『共に奏でる旋律』ジャズバーのピアニスト×歌手を夢見る青年
「それじゃあ…女性として歌います」─────誕生日に彼氏にフラれた律は、傷心で訪れたジャズバーでピアニストの響也と出逢い恋をしてしまう。歌手になる夢を諦め切れなかった律はその店の「女性」歌手として歌う事になり───?音楽が紡ぎ出す心揺さぶる純愛ストーリー。
人生最悪の日だ。
律は手元のグラスを傾けながら深いため息をついた。25歳の誕生日を迎えた今日、共に夜を過ごすはずだった恋人に突然別れを告げられたのだ。
仕事を終えた律が「彼」の自宅に辿り着くと、そこには見知らぬ女性の姿があった。その女性がまだかろうじて服を身に付けていた事は不幸中の幸いだ。衝動的に家を飛び出した律の携帯に、3年間交際していた彼から届いたメッセージは────『ごめん、彼女と結婚することになった』。
そのあまりにも残酷な一文は、律をドン底に突き落とすには十分過ぎる威力がある。
「…何も誕生日にフることないだろ…」
忘れられていたのか、あえてこの日を選んで女性を呼びつけたのか。どちらにしろ今日という日が最悪の日であることは間違いない。
律は傷心のままフラフラと、いつもは立ち寄る事のない落ち着いた雰囲気のバーにいた。とにかくどこでも良い、酒を飲んで全てを忘れたかったのだ。例えそれが一時凌ぎの現実逃避だったとしても。
この歳まで歌手になる夢を諦める事が出来ないままバイトを掛け持ちする生活を送ってきた律。一人きりで生きてきた彼にとって支えとなる恋人がいない事は精神的なダメージが大きかった。しかも今更、同性である事を理由に捨てられるなんてあまりの情けなさに笑いが込み上げる。確かに彼とは当然結婚を考えていたわけではないし、永遠に添い遂げたいと願っていたわけでもない。近頃ではすれ違いも多くなり、倦怠期という言葉が頭をよぎっていたのは確かだ。けれど「誰かから必要とされなくなる」という事実がここまで自分の心を抉るものなのかという事を、律は今になって痛感していた。
────いっそこのまま…消えて無くなってしまえたら…
その時ふと、バーにいる客達がざわめき出した。律はそこで初めて顔を上げ自分のいる店内を見回す。そこはシックな内装と心地よいジャズのBGMが流れる、まさに大人の雰囲気漂うバーであった。見れば中央のステージにはグランドピアノが静かに佇み、20代前半であろう若い女性客がやけに目に付く。そんな周りの状況に気が付かないほど律は憔悴しきっていたのだ。普段通っているような居酒屋とは違う高級感ある佇まいに少々気後れしたが、明日をも知れぬ命の自分には財布の心配などする必要はない。むしろ今日が人生最後の日であるなら、何も気にせず好きなものを飲み食いし自由に過ごすべきではないか─────自棄になっていないと言えば嘘になるが、そう考えるとほんの少しだけ気が晴れたのだ。
律が空になったグラスをテーブルに置いたちょうどその時。女性客の黄色いざわめきが静かに波紋を広げる中、グレーのスーツを身に纏う男性がピアノの設置されたステージに突如として現れた。恐らくピアニストなのであろうその男性のスタイルの良さに思わず目を奪われる律。そして何より─────
「……わぁ……すごいイケメン…」
無意識に口をついてしまうほどその彼は端正な顔立ちをしていた。凛々しい眉、大きな瞳、欧米人を思わせるような高い鼻に、口角の上がった少し厚めの唇。まるでお伽噺の王子様を思わせるようなその風貌に、律は不覚にも惹かれてしまったのだ。先程までの落胆が嘘であったかのように心を弾ませてしまう律。自分でも不思議なその感覚にソワソワと鼓動が高鳴らせる中、ピアニストの彼は流れるような所作で音楽を奏で始めた。
それはまさに動く芸術作品のような気品と美しさで、律は自分の目に映るものが信じられなかった。
ジャズにはそれほど詳しくないため曲名は不明だが、うっとりと耳に心地良いその旋律は荒んだ今の心を洗い流してくれるかのようで─────時折客席に向けられる彼の笑顔が、なぜか切なく胸を打つ。
その時律はもうすでに、恋人に振られ人生のドン底にいた数分前の自分を思い出せずにいた。あの彼に出逢うために今日、ここに導かれたのではないだろうか────そんな大袈裟な考えさえ浮かんでしまう程。
時間の流れが穏やかになり、彼以外のものが視界に入らない。まるでこの世界に二人きりになってしまったような感覚だった。演奏を終え椅子から立ち上がる彼の姿を、どこか夢を見ているかのようにぼんやりと眺める律。
「皆さんこんばんは、響也です。お聴き頂きありがとうございます」
形の良い唇から発せられたその声は想像通りの澄んだ低音で、律の心は容易くときめかされてしまう。
────あぁ…あんな声で名前を呼んでもらえたら─────
想像するだけなら罪にはならない。響也の顔をうっとりと見つめながら、落ちてきた眼鏡を中指でそっと押し上げる。
「この中で、今日お誕生日の方はいらっしゃいますか?」
『誕生日』突然彼の口から発せられたその一言に、律は鼓動を弾ませる。
「あれ、いないかな。え、今日誕生日?ふふ、先週も言ってなかった?嘘ついちゃダメですよ」
女性客達と語らいながら、長い脚で客席のテーブルの間をゆっくりと歩く響也。段々と近づくその距離に、律の心臓ははち切れそうなほどに高鳴った。
「………誕生日、です…」
普段の自分ならこの状況で手を挙げるなんて事は絶対にしないだろう。けれど今日だけは自分の好きなように過ごすと心に決めたのだ。レンズ越しに重なる響也の視線を受け、ドクドクと音を立てる心音は律の身体を小さく揺らしていた。
「お名前は?」
「え…あ……律…」
「律さん…お誕生日おめでとう」
響也に名前を呼ばれた、その瞬間。世界が輝き出した。それが過言ではないほど、律の視界が明るく開けたのだ。周りの客から発せられる拍手の音色が喝采のように木霊している。響也は律の目の前まで近付くと、胸ポケットに飾られた一輪の薔薇を差し出した。
「リクエストして。貴方の好きな曲を弾きます」
「………」
薔薇を受け取るも、目線は響也の瞳から離せなかった。暗い店内でも一際輝き吸い込まれそうなその瞳に、一瞬でも気を抜けば身も心も蕩けてしまいそうだ。
「…じゃあ…貴方の一番好きな曲を…」
響也は優しく微笑むと踵を返す。ピアノに向かっていく大きな背中を見つめながら、律はシャツ越しの自身の胸を強く掴んだ。そうしないと心臓がどこかに弾け飛んでしまいそうな気がしたからだ。
今日という日が、人生最良の日に変わった瞬間だった。
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「ここで働きたいんです、歌手として雇ってもらえませんか?」
その言葉を聞いた中年男性はあからさまに眉を顰め、律を訝しげに見つめていた。
先日訪れたこのバーで運命的な出逢いを果たした律は、しばらく夢の世界から抜け出せないまま呆然と日々を過ごしていた。あの彼にもう一度逢いたい一心で何度かバーに通う内、『シンガー募集』の張り紙を偶然見つけたのだ。この店の歌手になれば彼に近づける。それどころか彼の奏でるピアノとセッションする事だって出来るかもしれない。
しかしそこに記されていたシンガーの条件は─────
「…悪いけどね、募集してるのは女性シンガーなんだよ。ウチは圧倒的に男性客が少ないからね。張り紙にもそう書いてあったでしょ?」
このバーのオーナーである男性は頭を掻きつつ、半ば呆れたような表情でそう告げた。渋い見た目が印象的なその男が余計に渋く見える。もちろん女性限定であることは分かっていたが、直接顔を合わせて頭を下げるまでは諦めが付かなかったのだ。
「そうですけど…僕、女性の曲も歌えます」
「そういう問題じゃ…まぁ確かに良い声はしてる。でもこう言っちゃなんだが見た目が地味だ。わざわざウチで歌わんでも別の…」
「それじゃあ…女性として歌います」
オーナーは自分の耳を疑った。目の前の青年がそうまでしてこの店に拘る理由が見つからなかったのだ。「女装でもするって?」と茶化してみるも、律の目は真剣そのものだ。目元までかかる黒髪に、厚めの眼鏡。一見控え目で大人しそうに見える律の決意の硬さを垣間見たオーナーは、短いため息をはき革張りのソファに深く座り直す。
「…じゃあ、試しに何か歌って。ここで」
「…はい」
律には少なからず勝算があった。過去何度かオーディションというものに参加してきたが、その大半が「求めている男性像とは違う」という理由で涙を呑む事になったのだ。律の放つ高音域の歌声はどこか中性的で、期待に応えようと男性らしさを表現すればするほど自分の歌とはかけ離れたものになっていった。それならば逆に、女性らしさを追求することで新たな道が拓けるのではないか────律は自分の可能性を試してみたかった。
ソファから立ち上がり、大きく息を吸う。
────自然と口から流れるメロディーは、あの日あの時、彼が自分の為に弾いてくれた曲。
彼の一番好きな曲。
あの旋律を頭の中に描きながら、愛の歌を高らかに歌い上げた律。
「……『Fly Me To The Moon』か……良いね」
律の甘く美しい歌声がオーナーの頑なな心を溶かしたのか、その表情は先程とは打って変わって穏やかだった。
「……分かった。まずは一ヶ月ウチで働いてみな」
「え…良いんですか…!?」
「ただしあくまで女性シンガーの代理だ、本名も素性も誰にも明かさない。男だとバレた時点でクビだ。それで良いなら…」
「もちろんです!」
それが、女性シンガー『リリー』の始まりの日だった。
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店に入って早一週間。律が最も驚いた事は、響也の人の変わりようだった。
歌う時以外なるべく声を出さないよう釘を刺されていた律は、初めてリリーとして響也と対面する時もオーナーに付き添われていた。改めて彼と顔を合わせる事に胸をときめかせていた律。しかしバーで客達と触れ合う際に見せるにこやかな響也の姿はそこには無く、彼は律を見つめたまま無表情で右手を差し出した。
「…響也です。よろしくお願いします」
「……よ、よろしく…」
初めて手と手が触れ合うも、仕事とはいえ女性の格好をしている律は気が気でなかった。眼鏡をコンタクトに変えて顔にメイクを施し、ライトブラウンのロングウィッグを身に付け、シックな黒いドレスの内側には女性用の下着まで付けている徹底ぶりだ。衣装を用意したのはオーナーだった。なんでも古い友人に女装を生業としている男性がいるようだ。さすがに下着までは…と躊躇った律であったが、身体のラインに沿ったこのドレスでは下着の線が出てしまうと半ば強制的に着用を義務付けられた。それに響也にバレてしまっては元も子もない。律は響也に近づきたい一心で自分を偽る事を決めたのだから。
聞けば響也はこの店の専属ではなく、声がかかれば様々な場所で演奏を披露しているフリーのピアニストだった。オーナーとは響也が学生だった頃からの付き合いらしく、いわゆる腐れ縁というものらしい。店には他にドラムとサックスの演奏者もいたが、誰も律の性別を疑う者はいなかった。それ程までに律は元から華奢な体つきで中性的な顔立ちをし、放つ声まで女性のそれに近かったのだ。
初めは響也の冷たい態度に動揺した律であったが、一番近くで彼の演奏を聴ける事が何より幸せだった。そして小さなジャズバーの雇われシンガーとはいえ、「歌手になる」という夢に脚を踏み入れる事が出来たのだ。律の心は高揚して止まない。
他のメンバーとの不要な接触を避けられていた為、音を合わせる間もなく本番は一発勝負だと言われていた。そもそもジャズとは決められた音階を正しくなぞる音楽とは違い、感情の赴くまま即興で音を奏でる事の方が多い。それに加え律は高校時代から一人路上で歌っていた為、人前で歌う事に躊躇いは無かった。
初めてリリーとしてステージに立つその日。10月12日はちょうど店の周年記念日だった。律はいつものように誰よりも早く店に入り、オーナーの古い友人から伝授された通りに化粧を施しウィッグを被る。鏡の中には見知らぬ自分の姿があった。確かにこれは心から望んでいた未来ではない。はたから見ればさぞ滑稽な扮装であろう。けれどこれが今、自分に出来る精一杯の努力だったのだ。
緊張からか、興奮からか。リハーサルのため一人開店前のステージに立つ律は指先を小さく震わせていた。彼のピアノに合わせて歌う日がこんなにも早くやってくるなんて思いもしなかった。その上「他人」の格好をして歌うなんて初めての経験だ。
もし失敗したら?
