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「さようなら、私の大切な人

今日は、空がやわらかな陽だまりを失ってしまった。

微笑みを見せることもなく、朝からずっと、しとしとと泣き続けている。


バス停に立ちながら、僕はただ願った。

どうか、君が雨に濡れていませんように――と。


人気のない通り。かすかに揺れる人影。

そのたびに、胸の奥は君で満ちていく。

もう家に帰ったのだろうか。

それとも、まだあの場所で、あの優しい音色を紡いでいるのだろうか。


わからない。

水たまりを覗き込んでも、そこに僕の顔は映らなかった。


……いつの間にか、バスは停まっていた。

僕は乗り込み、窓側の席に腰を下ろす。


言葉もなく。

笑いもなく。

何も、ない。


ただ車輪の音だけが、僕を君のいる場所へ運んでいく。

濡れた窓ガラスを、雨粒が細く長く伝っていく。

けれど、それでも止められない。

僕の瞳は、時間のカーテンをそっとめくり、あの日を――最後に、もう一度だけ見つめていた。


……綺麗だ。

君は、本当に綺麗だった。


あの日の君を言い表す言葉を、僕はもう持っていない。


あの頃の君は、小さな子ウサギみたいで。

疲れも知らずに駆け回り、

僕の心を笑わせる方法も、

痛みに震える心に声を与える方法も、ちゃんと知っていた。


不思議だね、魔女様。

いったいどうやって、あの心から病を忘れさせてくれたんだい。


夕暮れに、二人で残った教室。

君はピアノを弾き、

僕は何もわからないまま、それでもじっと聴いていた。

上手いのかどうかも、知らなかった。

ただ、演奏に身を委ねて微笑む君を見ていると、

いつの間にかシャツの裾を強く握りしめていて、

頬が熱くなっている理由さえ、わからなかった。


満開の桜の下で、

君は無邪気な瞳で夢を語った。

ピアニストになりたい、と。

自分を愛してくれる人と結ばれたい、と。

家族がいなくても、自分はちゃんと大人になれると証明したい、と。


そのたびに、僕は自分の卑小さを思い知った。

家柄もなく、才能もなく、容姿もなく、夢さえ持たない。

君には、釣り合わない。


それでも君は、僕を選んだ。


あの瞬間、僕はきっと――

世界でいちばん幸運な、最低の男だった。


君のそばにいる時間は、夢のようで。

どれほど残酷でも、溺れていたかった。

君といると、すべてを忘れられた。

悲しみも。

痛みも。

生まれた瞬間からまとわりついていた過去も。

僕を怯えさせ続けた人たちも。


幼いころから続いた、肌を打つ夜。

朝霧よりも濃い煙草の煙。

あれらは今もなお、僕を離さない。

あの頃の心は、毎日、血を流していた。


他の誰もが、父と母を持っているのに。

僕には、空っぽの器と醜い魂しかない。

気づけば、自分を悪魔のように感じていた。

誰かの大切なものを奪い取ろうとする、そんな存在に。


けれど、あの晴れた日に――

なぜか僕は、人間に戻れた。

裂けた心は静かに閉じ、朝露の光の中で、ぬくもりを取り戻した。


たとえ君が棘を持つ薔薇でも。

血で手が濡れ、草を赤く染め、川を紅に染めようとも。

それでも僕は、強く握りしめたかった。

君を、僕のものにしたかった。


……でも。


君の顔が、霞んでいく。


いや、違う。

笑顔も、瞳も、ちゃんと見えている。

ただ――

そこに、僕がいないだけだ。

……それでも、構わない。大したことじゃない。


バスは、もう君の家の近くに着いていた。

ちょうどそのとき、君も帰ってきた。

赤い傘は君に。青い傘は僕に。

二人で、君の帰る場所へ。


部屋に入り、君はそっとピアノの前に座る。

細い指が鍵盤に触れ、音が零れる。

この曲を、君は何千回も弾いてきた。

もう楽譜を見なくても、正確に弾ける。

……僕は、曲名すら知らないのに。


どうして、笑わないんだい。

好きな人生を歩んでいるのに。

あの頃のように、どうして笑わない。


色を失ったはずの僕の心が、どうしてこんなに痛むのだろう。

やっぱり君のそばは、奇跡で満ちているね。

魔法使いの君。


部屋には、あの写真がまだ並んでいる。

僕と君の写真。

君の大切な賞状の隣に。


病院の夜を思い出す。

凍えるような夜に、僕のそばにいたのは、いつも君だけだった。


ベッドの脇で眠り込む君。

目の下に濃い影を落としてまで、僕を見守ってくれた。

その姿を見るたびに、魂は引き裂かれた。

体を蝕む病よりも、ずっと痛かった。


……あの日、君は僕を選ぶべきじゃなかった。


もっとふさわしい人がいたはずだ。

僕より、少しでも優しい人が。

そうだったら、君はこんなに疲れずに済んだのに。


最後に送ったメッセージを思い出す。

どうして、あんな言葉を。

どうして、あんな別れ方を。


[ごめん……ごめん……ごめん……

君の人生に、悲しみを置いていってしまって]


時計の針が、ゆっくりと十二時へ近づく。

……もう、行かなければ。


「もう、待たなくていい。

あの日の悲しみも……置いて、前へ進んで」


雨は止み、

ピアノの音も、静かに途切れる。


不意に、君は泣き崩れた。

黒く艶やかなピアノに額を伏せ、顔を覆って。


僕は、春の終わりの桜のように、色を失っていく。

それでも震える君を見て、

思わず腕を伸ばした。

抱きしめたかった。

少しでも、ぬくもりをあげたかった。


けれど抱きしめたのは、空気だけ。

涙は、鍵盤に落ち続ける。


やがて、すべてが霞み……

消えていった。


目を開けると、そこは白い世界だった。


桜の木の下に立つ僕の前に、

若き日の君がいる。


君は手を差し出す。

あの細い指で、鍵盤を撫でてきた手を。

まっすぐに、僕を見つめて。


夢の中で何度も見た顔。

眠れぬ夜を重ねた理由。


体が、透ける。

声が出ない。

笑おうとしても、唇が重い。


見えない涙を拭おうとする。

……それとも、君にこの顔を見せたくなかっただけか。


わからない。


君は、初めて出会った日のように微笑んだ。

そして、そっと手を引く。

自分もまた、薄れていきながら。


やさしく、残していった。


「さようなら……私の大切な人」


あとがき


この物語を書いたのは、ただ胸の奥が重たくなる夜が続いていたからです。

切ない曲を聴きながら、雨の音を聞きながら、誰かの大切な人を失う痛みを想像して……。

読んでくださった方、ありがとうございます。

少しでも、心に残るものがあれば嬉しいです。


(※プライベートなことは伏せておきますね……)

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