死んで、初めて気づいた。 俺の六十三年は、何だったのか。
死は、思ったより静かだった。
病院のベッドで目を閉じたとき、最後に感じたのは天井の蛍光灯の白さだった。眩しいとも思わなかった。ただ、白かった。それから何もかもが、すうっと遠くなった。
その後に何があったのか、俺にはわからない。
わかるのは——気づいたら、俺がまだ、何かであるということだけだった。
住宅街の夜だった。
街灯が灯っていた。どこかで犬が鳴いていた。
体はなかった。それでも、見えた。聞こえた。俺は空中のあたりに「あった」。形もなく、重さもなく、ただあった。
死後にこうなるとは思っていなかった。というより、死後のことなど考えたことがなかった。
生きることに、精一杯だったわけでもない。
ただ、流れていた。六十三年間、ずっと。
俺の人生は、中途半端だった。
行ける高校に行った。受かりそうな大学に入った。内定が出た会社に就職した。縁があった人と結婚した。
全部そうだった。
選ぶたびに、心の中で呟いた。「まあ、これでいいか」と。
楽な方へ、楽な方へ。抵抗しなかった。戦わなかった。ただ流れた。
定年の日、同僚に言われた。「お疲れ様でした」。
泣く人間は、一人もいなかった。
気づけば、ある家の二階の前にいた。
窓に明かりがついていた。
少年がいた。机に向かって、スマホを見ていた。参考書は閉じたままだった。十七か、十八か。受験生らしい年頃だった。
俺はその横顔を見た瞬間、意識の奥底で何かが音を立てた。
目が、似ていた。
何かを諦めたような、面倒くさそうな、どこか遠くを見ているような目が。
昔の俺の目だった。
少年は毎晩、スマホを見て、問題集を開かずに眠った。
俺はその部屋から離れられなかった。
ある夜、少年が独り言を言った。
「どうせ、どこかには入れるし」
俺は叫んだ。
声はなかった。形もなかった。それでも、叫んだ。
違う。それが間違いなんだ。「どこかでいい」が積み重なって、六十年後にお前は俺になる。誰にも泣かれずに死ぬんだ。
少年はイヤホンをつけた。
冬が来た。
少年の机に願書が置かれた。
第一志望ではないことが、なんとなくわかった。少年の目がまた、遠くなっていたから。
俺はその夜、ずっと叫び続けた。
やり直せ。まだ間に合う。お前にはまだ時間がある。俺にはもう、ない。取り返しがつかないとはどういうことか、死ぬまでわからなかった。俺みたいになるな。
少年は気づかなかった。
ただ願書を眺めて、やがて電気を消した。
深夜二時。
少年が突然、起き上がった。
押し入れを開けて、古い問題集を引っ張り出した。ほこりをかぶっていた。一度も開いた形跡がなかった。
少年はそれを机に置いて、ゆっくりと開いた。
シャープペンシルを握った。
俺は声を出そうとした。出なかった。
ただ、見ていた。
少年が最初の問題に向かったとき、俺は自分が薄れていくのを感じた。
届いたのかどうか、わからなかった。
少年が動いたのは俺のせいではないかもしれない。ただの気まぐれかもしれない。眠れなかっただけかもしれない。
それでも俺は、消えていく最後の瞬間に、もう一度だけ叫んだ。
やり直せ。
少年のシャープペンシルが、白い紙の上を走った。
俺には、もう関係のないことだった。