本番で声が出なかったら?
男だとバレて歌う前から追い出される可能性だってある。
そう考えると震えが強くなり、鼓動が早鐘を打ち始める。
その時だ。突然ステージ横の扉が開く音がして、律は驚きに胸を弾ませる。オーナー以外との接触は極力避けていたからだ。スタッフだろうかとドアの方へ振り向くと、そこにいたのは驚いた事に響也だった。仕事中は上げている前髪は降ろされ、いつものキッチリとしたスーツとは違いラフな私服を着ていた。恐らく今店に着いたばかりなのだろう。
「…早いですね」
「あ…す、すみません…勝手に…」
「何で謝るんですか?リハーサルですよね」
「…えぇ、まぁ…」
予期せぬ二人きりの時間にドクドクと鼓動が高鳴る。本当は彼と話したい事がたくさんあるが、ボロが出ることを恐れた律は口をつぐむ他なかった。
「……リリーさん」
「はっ、はい?」
彼に名前を呼ばれたのはこれで二回目だ。今回は芸名だが、得も言われぬ高揚感が律を襲う。
「アンタ……もしかしてオーナーの愛人?」
一体何を聞かれるのかと神経を研ぎ澄ませていた律は、思いがけないその質問に目を丸くする。何よりまず、自分がちゃんと「女」であると認識されていた事に思わずフッと安堵の笑みが溢れてしまった。
「…そこ笑うとこですか…」
「ごめんなさい、だって…あまりに突拍子もないから」
「……それで、質問の答えは?」
「愛人じゃないです。オーナーとは今月知り合ったばかり」
「…そうですか…」
質問の意図は不明だが響也はそれ以上は語らず、おもむろにピアノの蓋を開き調律を始めていた。
彼とこんなふうに会話をしている事が不思議でやまない。自分は今ちゃんと女性になり切れているのだろうか。もちろん不安はあるが、それ以上のときめきが律の心を支配していた。
「何歌います?」
「え?」
「リハーサルに来たんですよね。付き合いますよ」
思いも寄らないその急展開に、心の準備が出来ていなかった律は目眩を起こしそうだった。本番を前に彼と二人でセッション出来るなんて夢にも思っていなかったから。
けれどこれは、神が自分に与えてくれたチャンスなのかもしれない────その為に律は今、ここにいるのだ。
「Fly Me To The Moon……お願いできる?」
「……えぇ、もちろん」
律の頭にはあの夜の記憶が呼び起こされていた。この店で響也と初めて出逢い、彼の演奏に触れ、一瞬で恋に落ちたあの夢のような夜の出来事が。
今はこうして、響也の伴奏に合わせ自身の喉を震わせている。
時折目と目が合い、自然と口角を上げた響也の表情に胸を弾ませる律。
名前だとか、性別だとか、そこには何も関係がなかった。
ただ音楽があるだけ。
響也の奏でるピアノの音と、律の歌声だけが存在する世界。
それは今までの人生で最高のセッションだった。
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あれからというもの、響也とは度々時間を合わせてリハーサルをするようになった。彼はピアノだけでなくその歌声も素晴らしく、歌手の道に進まなかったのが不思議な程だ。
もちろん律は常にリリーとして彼に接していたし、響也も律の素性については追求してこなかった。唯一彼の方が自分より2つ年下であった事を知り、「さん付けされるの苦手なんで」という言葉に従い今では「響也」と呼んでいる。
お互いの事は何も知らない二人。けれどひと度旋律を重ね合わせれば、全てが通じ合ったような錯覚さえ起こしてしまう。まるでお互いが必要不可欠な存在であるかのように─────。
シンガー『リリー』はその美貌と甘い歌声で瞬く間に人気を集め、終演後には『彼女』目当ての客達がステージ前に押し寄せるようになっていた。当然身分がバレるわけにはいかない律は、歌が終われば一言を発しないまま舞台裏へと逃げるように去っていく。そのミステリアスさが逆に客達に受け、益々興味を煽っていたのだ。律は他人から向けられる関心に喜びを感じるも、人を騙している事に少なからず複雑な感情を抱き始めていた。
そんなある日の事。突然オーナーから発せられた一言をきっかけに、律の人生が大きく動く事になる。
「サックス奏者の祐一が体調を崩してな。今日は代わりの奴を呼んだから。まぁいつものようにやってくれ」
オーナーは元から大雑把な性格であったが、そのあまりの適当さに思わず面食らってしまった律。何しろ本番までもう3時間も無いのだ。
「響也たちは知ってるんですか、そのこと」
「あぁ、あいつには電話してある。そろそろ来る頃だろ。忘れるなよリリー、例え仮のメンバーでもお前の素性がバレるわけにいかないからな」
「はい、分かってます」
未だ響也ですら自分が男であることに気が付いていないのだ。律は少しばかり高を括っていた。
けれどそれから数分後に現れたサックス奏者───凛音は、律の予想の斜め上をいく人物だったのだ。
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「ねぇリリー、これから時間ある?一杯奢らせてよ」
「…へ…?」
演奏を終え楽屋で帰り支度を始めようとしていた律に、その男は突然そう声をかけてきた。体調を崩した祐一の代わりにバーへやってきたサックス奏者、凛音である。
誰もが必ず二度見はするであろう美しい顔面を携えた凛音は、練習も無しに完璧な演奏を披露し客席を大いに沸かせてみせた。響也目当てで店にきていた女性客達も、突如代打として現れた凛音の魅力に思わず心酔してしまったようだ。
「あの…ごめんなさい…行けません」
「そう。じゃあ明日は?」
人生で相手に困った事などないような男がなぜ、女装をした自分なんかにしつこく誘いをかけるのか律には到底理解が出来なかった。離れようと試みるも、美しく整えられた顔がその距離を近づける度無意識にドクドクと鼓動を早めてしまう。こんな美形に声をかけられて悪い気はしない。けれど自分には恋い焦がれる相手がいるし、何しろこの姿のまま店の外に出るなんてもっての外だ。衣装として着ている黒のロングドレスは喉元を隠すためのハイネック部分からデコルテライン、七分袖にかけてレースがあしらわれている。身体の線にぴったりと沿ったそのドレスは何度着用しても慣れる事はなく、律は溢れ出る羞恥心を必死で堪えていたのだ。いつもは誰よりも遅くまで楽屋に残り着替えるか、トイレで着替えを済ませ裏口から静かに出ていくかのどちらかだった。
「…ごめんなさい…」
「君と二人で話したかったんだけど…どうしてもダメ?」
まるで彫刻のように美しい顔で切なげに懇願され困惑する律。断ろうにも良い言い訳が思いつかずあたふたと視線を泳がせていると、楽屋の扉が開き誰かが中に入ってきたようだ。誰であれ救世主に間違いない…と胸を撫で下ろしかけた律であったが、その人物を視界に捉えた瞬間思わずビクッと身体を震わせてしまった。
「………楽屋で何してるんですか?」
不機嫌を絵に描いたような表情のまま楽屋に現れた響也は、律と凛音の姿を見るなりそう問いかけてきた。
「見て分からない?彼女をデートに誘ってるとこ」
「…うちは昔から社内恋愛禁止です」
「そうなんだ?でも僕は関係ないよね、ピンチヒッターだし」
「今はうちのメンバーですよね?まぁ、今だけでしょうけど」
律はロッカー際まで凛音に追い詰められた状態のまま、二人の会話をただソワソワと聞いている事しか出来なかった。「社内恋愛禁止」という話は店主から聞いたことが無かったが、その言葉の真意を考えている余裕は今の律には無い。それに、なぜか響也が凛音に対して怒りを露わにしている事が気が気でなかった。
「と、とにかく私は、行けません…」
「あれ?良いの?」
凛音はあっけらかんとした表情でそう告げると、不意に律の耳元に口を近付けてくる。
「……ピアニストの彼は知ってるの?…君の“中身”のこと…」
「…ッ!?」
────あまりの衝撃に律は動くことが出来なかった。
突如耳に囁かれたその言葉が、頭の中を反芻する。
────なぜ?なぜ出逢ったばかりのこの男に気付かれてしまったのか。目まぐるしく思考を巡らせても理解することが出来ない。
頭が真っ白になった律が恐る恐る目の前の凛音を見上げると、彼はこちらを見下ろしニヤリと口角を上げている。
「…僕と一緒に来てくれるでしょ?リリー…」
律はまるで金縛りにあってしまったかのようだった。けれど今この状況で、自分に「断る」という選択肢は残されていない─────咄嗟にそう感じ取ったのだ。
「………行きます…」
「は?リリーさん何を…」
「良かった~、じゃあ早速行こ。良い店教えてあげる」
凛音に肩を抱かれたまま出口へ促される律。すれ違いざまに自分に向けられた響也の視線を感じるも、もはや彼の顔を見る勇気は無かった。
「お疲れ様…ピアニストさん」
凛音はそう言いながら響也に向けて片手を軽く振ると、律を連れて静かに楽屋を出て行くのだった。
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タクシーに乗りやってきたのは一段とムードのあるジャズバーだった。聞けば凛音がたまに演奏を披露している店らしく、店員やすれ違う客達と親しげに会話を交わしている。律は凛音にエスコートされるまま席に腰掛けるも、楽屋に残した響也の事が気がかりで仕方がなかった。
────彼を怒らせてしまっただろうか。けれどあの場で凛音の誘いを断れば、自分の正体を明かされてしまいそうな勢いだった。それに響也がどうしてそこまで怒りの感情を見せるのか、律にはどうしても分からなかったのだ。
「何飲む?ワインは好き?」
テーブルの向かいに座る凛音は何食わぬ顔で酒の話をしている。律の方は居ても立っても居られず、とても落ち着いてワインを飲めるような状況ではない。何しろ女装のまま店を出るのは初めての経験で、先程から人の目が気になりバクバクと鼓動を響かせていた。
「……それより…凛音さん」
「凛音で良いよ」
「…どうして私……僕の、正体が分かったんですか…?」
「どうして、って…うーん…最初に見た時、なんとなくそうかなって」
「な…なんとなく…」
「でもほら、心も女性なのか、ただ仕事でそういう格好してるのか分からないでしょ?だから楽屋で聞いてみたんだ」
────『……ピアニストの彼は知ってる?…君の“中身”のこと…』
そうか────凛音はあの時あえてその質問を投げかける事で、律の反応を伺っていたのだ。要するにカマをかけられたのである。律は深いため息をついた。
