表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
家次さんと、  作者: 斗彫
6/6

しとぴっちゃん。 2

※注意

ちょっと気分暗めのお話しになっているので、流し目で宜しくお願いいたします。

家次の嘆きの慟哭を聞いてから数日、雨雲レーダーが映し出す列島の姿は、ほぼ全域に線状降水帯と言われる雨雲の姿が大きく張り巡らされている。とうとう本格的に訪れた梅雨入りに毎日厚い雲が空を覆い、雨の降っていない時間の方がずっと短い日々が続いている。そんな中昨日耳にしたラジオの中のお天気コーナーで、久々にお日様の光が差し込みますと、本当に久々の予告先発よろしく、この近隣地域周辺に晴れ間が訪れると告げていた。ハツラツとした声でもって、溜まった洗濯物の外干に、何より生乾きから解放されますね!と長雨に嫌気がしている人々の共感を呼ぶような言葉を選別し、パーソナリティーがその言葉を口にしていた。そしてその予報から暫く、昨夜遅くに静かに降り止んだ雨の音に、目を覚まして開いた窓の向こうには、燦燦と輝く太陽が、惜しげも無く光り輝いた顔を覗かせていた。

晴れているというのはこんなにも通学が快適で素晴らしいのか。雲間から降り注ぐ日の光に、稔はしみじみと、水溜りの無い歩道のありがたさを実感していた。靴や服は勿論だが、教科書やノートといった紙類が濡れる心配が無いというのは、こんなにも気持ちが軽くなるものだったろうか。小学生の頃は雨が降ってもランドセルの上蓋で知らず内に勉強道具の類は雨を防げていたのだと分かるようになったのは、通学鞄が通気性の良く容量の多い布製の物になってからというもの。ランドセルとは、存外偉大な発明だったのかもしれないと、思わず初めて声を上げた誰とも知らない製作発案者にお礼を言いたくなる。機能美と実用性を兼ね備え、子供の身体に一番負担を少なくする構造の試行錯誤もあったのだろう。だが年齢と共に増えていく教材や体操着や授業によって特定の日に入用になるもの等、進学に伴って使える鞄も学校指定の物に変わったからこそ、今更ながらランドセルの存在のありがたさを実感する。何にせよ今日は久しぶりの傘無しでの晴れやかな登校だ。今日の授業内容なんてどうでも良い、今のこの時得られる快適さを存分に享受して、晴天の下で通学が可能であることに素直に感謝の気持ちを抱いた。そしてこの気持ちを忘れないで、これからも晴れた日の通学に、それを普通だと思わずに、普通であることが幸いなのだと、稔は少しばかり玄人気味た思想を抱きながら、目的地の学校へ向けて一歩ずつ歩を進めていた。

そしてこれからたった数時間後、楽しい気持ちはあっという間に過ぎ去って、日を浴びながら校門をくぐったのを最後に、御前の授業を終えた昼食の時間には、所々に存在していた白かったはずの雲はどんよりと重位い色に変わり、凛と顔を覗かしていた太陽は、今や雲の隙間から日差しを届けるどころか、一遍残さず分厚い雲の奥へと顔を引っ込めてしまっている。黒々と存在感を増しに増した雲の色に、微か空から聞こえてくる不穏な音は、上空で吹き荒れる風の音か、その中で雷が発生しているせいなのか。時間が経つほどに頬を撫でる生温くなってきた風は湿り気を帯びて、そして少し埃っほい匂いがするのは、空気中のゴミが水を吸って、重力と一緒に空から落ちてきたせいなのだろう。それが雨が降る前のサインだと、いつぞや家次に教えてもらったことがある。これは降る、絶対に降る。幸い今日の時間割に体育が無いことが救いだが、稔はそんな確信めいた気持ちを胸に、ただ一人黙々と、昼食に買ったサンドイッチを口に含んだ。

そして迎えた昼休み、昼食を終えて休み時間に入ると共に待っていたとばかりに席を立つ人達が数人、会話を始める者や、他クラスからの訪問者だったりと、教室の中はどんどんと普段の賑わいを取り戻していく。暗くなる空と違って明るくなる室内の雰囲気に、稔も誰かと話そうかと考えてはみたものの、なんだか浮足立っていた朝の気分から一転、帰宅時間にはまた降り放題であろう雨の雫を思い浮かべ、ため息を一つ吐いただけでどうにも動く気になれず、ただぼう・・・・、と一人で窓の外へと視線を向けていた。中間明けの席替えで窓際の前から三番目の席になった時には純粋に授業中も外を見たりと気分転換が出来ると、窓際はなんだか特別感があると喜んでいたが、こんなに気分が下がるとは思ってもみなかった。視界に広がるのは代り映えの無い、いつも通りの人通りの少ない公道に、そしてどんよりと黒くくすんだ分厚い雲に、下校時間を考えただけで、今の稔の気持ちはまるで塩をかけられ萎んだ青菜の様に元気がない、そんなしょぼくれた気分だ。

