着きを取り戻した私は、ずきずき痛む頭に負けて冷たい床にへたり込む。そのまま壁に背を預けて目を閉じると、浅い呼吸を繰り返した。

 寒い。お布団にくるまりたい…。

 痺れて冷たくなった指先を引き寄せながら思うけど、歩くだけの力は残っていなくて、せめてもと小さく体を丸めた。

ここは、ライの部屋、よね。ちょっと歩けば自分の部屋に戻れる距離。

でも自力じゃ無理、は極端に鈍くなった頭でもわかる。お願いできれば彼に送って欲しいけど、あの匂いは我慢できないなぁ…って、肝心のライはどこ行っちゃったの?


 そこで初めて、水音に気づいた。

 水道水を流すものではない、シャワーの激しいリズムはすぐ隣から発せられていて、鼓膜を震わせる。

そっと目を開ければ床に散乱する衣類と、磨りガラス越しにうっすらと人影が見えた。

 私の部屋と間取りが同じだから、洗面台の隣は小さなバスルームだったはずだ。

……ライが入ってると考えるのが妥当、よね…?

 この時間、見覚えのある服を脱ぎ散らして、風呂場にいる男が家主以外なはずがない。

 それにしたって、いきなり何?


「梨々子さん、そこにいる?」

途切れた水音に重なるライの声に、慌てて発した返事は自分のものとは思えないほど掠れていた。

「ああ、ひどいな。喉大丈夫?」

「なんとか…」

「うん、じゃあ目をつぶってて下さい。ここから出るから」

 お風呂から出たら裸…男の裸を見るのは痴女…じゃなくて目を閉じなきゃ。

 バカな連想を終えて、視界を閉ざすとすぐに蒸気が立ちこめた。

 ぬるい霧の中歩み出した足音が真横で止まり、ふわりと動いた風がタオルを操る彼の体温を伝えてくる。


「吐き気は収まりました?」

 言外に多分の心配を込めて聞いてくるライに、安心させようと口元を綻ばせた私は、ひりつく喉を無視して声を絞り出す。

「さっきはごめんなさい。頭痛がしてるものだから匂いに過剰反応しちゃって」

「僕こそごめんなさい。頭が痛い時って、食べ物の匂いで吐く人もいるの知ってるから。でも、もう大丈夫でしょ?」

 突然、宙に浮いた体は安定を欠いていて、失ったバランスを取り戻そうと伸ばした指先が、なめらかな肌を虚しく滑っていく。

「な、に」

 目蓋を上げれば心地よい熱を放つ体に横抱きにされたことを、理解することができた。

 できたけど、この人裸?なにゆえ裸?そりゃあ、お風呂上がりは何も着ていないだろうけど、着替えるとか考えない?さっきのタオルは…腰にだけ巻いてる?


「クローゼットの服には匂いが移っちゃってるだろうから、このまま運びますね」

 こちらの困惑を見透かして回答をくれた彼は、バスルームを後にすると間接照明で彩られたリビングへと進む。

 ついでにそこも通り越して寝室へ入ろうとしたライに、私は小さく抗議の声を上げた。

「どうかしました?僕のベッドじゃイヤ?」

 どこかしら不満げな響きがあるような気がするけど、それどころじゃないわ。

 せっかく落ち着いたのに、あの匂いの中に放り出されたら元の木阿弥じゃない。


「お布団にライのコロンと…女性ものの香水が染みついてるの。吐いたのもアレを思いっきり吸い込んじゃったからで…その、親切にしてくれるのに申し訳ないんだけど、できれば自分の部屋に帰りたい」

 長ゼリフはしんどかったけど、これだけは言わないとわかってもらえない。

 香りを纏ってる人って自分の匂いに麻痺しちゃってるから、身の回りの物にそれが染みついてるなんて考えもしないんだもの。

 あ、でもわざわざシャワーでコロン流してくれたし、服を着ないのだって匂いがついてるってわかってるからなんだから、ライは理解してる?あら?


 でも彼女の好みにまでけちをつけた気がして、言い過ぎちゃったかと腕の中で身を竦ませたのに、彼は少しの怒りもみせはしなかった。

 どころか、手近なソファーに私を降ろすとテーブル置かれていたのバッグを、こちらに引き寄せてくれる。

「鍵を出しておいて下さい。僕が部屋まで抱いていきますから、梨々子さんが扉を開けてくれないと入れない」

「ご迷惑をお掛けします…」

 本来なら意地でも歩いていくって言い張りたいところなんだけど、いかんせん自由の利かない手足では這っていくの間違いになりかねない。

 素直に目的の物を探り出した私は、ここで今更ながらの重大事に気がついて全身から血の気が引いた。

「あ、あのぉ、私ってば、服着てない?」

 むき出しの膝にブラウス一枚の上半身は、パンツとストッキングを脱いだという事実を如実に物語っている。

 全く記憶にないんだけど、彼の前でストリップでもしたのかしら?


「シワになるといけないんで、僕が脱がせました」

 不安より、焦りで全身を凍り付かせた視線を受け止めて、ライは爽やかに笑うと事も無げに言い切った。

 1日着潰して、よたった服がどうなろうと構いやしないんですけどね。ああ、でも人様のお布団に潜り込むのに汚れたお洋服じゃいけないわね…取り敢えず裸ってわけじゃないし、そう慌てなくても…あれ?

「ブ、ブラしてない?」

「苦しそうだったんで、それも脱がせておきました」

「…あ、そう」

 全身を苛む倦怠感に感謝したのは初めての経験だった。

 わめき散らしたい場面だけど、体力的に無理。もういいわよ、胸の一つや二つ見られて減るもんでなし、恥じらいに頬染める年でもないもの。

 それより安眠、休息が先決じゃない。…ちょっと複雑だけど、そういうことにしちゃいましょう。


「じゃ、行きましょうか」

 頷きかけて怯むのはライが下にスウェットしかはいていなかったから。

 いいえ、動揺するコトじゃないわ。匂いが気にならないよう、上は着ないってさっき言ったじゃないの。これだけ腹筋が割れたいい体してたら、裸でほんのちょっと外を歩くくらい気にならないのよ…多分。

「お、お願いします」

 再び抱き上げられて、今度は膝裏に触れる素肌を否応なく意識しながら、私は短い家路をゆっくり辿る。


 ドア2枚分の無力な己を体感ツアーは、少しの緊張といい知れない心地よさに包まれてあっという間にベッドの上。

「へえ、住む人が違うと雰囲気が変わるものですね」

 サイドテーブルの小さなランプを灯したライがしげしげと寝室を見回してたけど、安全圏に到達して気の緩んだ私は、それを咎めるでもぼんやり眺めていた。

「眠い…」

 痛みに痺れる脳が要求する睡眠に耐えられず呟くと、視線を戻したライがそっと私の額にかかる髪をすくい上げる。


「心配だな。梨々子さん、ひどく具合が悪そうだ」

 そうね、良くはないわ。

「寒くない?冷たいよ」

 頬に移動した指先が動きを止めて、心配そうに寄せられた眉根に大丈夫と答えたいけれど声が出ない。

 沈黙と、焦点の合わない瞳を彼がどう捉えたのか、スルリと隣に滑り込んだ温もりにその答えがあった。

「暖めてあげるから、ゆっくり眠ってね」

 平気、1人で大丈夫…。

 それでも寄り添う体温が気持ちよくて、抗議の言葉を発することなく私は睡魔に飲み込まれていった。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