「…男だって分かってたなら、どうして誘ったりしたんですか」
「だって君、可愛いし」
「……はい?」
「正体も気になったし。話してみたいなぁって」
にこにこと子供のように無邪気な笑顔を向けられて、律は何も言えなくなった。この男は一体、どこまでが本心なのだろうか。会話を交わす度に律も凛音と同様、彼という人物の正体が段々と気になってきていた。
「あの…響也とは仲が悪いんですか?」
「響也って…あのピアニスト?まさか、今日初めて会ったよ」
「そうなんですか…」
「それより、本当の名前教えて」
「嫌です」
「あれ?良いの?君の一番の秘密を知られても」
意地の悪いしたり顔を見せる凛音に、律は眉を顰める。けれど先程楽屋で感じた恐怖心のようなものはもうそこには存在しなかった。目の前にいる男性は決して悪い人間では無い────律はなぜかそう直感したのだ。
「またそれですか…もうその手には…」
「リリーはピアニストに恋してるって」
「ッ!?な…っ、なんでそれを…っ!?」
「ははっ、今の反応で分かった」
「………」
律は速攻で先程の直感を撤回した。
目の前で楽しそうに微笑むこの男は、底意地の悪い嫌な男に間違いない。きっと女の格好をした不可思議な歌手を面白がって楽しんでいるのだ。
「…もしかして緊張してるの?大丈夫だよ…どこからどう見ても可憐なレディだから」
そう囁く彼に切れ長の瞳で見つめられ思わず顔を熱くしてしまった律は、目の前に置かれた白ワインを一気に喉に流し込んだ。
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翌日の夜。律はバーの楽屋で仕度を整えると、ステージの準備に取り掛かかっていた。
昨夜凛音に強引に飲みに誘われ渋々ついて行った律だったが、やはりあの男にはどこか憎めない所があるのは確かだ。顔の良さだけでは無く、自然体で人を惹きつけてしまうような魅力がある。
けれど出逢ったばかりで秘密を知られてしまうなんて予想外の出来事だった。女装の理由を根掘り葉掘り質問され、バラさない事を条件に結局全てを打ち明けてしまったのだ。おそらく酒が回っていた事も一つの要因だろう。その上またも強引に次の約束まで取り付けられてしまい困惑するも、弱みを握られている以上承諾するしか手段が無い。今夜のステージにも凛音はやってくる。それを考えると律は今から気が重かった。
もうすぐリリーとして雇われてから一ヶ月が経とうとしている。このままここで仕事を続けるには、どうにかして秘密を守らなければいけない。男であることはもちろん、響也に想いを寄せていることも────。
昨夜のことがあってから、一体響也にどんな顔をして会えば良いのか分からなかった。悪い事をしたつもりは無いのに、なぜだか罪悪感がキリキリと律の胸を締め付けている。
その時突如楽屋の扉が開き驚きに身体を震わせたが、そこにいたのはドラム奏者のアンナだった。本名も年齢も非公開という彼女は実に男勝りな性格で、サバサバとしたその距離感が秘密を抱える律にとってはありがたい存在であった。アンナと挨拶を済ませた律は、このバーの古株である彼女にどうしても聞いてみたかった質問を投げかけてみる。
「あの、アンナさん…この店、社内恋愛禁止って本当ですか?」
「へ?ははっ、何それ初耳だよ」
それを聞いた律は、昨晩の響也の言動の意味が益々分からなくなった。てっきり店のルールを破ろうとした事に怒ったのだとばかり思っていたから。律が思考を巡らせていると、何やらアンナがニヤニヤとこちらを見つめていることに気が付く。
「……響也?それとも凛音?」
「え?」
「あんたのお目当て」
「…っち、違いますっ!そんなんじゃ…っ」
「凛音は知らないけど、響也はやめといた方が良いと思うよ~」
アンナのその一言でパッと動きを止める律。よく考えればこの女性は、自分の知らない響也の様々な面を知っている人なのだ。その発言はとても気がかりだった。
「…やめといた方が良いって…」
「今まであいつに泣かされた女の子達を散々見てきたからねぇ。関わらない方が身の為だよ」
それだけ言うと、アンナは「じゃ、またあとで」と手を降って楽屋へ戻っていった。
『泣かされた女の子達』────あれだけの美形とスタイルの良さだ、彼が女性からモテるのは嫌でも分かりきっていた。女性客への対応も慣れているし、もちろん今現在付き合っている人がいるかもしれない。けれど律はそれでも良かった。自分はただ響也のそばにいられればそれだけで十分だったのだ。例え彼がどれだけ女遊びをしていようとも─────
「…こんばんは」
「ッ!!」
突然背後から声をかけて来たのは、まさにその響也であった。律は驚きのあまり口から心臓が飛び出しかけたが、なんとか冷静を取り繕うと「…こ、こんばんは…」とぎこちない笑顔で彼に応える。何を言われるかと身構えた律だったが、響也は律を一瞥しただけでそのまま楽屋の方へスタスタと歩いていってしまった。
「待って!」
それは無意識だった。昨晩の事に気まずさを感じていた律は、自分でも考えがまとまらない内に思わず彼を引き止めていたのだ。ゆっくりとこちらを振り返る響也に、律は鼓動をドクドクと高鳴らせる。
「……何ですか」
「あ…その…昨夜は……ごめんなさい…」
「…何で謝るんです?」
「…そ、それは……」
「……アンタがどこで誰と何をしようと…俺には関係ありませんよ」
────そんな事は分かっていた。自分は響也にとって出会ったばかりのただの同僚だ。けれどはっきり言葉にされると、それは律の心を深く深く抉っていく。
「………そう、だよね……」
高望みなんてしないはずだった。だって自分は男で、彼も同じく男なのだ。片思いがバレればきっと気味悪く思われるに違いない、こいつは女の格好までして自分に近づいてきたのかと────
そう考えると途端に恐怖に襲われ、全身の力が抜ける。
それはまるでふわふわと宙に浮いているような感覚だった。
心臓が痛いほど脈を打ち続ける。
なんの為に自分は今、こんな所にいるのだろうか─────
その日のステージは、まさに「無」だった。歌を仕事にすることを夢見てきた律が初めて、歌う事に何の意味も見出せなくなってしまったのだ。終演後、そんな律の様子を心配した凛音に声をかけられるも、空返事をしただけで逃げるように店を後にした律。
シンガー「リリー」は一ヶ月を待たずして店を辞めていった。
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律があの店を辞めて一週間が経った。店主からは何度も引き止められたが、律はもう響也の前で歌う事など考えられなかったのだ。
自分は一体、何を求めてあの店に通っていたのだろうか。歌手になる夢は叶ったじゃないか。それが例え一時の夢だったとしても──────
思い出すのは、響也との初めてのセッション。
彼の好きな曲を、彼と2人きりで奏でる幸せな時間。
いっそあのまま時を止めてしまいたかった。
叶わぬ恋に、身も心も傷つく前に────。
「……ばかだなぁ…僕……」
そもそもストレートの男性に恋をしたのが間違いだったのだ。恋人に振られ痛い目に合ったというのに、また懲りずに自分で自分を傷つけている事に嘲笑の笑みを浮かべる律。
そんな時ふと、律の脳裏に凛音の顔が浮かんだ。彼なら自分の全てを受け入れてくれるかもしれない。また飲みに行く約束だってしていたし、連絡先を交換した携帯には着信やメッセージが残っている。けれど彼の存在を都合よく利用してしまうような気がして、どうしてもその連絡に応える気にはなれなかった。
そんな律が深夜に脚を運んだのはとあるクラブだった。いわゆるゲイバーというものだ。二十歳を過ぎた頃こういった店には何度か通ったことがある。この一ヶ月、常に気を張って自分の正体を隠してきた律には、ありのままの自分でいられる場所がどうしても必要だったのだ。
初めて入るその店は多くの人で賑わっていた。店内にはダンスフロアもあり、中には人目も憚らずキスをしているカップルもいる。律は久しぶりに訪れたゲイバーの雰囲気に圧倒されつつも、密かに心を高揚させていた。
「君、一人?可愛いね」
早速男性に声をかけられた律だが、響也や凛音のような圧倒的な美形と関わってきた為か、自分の目がだいぶ肥えてきた事に初めて気が付く。けれど今は見た目などどうでも良かった。ただ素のままの自分を、受け入れてくれる相手が欲しかった。
促されるままカウンターに腰を掛ける律。酒の注文を済ませると、男は早速律の身体に触れてきた。だが嫌な気はしない。恋人に振られてからセックスはもちろん、男性の身体に触れる機会も無かったのだ。どんなに心が傷ついていようと性欲というものは実に本能に忠実だ。律は心の中でそんな自分を嘲笑った。
「……律…?」
その時突然、自分の名前を呼ぶ声が耳に入る。
それは懐かしさを感じる声だった。
「………真吾……」
二つ隣のカウンターに腰掛け律の名を呼んだのは────誕生日に自分を振った元恋人の真吾だった。
「……ど、どうして…ここに…」
「……久しぶりだな、律…元気にしてたか…?」
バツが悪そうに微笑む真吾。律はいまだ自分の目に映る光景が信じられず、その男の顔を凝視したまま動けなかった。
「知り合い?」
隣で律の身体に触れていた男がそう問いかける。
「……前の……恋人…」
「…わ~お、すごい偶然。僕は少し席を外した方が良さそうだね」
男が去り、律と真吾の間にはしばらくの間気まずい沈黙が流れていた。会話を交わすのはあの日以来だ。
驚き、怒り、悲しみ。様々な感情が律の中に渦巻いている。
「……結婚したんじゃなかったの…」
「………ごめん……結婚すれば…諦めがつくと思ったんだ」
「……何、それ……」
「お前に嫌われて…逃げ場を無くせば…普通の男として生きていけると思った…」
「……なんだよ…普通の男って…」
「でも…やっぱり無理だった…だからたまに…こういうクラブに…」
律は呆れて物が言えなかった。この男は自分がストレートとして生きるために、3年連れ添った恋人を、しかもその人物の誕生日にあえて振ったというのだろうか。それがどれだけ律を傷つける事になるのか考えもせずに。
確かに彼に振られたおかげで自分は響也と巡り合う事が出来た。運命というものを生まれて初めて感じられたのだ。
けれど今となっては─────そんなまがい物の運命など最初から欲しくはなかった。
「…律…俺たち……やり直せないか…」
「……はは、…何言ってるんだよ」
「虫の良い話なのは分かってる、でも本当に後悔してるんだ……やっぱりお前じゃなきゃ駄目なんだよ、俺…」
その一言に律は身体を震わせる。本当なら目の前にある酒を彼の顔に浴びせすぐにでもこの店を出ていきたかった。けれど真吾の放った言葉は、今の律が一番求めていたものだったのだ。女性の格好もしていない、歌手でもないただの自分を必要としてくれている─────律の心は激しく揺らいでいた。
「……僕に、不倫相手にでもなれっていうの?」
「お前とヨリを戻せるなら、彼女とは別れる」
────この男は卑怯だ。こんな自分勝手な男と3年も共に生きてきたなんて、律は自分が信じられなかった。
だがそれ以上に信じられないのは、その言葉に揺らいでしまう自身の弱い心だ。
心に開いた穴を塞ぐ事なんて出来やしない。けれど、見ないふりをする事なら出来るかもしれない。律はただ何も考えずに縋れる相手を心から欲していたのだ。
一番欲しいものが手に入らないのなら、他のものなんてどれも同じく無価値に思えてしまう。それはもちろん、自分自身の価値でさえも────
「…なぁ律…ここは騒がしいから、静かなとこでちゃんと話し合わないか…?」
「………わかった…」
真吾の目的が例え自分の身体だけだろうと、そんな事はもうどうでも良かった。少なくとも今目の前にいる相手は自分を気味悪がったりしない。自分を隠す必要がない。今の律にはただ、それだけで十分だったから。
律は真吾につれられ出口に向かいゆっくりと歩いていく。酒を奢ってくれた名も知らぬ男の事などとうに忘れていた。喧騒と人混みの中、誰かとぶつかりそうになりふと視線を上げる律。ぼんやりとした視界の中では、その人物を認識するのに少しだけ時間がかかったしまった。
「…………え……」
──────律の目の前に、響也が立っている。
それは妄想でも夢でもない。響也は大きな瞳を更に大きくし、律を見つめたまま動きを止めていた。
時間にすれば数秒の出来事だったであろう。けれど律にはそれが永遠のように思えた。
音の消えた世界で、ただただ見つめ合う二人─────
「………リリーさん…?」
「────ッ!!!」
──────止まった時を再び動かしたのは、響也の律を呼ぶ声だった。
次の瞬間、律は無意識に駆け出していた。頭の中がパニックに陥り居ても立っても居られなかったのだ。とにかく一刻も早くここから逃げ出さなくては─────今の律にはそれしか考えられなかった。
人混みを掻き分け出口にたどり着いた律。鼓動はバクバクと身体を揺らし、荒い呼吸が吐き出されては消えていく。しかし店を飛び出そうとした律の腕は、いつの間にか響也の力強い手に掴まれていたのだ。
「…ッ…!?…は…、はなして…っ…」
「…どうして逃げるんですかっ」
腕を振り払おうともがいても、その手はきつく握られたままだった。それどころか響也は律の腕を引きそのまま外へ連れ出していく。
律は訳が分からなかった。なぜこのゲイクラブに響也がいたのか。なぜ彼が男の自分を「リリー」と呼んだのか。なぜ今こうして腕を引き、どこかへ連れて行こうとしているのか。
聞き出そうにも、混乱のあまり言葉が出てこない。
ただ彼の大きな背中を前に、理由も分からず涙が溢れてきそうだった。
とある路地裏に差し掛かった時に律の脚がもつれ、響也はそこでようやく動きを止める。
「…はぁ…はぁ……もう…いい加減…離して……」
「……離したら、またあの男のとこに戻りますよね?」
「…ッ、…な…何言って……だ、大体、人違いだよ…僕はリリーなんて名前じゃ……」
「……そうでしたね………律さん」
───────今、なんて……?
「…………どうして……」
どれだけ思考を巡らせても、律には彼の口から発せられた言葉の意味を理解できなかった。リリーの正体が律であるという事をどうして響也が知っているのか。そもそも男の姿では、誕生日の日にバーで一度会ったきりだというのに。
「……なん…で……僕のこと…」
「…知ってました、ずっと前から…それより、何で急に店辞めたんですか?」
「へっ?」
「アンタが辞めてから凛音って奴も来なくなるし……てっきり、一緒にいるのかと…」
そう言って口籠る響也に、律はますます訳が分からなくなる。質問したいのはこっちの方だ。それに、辞めるきっかけを与えてきたのはまさに今目の前にいる彼なのだ。どうして自分がこんなにも心を揺さぶられ、挙げ句責められなければならないのか─────感情の昂りを押さえ切れなくなった律の瞳から、涙が一筋ゆっくりと頬を伝っていた。
「……もう…意味わかんないよ……」
「…っ、…律さん…」
「…か、関係ないって、言ったじゃないか…っ、僕が、誰といようと関係ないって…!」
「………」
「なんだよ…っ、今更こんな…人のこと傷つけておいて…っ、ずるいよ…どうして僕の邪魔するんだよ……!」
身体から溢れる涙と共に、感情という言葉を吐き出す律。響也に対してこんな本音をぶつけたのは初めての事だった。
「……さ、最初から…僕の正体、知ってたなんて……僕、バカみたいじゃないか……」
自由になった両手でどれだけ顔を覆っても、止め処なく溢れる涙は律の頬を冷たく濡らしていく。25歳になった男が人前で、しかも深夜で人通りは少ないとはいえ路上で子供のように泣きじゃくるなんて、恥晒しも良いところだ。響也はきっと呆れた目でこんな自分を見ている事だろう。けれど心のダムが決壊してしまった律には、それを止める術がなかったのだ。
ふと、顔に何かが当たる感触で視線を上げた律。見れば響也が自身のパーカーの袖で律の頬を拭っていたのだ。響也は呆れるでも怒るでもなく、ただ真剣な面持ちで律の事を見つめていた。
「……ごめんなさい……でも…泣きたいのはこっちですよ…」
「……響也……?」
「アンタは突然女の人になってるし、俺の前ではいつも素っ気なくて…なにかといえばオーナーのそばにいて、挙句の果てに凛音なんて人と…しかもさっきは知らない男と一緒で…」
「え…な、何…急に…」
律は思わず目を丸くした。普段はクールな印象の響也が、音楽の事以外でここまで饒舌に喋る姿を初めて見たのだ。そのあまりの驚きに、気が付けばあれほど流れていた涙もいつの間にか止まっていた。
「…俺だってわけ分かんないですよ…アンタの前だと、全然冷静になれないし…」
そう言って頭を掻く響也の姿に年相応の可愛らしさを感じた律は、なぜかほんの少しの安堵感を覚えていた。見た目も中身もスマートで完璧な彼の、人間らしさを垣間見た気がしたのだ。
段々と落ち着きを取り戻してきた律であったが、考えれば考える程響也の言葉が理解出来なかった。彼の言う事が本心ならば、それはまるで─────
「……僕のこと……気にしてくれてたの…?」
「…ッ!……別に…」
「………ねぇ…響也は…どうしてあのクラブにいたの…」
律の考えが正しければ、響也があの場所にいた理由は想像がつく。けれどにわかには信じられなかった。それは自分にとってあまりにも都合の良い想像であったから。
響也の口が僅かに開いた、その時の事だった。
「律!!」
「!?」
突如暗闇から名前を呼ばれまたも驚く律。声の方向に目を凝らせば、息を切らした真吾がそこに立っていたのだ。恐らくクラブで見失った自分をここまで探し追ってきたのだろう。彼は肩で息をしたままこちらへ近付いてきた。
「真吾…!?何でここに…っ」
「大丈夫か律?急にいなくなるから心配で…誰なんだ、そいつ」
そう言って響也を睨みつける真吾。当の響也は動じていないのか無表情のままであったが、律の方はそうはいかなかった。真吾の必死の形相に少なからず恐怖心を覚え、なぜか一触即発の雰囲気を感じさせる二人にソワソワと動悸が早まってくる。
「律、とにかくもう帰…」
律の腕に手を伸ばそうとする真吾だったが、そこへ触れる事は叶わなかった。響也が律を庇うように彼の前に立ち塞がったのだ。一瞬眉を顰める真吾だったが、目の前にいる男のガタイの良さと眼力に思わず気が引けてしまう。
「…な…何だよ…お前…」
格闘を嗜んだ事がある者ならば、戦わずして相手の力量というものを感じ取ってしまうものだ。響也から放たれる凄まじい程のオーラに、真吾はすでに気持ちで負けていた。
「……誰か知りませんが、触らないでもらえますか?」
「はぁ…?な、何言って…俺と律は…っ」
「2人の関係なんてどうでもいいです…今はもう俺のなんで」
「…ッ!??」
響也のその一言にこれ以上ないほど驚きの表情を見せたのは、真吾ではなく律の方だった。
「…諦めが悪いのは大人げないですよ…」
「……!」
言葉尻は丁寧であるが、敵対心剥き出しの響也の声色に真吾はたじろいだ。ただ一言「…くそ」と呟くと、名残惜しそうに律を一瞥し夜の街へ消えていく。一瞥された律だったが、もうすでに真吾の事など見えていなかった。理由はどうあれ響也が自分を守ろうとしてくれた事に、身体が震える程の喜びを感じていたのだ。
「……ありがと…響也…」
「…あぁ言った方が…手っ取り早いんで…」
律は不思議な感覚を覚えていた。つい先程まで、目の前にいる彼は自分の心を引き裂いた張本人だった。なのに今では全てを忘れてしまう程の喜びを律に与えている。
「恋をする」とはこういう事だろうか。相手の些細な一言で浮き沈みを繰り返し、最大の不幸にも、最高の幸せにも自分を導いてくれる。
「今の…誰なんですか」
「……昔の…恋人だよ…僕、その……」
あのクラブで鉢合わせしたのだ。性的対象が同性である事はとうにバレているだろう、今更誤魔化しても仕方がない。けれどそれは、同じくあの場にいた彼にも言える事で─────
「…さっきのクラブのオーナー、知り合いなんです。仕事頼まれてて」
「あ……そうか……仕事で…」
「俺もゲイなんで大丈夫ですよ。心配しなくてもバラしたりしません」
それはあまりにもさらりとしたカミングアウトだった。告げられた律は思わず面食らってしまう。もちろん予感はしていたが、改めて言葉にされると得も言われぬ緊張感が律を襲った。
『女を泣かせてきた』───もしかしたらあのアンナの一言はそういう意味であったのだろうか。響也も自分と同じ境遇であった事に例えようのない喜びが込み上げるも、途端に現実味を帯びたその言葉に鼓動がドクドクと鳴り響く。
「…そ…そうなんだ、……あ、あの…僕を知ってたのは…どうして…?」
困惑しながらも、律は一番の疑問を響也に投げかける。しかし彼から返されたのは予想外の回答だった。
「…店に戻ってくるなら、教えます」
「……それは……無理だよ…もう…」
「どうしてですか?」
「…自分勝手な理由で、突然辞めたんだから…」
「オーナーは待ってますよ。……それに……俺も…」
「………」
「律さんの歌……聴けなくなるの嫌なんで…」
「……響也…」
─────響也の一言一言が、律の胸を切なく締め付ける。自分を偽る理由を無くしてしまった律にとって、またあの場所に戻る事には抵抗があった。けれど他でもない、響也が自分を待っていてくれているのだ。
一度は諦めた幸せが、再び目の前に突如として現れた。押し寄せる喜びの感情に律はまたも目頭を熱くしていた。
「…今日はもう、遅いから帰りましょう。家まで送ります」
「いいよっ、そんな……女の子じゃ…あるまいし…」
「……じゃあ、タクシー乗り場まで送ります。それなら良いですよね」
自然とこちらへ差し出された響也の右手に、身体を震わせる律。
響也という存在によって傷つき、またそれ以上に癒やされ、心に開いた穴はいつの間にか姿を消していた。
響也の手のひらに、自身の手をそっと重ね合わせる。
ゆっくりと包み込む大きなその手はあまりにも優しくて──────
「……うん……ありがとう……」
律はまた、恋に落ちていく。
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それは、響也がまだ10代だった頃に遡る。
自分の性や生き方に悩んでいた一人の少年は、怒りや鬱憤といった負の感情を紛らわすため夜の街を彷徨っては喧嘩に明け暮れる日々を過ごしていた。
厳格な両親のいる家には居場所がなく、将来やりたい事も見つからない。そもそも自分が何者かすら分からない。喧嘩をしている時だけは何もかも忘れる事が出来た。
そんな時にたまたま巡り会ったのが、当時はまだ自分の店を出しておらず、街のクラブでボーイの仕事をしていた現オーナーだった。裏路地のゴミ置き場で一人うなだれていた響也を見つけ、喧嘩で出来た傷の手当てをしてくれたのが出逢いのきっかけだ。響也とは一回り以上年の離れたその男には、同じく年の離れた男の恋人がいた。響也にとって初めて目の当たりにするその現実に、彼は自分の世界が明るく開けた気がしたのだ。性的指向を重荷に感じること無く、ただあるがまま自由に生きていく────響也はいつか自分もこんな大人になりたいと思った。
幼い頃習っていたピアノの腕を買われた響也は、将来行く所がなければ俺が開く店に来いと誘いをかけられた。音楽で食べていくなんて容易な事ではない。けれど「自分にはそんな未来もある」という現実が少年の心を救ったのは確かだった。
ある秋の日の夜。冬の訪れを感じさせる夜風が頬を撫でる中、駅前を歩いていた響也の耳にふと入ってきたのは、どこか色気を感じさせる甘い歌声。それはいわゆるストリートミュージシャンというものだった。無意識に声のする方へ歩みを進める響也。見れば人だかりの中に、自分とさほど年の変わらないであろう眼鏡をかけた一人の少年がいた。己の身一つで人前に立つその姿に響也はなぜか胸を打たれたのだ。
響也は子供の頃から歌が好きだった。けれど目の前にいるあの彼のように、大勢の観衆の前で歌う事など自分には出来やしない。両親は優秀な兄にのみ愛情を注ぎ、響也が何をどう頑張ろうと彼を褒める事は無かった。その為響也は幼い頃からずっと、自分自身に強い劣等感を抱えたまま生きてきたのだ。そんな響也には目の前の少年が余計に輝いて見えた。
時折女性のそれのように聞こえる高音域の歌声は、響也の心にスッと染み渡り優しく広がっていく。甘く響くその旋律からは音楽に対する愛情が感じられた。自分はこれで生きていくんだという、強い意志さえ垣間見えたのだ。
翌週も、その翌週も響也はその場所に足を運んだ。少年の澄んだ歌声を耳に入れれば、自分の荒んだ心が洗い流されるような気がしたから。
声をかける事は出来なかった。何度かチャンスはあったものの、人見知りしがちな響也には彼と何を話していいのか分からなかったのだ。
やがてその少年は姿を見せなくなった。もう歌う事を辞めてしまったのだろうか────そう考えると胸の奥が切なく痛んだ。
彼がいつも歌っていた場所に、響也は一人静かに立ち尽くす。
彼がどんなものを見て、どんな想いで歌っていたのか。ほんの少しでも良い、自分の瞳と心に焼き付けたかったのだ。
口から吐き出されたため息は、白い煙となって夜風に溶けて消えていく。
「………また聴きたいな……あの歌……」
あの時自分が声をかけていたら────何かが変わっていたのだろうか。
響也がその少年と再会するのは、それから7年後の事だった。
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「…で、またうちに戻りたいって?」
「すみません…理由も言わず突然辞めたのに…」
律がオーナーに頭を下げるのは今日だけでもう6度目だ。今までどれだけ引き止められても断固として断り続けていたというのに、今更戻りたいなんて自分でも都合が良すぎるのはもちろん分かっている。
「リリーに戻る覚悟が本当にあるのか?」
「あります。また、ここで歌いたいんです」
オーナーは年季の入った革張りのソファに深く腰を掛けしばらく渋い顔をしていたが、その後何かを諦めたかのようにふーっと長いため息をついた。
「……正直言うとな、『リリーはどこ言った』って客が多くて困ってた。戻ってくるならこっちは万々歳だ…けどな」
「…けど…?」
「男だとバレたらクビって約束した手前、簡単には首を縦に振れん」
「で、でも…響也は元々僕のことを…」
「あいつの事じゃない…もう一人のやつだ」
『もう一人』が誰なのか、それは聞くまでもなかった。突如楽屋の扉が豪快に開かれ、当の本人が律の目の前に颯爽と現れたのだ。
「リリー!おかえり~待ってたよ!」
「り、凛音さん…!?」
驚きにソファから立ち上がる律の細い身体を凛音は躊躇なく抱き締める。強制的とはいえ会う約束をしていたにも関わらず連絡を無視していた事を思い出し、律は困惑しつつもそんな凛音を拒絶する事が出来なかった。
「凛音、でしょ?…『律』に会うのは初めてだね…どっちの君も可愛い」
「…ッ、…な、何でここに…」
「ちょっと前に、オーナーと響也がリリーが戻ってくるって話をしてるのを聞いてね。僕もここに戻ることにした」
確かに律は響也に助けてもらったあの夜の帰り際、自分がリリーとして店に戻って本当に良いものかと響也に相談はしていた。響也がわざわざオーナーに話を通していてくれた事に、思わず喜びの感情が込み上げてくる。だが今それ以上に気になる事は────
「…戻る、ってどういう…?」
律のその問いに答えたのは、満面の笑みを浮かべる凛音ではなく苦い顔をしたオーナーの方だった。
「こいつ俺の許可もなく勝手に、復帰してきた祐一に話を通してな。リリーが戻るなら自分はここで演奏するって聞かないんだよ」
「へ?じゃあ祐一さんは…」
「もう来ないよ。代わりに今日から僕がここのサックス担当。よろしくね、リリー」
嫌になるほど美しい顔面に微笑みかけられ、律は苦笑することしか出来なかった。なぜ目の前のこの男がそうまでして自分の近くにいようとするのか─────それはまるで、響也のそばにいる為にここで働く決心をした自分を見ているかのようだ。凛音のような男が同じく男である自分を好きになるなんて考えられなかったし、そもそも彼には以前、自分には好きな人がいるという事をはっきりと伝えてある。それを分かった上でアプローチをしてくるだなんて、もはや自分は詐欺にでもかけられるのではないかと余計な心配が律を襲っていた。
「…仲が良いのは分かったが、そういうのはヨソでやってくれ」
「!?」
オーナーの言葉で我に返った律は瞬時に凛音の胸から離れ距離を取ると、眼鏡を押し上げおもむろに髪をかき上げる。凛音はそんな律をにこにこと微笑ましく見つめていた。
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律は幼い頃から音楽に触れて生きてきた。声楽家の母の影響で律自身も歌う事が大好きな子供で、その頃から将来は歌手になりたいと切に願っていたのだ。やがて思春期になり、自分の性的指向に思い悩み始めた頃───母が病に倒れた。通院や家の手伝い、勉学やバイトと忙しなく過ぎていく日々の中で、「歌手になる」という夢は遠く儚い記憶のように少しずつ薄れていく。病床の母はもちろん、真面目な父にも余計な心配をかけさせまいと自分自身を押し殺す日々を過ごしていた律。
そんな毎日の中で、律は路上で歌声を響かせている時間が心の癒しになっていた事に気が付く。目の前にいる人々はただ純粋に自分の歌声を求めてくれている。暖かい声援や拍手を送られる度、あぁ───自分はここに存在していて良いのだと喜びの感情が込み上げてきた。人々の心に歌声で癒やしを与えながら、自分自身も癒やされていたのだった。自分の感情に蓋をしていた律にとって歌は己を解放する事の出来る唯一の手段だ。心を蝕む不安や焦燥も、歌っている間だけは全てを忘れてしまえた。
やっぱり歌手になりたい、せめてこうして誰かの為に歌う事だけは続けていきたい────そう願っていた矢先。
大好きだった母が静かに息を引き取った。
その日から、律が路上で歌う事は無かった。
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男であることを隠していた「リリー」であるが、結局のところドラムスのアンナを含む全てのメンバーの知るところとなってしまった。驚愕するアンナの表情は今でも忘れられない。こそこそと着替える必要が無くなった事が唯一の救いだが、律には他にもまだ気に病んでいる事がある。
この仕事に戻れた事は純粋に嬉しい。オーナーに罰として命じられたフロアのモップがけも苦ではないが、床を見つめる律の表情は曇ったままだった。
「お疲れ様です」
「あ…響也、お疲れ様っ」
響也と逢うのはあの夜以来、今日で二度目だ。元彼になびく寸前だった所を引き止めてくれた彼だが、それ以降何か進展があったわけではない。繋いだ手のままタクシー乗り場まで数回会話をかわした程度で、直接告白されたわけでも無ければ自分の気持ちを正直に伝えたわけでも無いのだ。
『今はもう俺のなんで』
────あの台詞は、本当にただ真吾を追い払う為だけのものだったのだろうか。それとも────
「……あの…響也」
「はい」
響也は鍵盤に視線を落としたまま応える。
「…店に戻ったら、教えるって言ってたよね。何で僕を知ってたか」
「……そんなこと言いました?」
「言ったよっ、この前の夜…」
しらを切る響也に詰め寄ろうとするも、律の言葉はまたも突如として店内に現れた新人サックス奏者に遮られる事になる。
「リリー!おはよう、今日から復活だね」
「お、おはよ…」
「緊張しなくても大丈夫だよ。僕がそばにいるからね」
「…は、はぁ…」
凛音の事はもちろん嫌いではないが、律はこの手のタイプの男を苦手としていた。今まで自らが追いかける恋愛が多かった律にとって、「好き」を全面にアピールされると一体どうして良いのか分からなくなるのだ。困惑に視線を泳がせていると、いつの間にやら律の背後に響也の姿があった。
「…凛音さん」
「ん?あー、そこにいたんだ、ピアニストさん」
「どこで律さんの正体を知ったか知りませんけど、お客さんには秘密にしてるんです。バレるような事しないで下さいよ」
「僕がリリーの秘密をバラすわけないよ。…君の知らない事だって知ってる仲だし…ね?リリー…」
「…ッ!?ちょ、ちょっと凛音さん…っ!向こうで話しましょうっ」
律は思わず凛音の手を引き楽屋へと連れ出した。確かに響也に恋をしその為に女装までした事を知っているのは凛音だけだが、含みのある言い方をされて響也に二人の関係を誤解されるのも心外だ。
「どうしたの?こんなとこまで連れ出して…僕と二人きりになりたかった…?」
「違います!僕が全て打ち明けたら秘密を守るって前に約束しましたよねっ」
「うん、覚えてるよ。敬語もやめてってお願いしたと思うけど。僕たち運命的に同い年なんだからさ」
「…ただの偶然です。とにかく、響也に変な誤解されたくないんです…凛音さんの気持ちは、ありがたいんですが…」
凛音の自分への好意が本気にしろ冗談にしろ、ここでハッキリさせておいた方が良いのかもしれない。この店で働く以上これからも当然3人で顔を合わせる事になるのだ。そのたびに気まずい思いをしなければいけないなんて、最悪の場合仕事に支障をきたしてしまいそうだった。
「……律」
「……はい…」
「どっちかというと、今のこの状況の方が響也に誤解されそうだけど?」
「……」
「……」
「……はっ!」
確かに言われた通り、店内に響也を一人残しわざわざ自ら凛音と二人きりになる状況を作ってしまった。以前響也は自分と凛音の仲を気にしていると愚痴のようにこぼしていたというのに。
「早く戻らなきゃ…」
「律」
ドアへ向かおうとした律の腕を凛音が捕らえる。驚きに振り返り見上げると、何かを含んだかのような微笑みがそこにはあった。
「響也とはどこまで?」
「へっ…!?ど、どこまでってそんな…何も…、……手を…繋いだだけ…」
「………小学生?」
「…悪かったな…」
「響也のことが本当に好きなら、僕が協力してあげても良いよ」
「え…?」
「だって、好きな人には幸せになってもらいたいでしょ?」
それは律にとって意外過ぎる提案だった。てっきり凛音は自分の恋路を邪魔して楽しんでいるものだとばかり思っていたから。
「協力って…どうやって…?」
「まぁ、楽しみにしてて」
そう言ってウインクを飛ばす男の顔はあまりに美しく、律は不安を感じつつも眉を顰めて応える事しか出来なかった。
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きっかけは一本の電話だった。よく行くジャズバーの店長の知り合いが、胃腸炎の為休養中のサックス奏者の代わりを探しているらしい。電話を受けた凛音は二つ返事で受け入れた。彼は新たな人々との出逢いを常に求めていたから。出逢いは刺激になり成長に繋がる。自分が成長すれば、自分の奏でる音楽もまた大きく広がりを見せくれる。凛音は純粋に『音楽』を愛していたのだ。
女性シンガーがいるとの話は聞いていたが、凛音が実際に会ってみるとその人物はいわゆる「女性」とは違って見えた。仕事柄ニューハーフやドラァグクイーンと呼ばれる人々と交流する機会は多いが、目の前にいるシンガー『リリー』はそれともまた違う印象を受けたのだ。彼女からは自らの性を受け入れ女性としての人生を謳歌しているような「覇気」を感じられなかった。挨拶以外の言葉を交わさず、こちらの目を見ようともしない。その謎めいた雰囲気が余計に凛音の好奇心を擽っていった。
その上彼女の歌声はまるで教会で奏でられる賛美歌のように母性的で優しく、また危うい妖艶さすら感じさせる。そんな両極性のギャップがまた凛音を夢中にさせていったのだ。
「ねぇリリー、これから時間ある?一杯奢らせてよ」
仕事終わりに楽屋で声をかけるも、その態度は予想通り素っ気ない。今のところ「彼女」の性的対象がどちらであるかは不明だが、その後楽屋にやってきたピアニストの男性を見る彼女の目は明らかに変化を見せていた。そのピアニストは同じ男でも目を見張る程の美形だ、瞳に輝きが灯るのも頷ける。そして本能的に直感したのだ。リリーはこの男、『響也』に恋をしているに違いないと。凛音にとっては例え好意を持った相手が同性であろうが、その人物に決まった相手がいようが関係が無かった。人間誰しもいつ人生の最後を迎えるか分からない、1日1日を楽しく生きる事をモットーとしている男にとって、そんな事は些細な問題に過ぎないのだ。
半ば脅しのような事をしてしまったのはさすがに胸が痛んだが反省はしなかった。誕生日に彼氏に振られ、その夜バーで恋に落ちた事や、女性として歌う事になった経緯。話を聞く度に律という人間に惹かれ、もっともっと「彼」の事を知りたくなっていく。
次の約束を取り付ける事は出来たが、再び二人で逢う事は叶わなかった。シンガーリリーはいつの間にか店を辞めていたのだ。きっと響也と何かあったのだろうと察し連絡をしたが返事は無かった。オーナーに律の住所を問うも「個人情報だ」の一点張りで話してはくれず、響也には当然のように無視をされ、仕方なく律の返事を待つ事にした凛音。
最初はただの好奇心だった。常に何か心に荷物を抱え、表情を曇らせている律。この子が心の底から笑ったらどんな顔をするのだろうと────。
凛音は昔から他人に執着はしなかった。執着は心の弱さの現れだと思っていたから。
けれどリリーが店を辞めた今。一体どこで何をしているのか、繊細な彼が傷ついているのではないか、大好きな音楽を奏でていてもふと彼の顔が頭に浮かぶのだ。彼とはまだ会ったばかりだというのに、自分がこんな気持ちになるなんて凛音自身も不思議に思うほかなかった。
この感情の正体には薄々気がついていたけれど、それを認めれば────やがては律を傷付ける結果になってしまうかもしれない。
凛音はそれを恐れ始めていた。
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響也の家にはピアノが無いため、練習や作曲作業はいつも店で行う。ここで働く事を決めた4年前からずっとそうしてきた。決して家にピアノを買う資金が無いわけではない。ファンや知人から様々な贈り物が届くため金銭的に困るようなことはほとんど無かったし、進んで節制をする必要も彼には無かった。ひと度街へ繰り出せば、何も言わずとも優しい誰かが金も愛も恵んでくれていたから。その為響也は女性の前では愛想が良かった。彼女たちは恋愛対象ではないが、好意を向けられる事は純粋に嬉しい。そこに金銭が絡んでくるとなれば尚更だ。愛を切り売りしているようで時折自身に嫌気が差す事もあるが、大好きな音楽に携わり続けるにはそうするしかなかったのだ。響也には頼れる家族がいなかったから。
ある日の事。いつものように店にやって来た響也は、ドア越しの楽屋から聞こえてきた誰かの話し声にふと耳を傾ける。一人はオーナーの声。もう一人は知らない人物の声だったが、なぜだかどこか懐かしさを感じさせる声色だった。
2カ月前に辞めた女性シンガーの代わりを募集しているという話をオーナーからなんとなく聞いていた響也は、きっと面接か何かだろうとその場を離れようとした。誰が来ようと自分は自分の音楽をするだけだ、シンガーの人物像にさほど興味は無かった。
─────けれど、次の瞬間。
扉の向こうから薄っすらと聴こえてきたのは、聴きなじみのある美しい歌声だった。
『Fly me to the moon』
その時響也の頭に真っ先に浮かんだのは、先日バーで今日が自分の誕生日だと告げたあの男性。『貴方の一番好きな曲』をリクエストしてきた彼だ。確か名前は律といった。数回会話を交わしたのみの彼と、学生時代に路上で歌声を披露していた少年とかがなぜか重なって見えたのだ。
まさかあの時の少年が、今この扉の向こうにいるというのだろうか─────?
二人が同一人物だという確証はどこにもない。けれど心に染み入るこの歌声は、決して忘れる事など出来ない。
突如フラッシュバックするその記憶に響也の鼓動が音を立てる。自分の心音が聴こえてくるほどに。
あの彼がこの店のシンガーになるのかもしれない────その可能性を考えただけで、響也は運命を感じずにはいられなかったのだ。
新しいシンガーが決まったとオーナーから連絡を受けた時、正直な所響也は胸の高鳴りを抑える事が出来なかった。彼に薔薇を渡した時のあの表情は今でも忘れられない。どこか幼さを感じさせるも、色気を滲ませたあの顔立ち。レンズ越しに揺れる瞳、薄く開いた厚い唇が印象的だった。その後も何度か客として来ていた彼を店内で見かけたが、演奏を終えて話しかけようと近付くとそそくさと姿を消してしまうのだ。7年越しの再会に思わず足取りの軽くなる響也だったが─────オーナーと共に現れたそのシンガーは「女性」だった。
言葉数少なく、目線を下げ、長い髪が顔にかかりよくは見えなかったがその顔はまさにあの夜誕生日を祝った彼だ。メイクを施された顔は完全に女性そのものだが、口紅の下に潜む印象的な唇はその存在感を漂わせていた。
響也は困惑した。客として店に訪れていたあの時とはまるで違うその風貌に。彼はもしかしたら、女性として生きる事を決めたのだろうか?そうだとすれば、「彼」の過去を知る自分は「彼女」にとって迷惑な存在なのでは─────?
その日響也は何も言えなかった。ただ握手のみを交わし、その場を後にした。
オーナーは昔から謎の多い人物である。多くを語らず、また他人に深入りもしない。音楽にしか執着を見せないその男は逢うたびに恋人が変わり、それが女性の時もあれば男性の時もある。
もしかしたら「リリー」は、オーナーと特別な関係にあるのでは────そう考え出した響也の頭はますます混乱の色を濃くした。
世話になっているオーナーにあれこれ詮索する事も出来ず、悶々とする日々を過ごしていた響也。一人でリハーサルを行う彼女とはあの時以来会話する機会すら無かったが、それはシンガーリリーのデビュー日の事。軽く調律をしようと出向いたステージ上にリリーの姿があった。戸惑いを見せる彼女の表情からは明らかに緊張の色が窺えた。何か会話をしようにも適当な言葉の見つからない響也は、思考を巡らせている内に思わずあの質問が口をついてしまったのだ。
「アンタ……もしかしてオーナーの愛人?」
当のリリーは予想外の事でも聞かれたかのように目をキョトンとさせ、その後フッと微笑んだ。彼女の笑顔を見るのは再会後初めてだ。思えば路上で歌っていた頃の「彼」はいつもにこやかで、周りの空気を柔らかくする力を持っていた。突如思い起こされるその記憶に響也の心臓がドクンと音を立てる。動揺を誤魔化すかのようにリハーサルを勧めると、彼女が伴奏をリクエストしたのは─────あの日と同じ曲だった。
扉越しに聴いたあの音色が、今は響也の目の前にある。学生時代、自分の心に癒やしを与えてくれたあの音色が。
響也は胸がいっぱいになった。彼とセッションをしているという現実に。
二人で奏でる、一つの旋律。
気付けば響也の口角は自然と上がっていた。
ここ数日の葛藤や複雑な心境は、音楽の前では一瞬にして姿を消してしまう。だから自分は音楽が好きなのだ。
時折こちらに視線を向けるリリーを見て、その事に改めて気付かされた。
そしてもう一つ。
男でも、女でも、真の姿がどちらにせよ本当はどうでもいい。
ただ自分は、今目の前にいる人の事が純粋に好きなんだと─────。
それは7年振りに感じる切ない程の恋心だった。
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リリーが店に戻り数日が経った頃。響也は律と自分との関係性に悩んでいた。ゲイクラブで偶然再会したあの日、思わず後を追いかけ元彼だという男を意図的に彼から遠ざけたが、正直な所自分に彼の恋路を邪魔する権利はない。声を荒げる律にとうとう本音をぶつけてしまったけれど、まだ好意そのものを伝えたわけでは無いのだ。そして律の方もまた、自分の事をどう思っているのか本当の所は分からなかった。
ただ、あの時繋いだ手の感触を響也は今でも忘れられない。男性にしては少し小さめの律の手は響也の手のひらの中にすっぽりと収まっていた。時間にすれば数分の事だったが、あの瞬間だけはまるで恋人同士のように互いの心が通じ合っている気がしたのだ。
彼に自分の気持ちを正直に伝えば悩みは解決するだろう。けれどたとえ上手くいってもいかなくても、今後の仕事に支障をきたす気がしてならない。
それに、律の凛音に対する態度も気にかかっていた。
リリーとして店に来なかった間、本当に二人は一緒にいたのではないか。二人のやけに親しげな距離感。そして、自分の知らない律の秘密を知っていると告げた凛音の勝ち誇ったような顔────思い出す度に腹が立つが、万が一あの二人が特別な関係になっていたとしたら、律がゲイクラブで元彼と共にいたのはなぜなのか。
もしかしたら律という人は、特定の相手を作らない自由な恋愛思考の持ち主なのだろうか────
元彼はどう見ても律に未練があるように思えたし、凛音は明らかに律に好意を抱いている。そしてこの店のオーナーもまた、リリーの事を特別気にかけている気がしてならない。
一見大人しく穏やかな見た目だが、律にはどこか人を虜にさせる魔性の魅力があると響也は前々から思っていた。
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店の休業日である今日、響也はいつものようにピアノの前に腰を掛ける。練習がてら作曲作業を進めるつもりだったが、律の事が頭にチラつきなかなか集中する事が出来ずにいた。そんな時だ、突然店の扉が開き誰かが入ってきた。オーナーが出入り出来るよう自分が店内にいる時は常に鍵を開けている、きっと彼だろうと椅子から立ち上がった響也だが、予想外の人物に思わず目を見張る事になる。
「……凛音…さん」
「お~、お疲れ」
わざわざ立ち上がる事もなかったとため息を吐きながら椅子に座り直す響也に、凛音は何故かしたり顔で近付いてきた。定休日だというのになぜ彼がここにいるのかは謎だが、正直今この男の相手をするのは少々億劫だ。
「…何か用ですか?」
「つれないな~今は同僚なのに」
「律さんならいませんけど」
「知ってるよ。今日は君に宣戦布告しにきた」
一瞬凛音の放った言葉の意味を理解出来なかった響也だが、理解出来たところでその突拍子もない展開に頭が追いつく事はない。
「……は?何ですかそれ…」
「僕は律が好きだ。君がいらないなら…僕がもらっても良い…?」
「…ッ…!?」
直接的なその言葉に、響也は開いた口が塞がらなかった。文字通りに宣戦布告され頭に血が上りかけたが、まともに相手にするのも馬鹿らしいと感じた響也はピアノに視線を落としそっとため息をつく。
「…律さんはものじゃありません」
「屁理屈言っちゃって…そんなに僕が怖い?」
「……は?」
「律は今に気付くよ。『自分が好きな人』より、『自分を好きでいてくれる人』と結ばれるのが一番幸せなんだって事に」
「…!」
「その点、僕は律に惜しみない愛を注いであげられる…いつまでもはっきりしない誰かさんとは違ってね」
響也は何も言い返せなかった。凛音の言う事は最もだ。自分は一体全体、何をうじうじと悩んでいるのだろうか。
7年越しに出逢えたあの彼が、今まさに手の届く場所にいる────それは奇跡と呼ぶにふさわしい。あの時伝えられなかった想いをようやくぶつけられるチャンスが巡ってきたのだ。昨日今日知り合ったばかりの男に気付かされたのは不本意だが、響也はその場からおもむろに立ち上がると凛音を一瞥する事もせずに駆け足で店を出ていった。
一人残された凛音は、静けさの広がる店内へ長い長いため息をこぼす。
「……僕ってなんて良いやつなんだろ」
自分に酔いしれ口角を上げるも、その表情はどこか寂しさを感じさせるものだった。
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買い物を済ませ、一人テレビを観ながら酒を飲み、一日を部屋着のまま過ごす。たまの休みくらいダラダラしてもバチは当たらないだろうと律は思っていた。男である事が知れ渡ったとはいえ、客前では常に「女性」でいなければならない。人の目を欺くには体力と気力が必要不可欠なのだ。気を張って生きている律にとって一人の時間は大切だった。
「……響也…店にいるのかな…」
休業日も彼がピアノを使いによく店に来る事は知っている。リハーサルを装い逢いに行く事も出来たが、響也と二人きりになる勇気が今の律には無い。
もし告白をして、万が一付き合う事になったとしてもその先は─────?
律は「恋人」という制約には終わりがつきものという事をよく分かっていた。ならばいっその事、曖昧な関係を続けていく方が良いのではないだろうかとさえ思えてくる。凛音が協力してくれるとは言っていたものの、あの男の本心が分からない以上何かを期待する事は出来なかった。そもそも第三者に協力を仰ぐなんて虫のいい話だ。
「……なんで僕の事…知ってたんだろ…」
一人ベッドに横たわり言葉を漏らす律。その時、玄関のチャイムが鳴った。一瞬居留守を使おうかとも考えたが、おそらくネットショッピングの荷物でも届いたのであろう。律は重い腰を上げベッドから起き上がると玄関に向かった。
「はい……」
───何気なく扉を開けた事を律は瞬時に後悔する。目線を上げた先にいたのは、思いも寄らない人物だったのだ。
「……え……」
その男は扉を開けると強引に中へ押し入り内側から鍵を閉めた。途端、律は恐怖で動けなくなる。
「…律……ずっと逢いたかった…」
「………真吾……」
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響也は店を飛び出してから目的も定まらないままただ歩き続けていた。だが自然と律の自宅へ足が向いている事には薄々気がついている。以前タクシー乗り場まで見送った際に住所は聞いていたからだ。家まで押しかけた所でどうするかなんて決めていなかったし、そもそも休業日とはいえ律が今出かけていないとも限らない。けれど響也は「律と逢う」という事だけて頭がいっぱいだった。彼に逢いにいかなければいけない───なぜかそんな焦燥感にも似た感情が渦巻いていたのだ。
「……ここだ…」
律の住むアパートにたどり着いた響也は、ポストで彼の部屋番号を確認する。もちろん事前に電話をかけてみたのだか一向に繋がらず、送ったメッセージにも既読がつかなかった。もしかしたら寝ているのかもしれないとも思ったが、外から見ると部屋の明かりはついているようだ。響也はドクドクと鳴り続ける鼓動を抱えたまま、律の部屋のチャイムを押す─────
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「…っ、い、痛いよ…離して…っ」
「律、頼む、話をさせてくれっ」
律は恐怖のあまり身体が言う事を聞かず、気付けば廊下で真吾に押し倒される形になっていた。受け入れられない現実に背筋が強張り、冷や汗が冷たく肌を濡らす。
「まだお前が好きなんだよ…律ぅ…」
「…ッ…!…いや…ッ…!」
真吾の手が律の肌に触れる。慣れ親しんだはずのそれに律の身体は拒否反応を示し、血の気が一気に引いていくのを感じた。
「…お前だって忘れられないだろ…?何度も何度も愛し合ったもんなぁ俺たち…」
「し…真吾…っ、やめて…っ…」
「…前にも家まで来たのに…お前部屋の暗証番号変えたろ?…ひどいよなぁ…」
律は声が出なかった。恐怖心が限界まで達すると、人間はパニックを引き起こす。どうにかしてこの状況を脱しなければと考える一方でふと、律の頭になぜか響也の存在が浮かんだのだ。彼がここへ助けに来るはずなど無いというのに。
「……ッ!」
真吾の手が律の下着に潜り込む。必死で抵抗しようとするが指先が震え力が出なかった。このアパートは防音性が低い為、大声を出せば誰かが気付いてくれるかもしれない。けれど今の真吾を激昂させれば自分の身が余計危険に晒される可能性もあった。いっその事このまま好きに抱かせれば、彼だって満足して帰ってくれるかも知れない──────
「…律…っ、他の男になんて絶対渡さないっ…」
「………」
諦めかけた律の脳裏にまた、響也の顔が浮かぶ。
『今は俺のなんで』
クラブで再会した真吾になびきそうになった所を、響也は引き留めてくれた。過去の暗い自分を断ち切らせてくれた。
「……い……嫌だ……」
これからは響也と、明るい道を歩いて行きたい────彼と一緒ならそれが叶う気がしたのだ。
律の闇を消し去ってしまう程の、強く輝く光────ずっと彼の音楽に触れていたい。その美しい旋律を、共に奏でられる自分でいたい。
────その瞬間、律の耳に再び玄関のチャイムが鳴り響いた。
「助けて!!響也…ッ!!」
時間にして数秒だろうか。律はまるでスローモーションを見ているかのような感覚に襲われた。視界が開けた先に、真吾の胸倉を掴む響也の姿が見えたのだ。彼を切望するあまりに妄想に囚われてしまったのかと錯覚するほど、それは夢のように一瞬の出来事だった。
「!??だっ、誰だおま…」
真吾はその言葉を告げるより先に、響也の拳によって口を塞がれる。気付けば真吾は床に倒れ込んでいた。パニックの為目の前の状況が上手く理解出来なかった律だったが、響也の表情が今までに見たこともない程怒りに満ちている事だけは分かった。
「き、響也、待って…!!」
真吾の服を掴み上げまたも拳を握り締める響也に律は叫んだ。助けは求めたものの、止めなければ真吾を殺しかねない勢いだったのだ。律の声で我に返った響也は、右の拳をゆっくり下げると真吾の耳元に口を近づける。
「……今度また律さんに近付いたら殺す」
小声の為律には聞き取れなかったが、真吾の戦意が完全に消し去られた事だけは感じ取れた。
「警察に突き出してきます」
「ま、待って…っ、警察沙汰になったら店に迷惑がかかるよっ」
「…放っておくんですか?」
「…いいよ、もう…これ以上関わりたくない……」
「……律さんが、そう言うなら」
響也はかろうじて意識のある真吾をアパートの外まで連れ出しタクシーに乗せた。響也に掴まれた真吾は、きっと律が感じたより何倍も強い恐怖心に襲われた事だろう。真吾がこんな事をするなんて夢にも思わなかったが、さすがに今回の件で諦めがついたであろう。律が最後に見た真吾の後ろ姿はあまりにも弱々しかったから。
「…怪我ないですか?」
律の部屋に戻ってきた響也が、優しくそう問いかける。まるで先程の人物とは別人のような変貌ぶりだ。
「……うん、平気……響也、強いんだね」
そう言って無理に笑ってみせる律だが、まだ指の震えが止まらない。響也はゆっくりと、律を怯えさせないよう優しくその肩を抱いた。
「もう大丈夫ですよ…」
「……響也……」
──────感じる温もりに律はそっと目を閉じる。鼓動は強く鳴り響いているが、心は徐々に安堵に満ちていった。響也の手で背中を撫でられる度に身体の震えが落ち着いていく。
「すみません、俺がもっと早く来てれば…」
「……どうして、僕の家に?」
「それ、は……」
響也は口籠る。けれど律には、もう一つどうしても気にかかる事があった。
「鍵の暗証番号…なんで分かったの…?」
律のアパートの玄関ドアは暗証番号によるロックがかかっている。4ケタの数字を打ち込むものだが、新しく変えてから誰かに話した事はなく、適当に押して早々当たるものでもない。
だって、その数字は──────
「……チャイム押したら、律さんの叫び声がして……途端に浮かんだんです」
「………」
「1012……リリーさんのデビュー日で……俺たちが初めてセッションした日……」
──────次の瞬間には、二人の唇が重なっていた。
溢れ出す想いに言葉はいらない。二人はただ熱くキスを交わし合い、互いを強く求め合う。
それはとても自然な行為だった。
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「……律さん…好きです…」
「ん…、…響也……僕も、好き……」
肌と肌とが触れ合い、温もりに身体を震わせる。あれほど言い出せなかったそのたった二文字の言葉が、二人の口から抑えきれない感情と共に溢れ出していた。
「……本当に良いんですか…?」
一糸まとわぬ姿の律の頭上で響也が囁く。もうとっくに止まる事など出来ない所まできていたが、つい先程の事を思うと律を心配する気持ちがあるのも確かだ。律は頬を赤く染めながらも、まっすぐに響也の瞳を見つめ返した。
「…うん…響也と……したい…」
「……律さん……」
─────身体そのものより、心と心が深く繋がっていくような感覚だった。二つの感情が複雑に絡み合い、やがては一つになり、互いの身体に染み渡っていく──────二人にとってこれ程までに幸福感を感じるセックスは初めてだった。そして、言葉にしなくともそれが互いに伝わっている。
まるで音楽の世界に浸っているような解放感で満たされていた。そこは二人きりの世界。邪魔するものは何もない。互いの鼓動と甘い声色だけが耳に入る心地よい空気の中で、二人の夜は静かに更けていく────
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「………嘘……そんな事ってある……?」
「嘘じゃありません、事実です」
律は目を見開いていた。響也が自分の正体を知っていた理由を問い正し、今ようやくその答えを聞く事が出来たのだ。けれどそれは思いも寄らないドラマのようなストーリーだった。
「路上で歌ってた時なんて……7年前…!?そ、そんな時から知ってたの!?」
それが事実であるならば、女性として目の前に現れた自分に響也はさぞ驚いた事だろう。今になって思えば律は、女装をする必要など本来はなかったのかもしれない。
「……でも、正直言うと嬉しいです」
「え?」
「律さんが…そうまでして俺のそばで歌いたい、って思ってくれたこと…」
「………それなら、よかった…」
気怠い雰囲気の漂うベッドの上。響也に優しく髪を撫でられながら、律はウットリと目を閉じて応える。ふと熱い視線を感じ見上げれば、響也がまっすぐにこちらを見つめていた。
「……なに?ニヤニヤして…」
「…いや…そんなに俺の事好きなんだなぁと思って…」
「………自分だって、7年忘れられなかったくせに…」
尖らせた律の唇に響也の指が触れる。自然と距離が近付いた二人は、幸せという微睡みの中で優しくキスを交わし合った。
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明くる日。多少の恥ずかしさはあるものの共に店に出向いた律と響也は、オーナーから感じる意味有りげな視線に思わずたじろいでいた。耐えきれなくなった響也が思わず口を開く。
「…何ですか…じろじろ見ないで下さい」
「……お前ら………ビックリする程分かりやすいな…」
二人の変化を感じ取ったのか、ニヤリと口角を上げるオーナーに響也はあからさまに眉をしかめてみせた。
「律さん、おっさんはほっといて店行きましょう」
「え、あ、うん…」
響也に腕を引かれ楽屋を出た律は、少し照れた様子の彼の横顔に思わず微笑んでしまう。響也は一見クールなようでいて実は感情が表に出やすい非常に素直な性格なのだ。その様子が律にはひどく可愛く思えた。
「…ふふ…」
「?どうしました?」
「そういえばこの店、『社内恋愛禁止』だったような…」
「………忘れて下さいそんな事…」
頬を赤らめる響也に律は声を出して笑った。本来の彼の姿を垣間見た気がして、胸の中が幸せなときめきに満たされていたのだ。初めてこの店で彼に出逢ったあの時は、まさか二人にこんな未来が訪れるなんて思いもしなかった。一歩踏み出した自分を少しだけ誇らしく思う一方で──────
「……響也…僕……今日オーナーにあの事を話すよ」
「…それって…リリーを辞める事ですか?」
──────昨晩、律には心に決めた事がある。偽りの姿であるリリーを脱ぎ捨て、『律』としてステージに立つという事を。
「…お客さんの事を思うと辛いけど…やっぱり僕は、僕自身の姿で歌を歌い続けたい…」
「律さん…」
「……真吾も、きっと自分を偽るのに疲れ切ってあんな事をしたんじゃないかな…彼の場合は自業自得だけど…ほんの少しだけ、気持ちが分かるんだ…」
─────大好きな『音楽』で自分を偽る事はもうしたくない。もちろん正体を明かす事への不安はあるが、少なくとも今目の前には『律』の歌を愛し続けてくれた人がいる。
その大きな存在が律を支え、また多大な力を与えてくれるから─────
「…俺は応援します、律さんの事」
「響也…ありがとう…」
「もしオーナーがダメって言ったら、こんな店二人で辞めてやりましょう」
「ははっ、またそんな事言って~。本当はこの店もオーナーも大好きなくせに」
律の手が響也の肩に触れ、目と目が合う─────途端に世界から音が消えて、ゆっくりと時間が流れ出した。
どちらからともなく近付く距離に、静かに瞼を閉じれば──────
「律ー!!おはよー!!」
「ッ!??」
「り、凛音…ッ!?」
扉を豪快に開け放ちやって来たその人物は、挨拶を告げるなり律に熱い抱擁を交わしてきた。
「…ッ、ちょ、ちょっと…!」
「ん~、今日もちっちゃくて可愛い~」
「…離れて下さい、律さんが嫌がってます」
響也が半ば強引に引き剥がすも凛音は微笑みを浮かべたまま、立ち尽くす二人を大きな瞳で数回ほど交互に見やった。
「あ、もしかして、上手くいった?」
「…は?」
「二人。付き合う事になったんだろ?良かったじゃん~」
そう言ってにこやかに拍手を送る凛音を、律と響也は呆然と見つめる事しか出来なかった。確かに凛音は律に「響也との仲を取り持つよう協力する」とは言ったものの、律には彼が一体何をしたのかまったく分かっていなかった。そして響也もまた、宣戦布告までしてきた男がなぜこんなにも二人を祝福しているのか到底理解出来なかったのだ。
しかしこの後凛音は、動揺を隠せない律と響也を更に困惑させる事になる。
「じゃあ律、次は僕とデートしよう」
「………へ?」
「………頭おかしいんですか。たった今祝福したばっかでしょ」
「失礼だな~歳上に向かって。君と律がどうなろうと、僕が律を諦める理由にはならないだろ?」
律は開いた口が塞がらなかった。確かについ先程、自分を偽らず正直に生きる事を胸に誓っ律だが、自分に正直過ぎる男の強烈さを目の当たりにして脳がパニックを起こしそうだったのだ。
「二人の事は応援しよう。でもこれからもずっと好きだ、律!」
大きな口で笑うハンサムなこの男は、これから先も律と響也を自由に翻弄していく事だろう。響也の明らかな不機嫌顔を心配しつつも、律はそんな凛音のどこか憎めない愛らしさに思わず苦笑してしまう。
「そんな事より凛音さん、何しに来たんですか」
「もちろん、セッションしに」
「ふふ……じゃあ、そろそろリハーサル始めようか」
──────きっとこれから先も問題は山積みだ。様々な困難が立ち塞がるかもしれない。
けれど、僕らには音楽がある。
共に奏でる旋律が、明るい未来へ導く事を信じて──────。
fin.
最後までお読み頂き誠にありがとうございました!ご感想など頂けましたら励みになります。