今日授業で出た範囲の宿題の提出が明後日であれば、学校に用具一式を置いて行っても良かったが、残念ながら提出期限は明日の授業開始と先に担当教師が告げていた。持って帰ってこなさなければいけない課題がある、しかも古典で教科書にノート、その上一番濡れて欲しくない辞書も一緒に持って帰らなければいけないときたものだから、どうやっても濡れたくない。濡れたくないのだが、如何せん置き傘をしていない稔には、濡れて帰るという選択肢しか今のところ持ち合わせていないのだ。こんな時に限って大きなタオルを持っている、や、ビニール袋がありましたなんて、そんな都合の良い展開がある訳が無い。そんな状況下で唯一、今の稔に出来る事と言えば、このまま何とか下校時間まで降らずにいてくれるよう空に祈るか、一層通り雨の様に勢い良く降り出して、下校時には雨が止んでいる事を祈る、要は神頼みだけだ。降るなら降ってくれ、でなければ後数時間は持ちこたえてくれ、頼むから!そう胸の内で思わず強く願ってしまう程に稔は今日の荷物を濡らしたくはないのだ。母から貰ったおさがりの古語辞典はかなりの年期物で、母が学生の頃に購入した思い入れのある物らしい。だから幾ら稔が息子であろうとも借り物であることは違いないし、大切にしてきた物だからこそ現代も現役で使えているのだ。雨だからといって濡らすことも仕方ない、駄目になるなら新しいものに買い替えれば良いなんて思えない。大切に扱われてきたものなのだから、それを与えられた側もまた同じく丁寧に扱ってこそ、だ。十年以上の年を超えて今もこうして学び舎で手助けをしてくれているのだから、天気のせいと体の良い訳を連ねてなお、簡単に汚したくはないというもの。


「降らないでよ・・・・・、」


窓の外に広がり続ける雨雲もどきに、こんな小さな学生一人の力で何をどうできる訳でもない。それでもなんだか沸き上がるやるせなさに、視線はそのままに体を机に預け、独り言ちる。天気予報なんて信じなければ良かった、傘を持ってきていれば良かった、置き傘の一つでもしていれば良かった、と、どうにもできない【たられば】を頭の中で並べ上げながら、無意識に止められな無かった力無い間抜け極まる溜め息が、口から勝手に零れ落ちた。その時だった。人通り少ない道の中、一台の自転車がキィィ・・・・!となんとも甲高いブレーキ音を響かせて、稔の居る窓の下に、意図したように止まったのだ。


「・・・・、ん?・・、・・・?・・・・・・・ッぃぃい!!?」


全く予期せず突如現れた人影に、ただ音に反応を下に過ぎないが煩いなと視線を向けて数秒、思わず叫びそうになった人の名前を、稔は自身の両手で口元を抑え込むことで、何とか喉の奥へと飲み込んだ。なんで?どうして?どう言わずとも雄弁に語る稔の視線に気が付いたのか、自転車から降りた人物は小さく手を指を動かして、稔に手早く支持を出す。黒の革ジャンにダークグレーのスラックス、お気に入りの黒のハンチングに、少しブラウン掛かった大きめのサングラス、そして前面にだけあしらわれたチェック模様のクラッチバッグ。どう見ても堅気ではない。だが紛うことなき堅気である。しかもどちらかと言えば無職だ。

自転車を降り、片手でハンドルを握り押しながら、のそり、のそりと動き出した足元は、此方も同じく黒の革靴が見えるが、向かう先は先程静かに指をさして示した場所へと向かっているのだろう。何か用事があるのだろか、稔は何も聞いてはいない。何故家次が真面な格好をして、学生である稔の事を訪ねてきたのかが、しかも何の前触れも無くだ、全く意図が分からない。何か粗相をしたか、それとも母に何かがあって緊急で伝えに来てくれたのか?でもそうであれば家次よりも先に学校に連絡が入るだろうから母親関連のものでは無いのは確かだろう。そうこうしている間にも、家次の歩は止まる事が無く、どんどんと正門の方へと進んでいく大きな姿を稔は上から見下ろしながら、家次の向こう見えてきた曲がり角に、ハッ!っとして、急いで教室から飛び出した。稔の学校の校舎は上から一年、下に三年となっており、立地の関係上校舎はL字状で階段部分を軸にする様に1・2組、3・4組と教室の区分がけられている。そして正門があるのは1組側、稔は3組であり、正門からは少し遠い。家次の性格はせっかちそのものだ、しかもその上極度の人嫌いで何よりあの装いだ、少しの間でも正門で待たせて人目を引けばどうなるか、考えるまでも無い。とにかく急がなければ、そう教室から勢いよく駆け出した稔の足が1階へと繋がる階段へと足を踏み入れた正にその時、


『いえつぐさんじゃん!ひさしぶりぃ~!!』


2階へと続く階段の踊り場にまで良く響く、それはもう良く知った知人の声が、稔の懸念した最悪の事態を引き起こしてくれた。途端一層うるさくなった3階の声に、なんだとまるで呼応するが如く、2階、1階へと人々の視線が声が向いた先へと向けられる。野次馬根性というか、集団心理というか、はたまた本能というか、非日常に沸き立った感情は伝播し易く、こういった時に当事者以外はなんだなんだと見物客よろしく物珍しさに活気立つ。


「なんで見つけちゃうかなケンちゃん・・・・・!」


この時、この場において一番見つかってはいけない相手であっただろう。家次を知る数少ない人物であり、そして稔の幼馴染の刀也は何時も元気に溢れており、基本誰に対しても友好的で、社交的だ。そんな彼が良く見知った姿を目にして反応しない筈も無い、悪意の無い青年の呼び声は喜色が滲んでおり、学年内でも男女問わずの上位人気の人物の声に、反応するなと言った方が難しい。今頃刀也のいる教室内から一斉に視線を集められてしまっただろう家次は、反応しないということも出来ずに、困り、はたまた怒っているかもしれない。


『いえつぐさぁーぅぁぁあああーーーーー!!ごめぇーーん!!!!』

『アホがこンのクソガキぃぃぃーーーーーー!!!!!!』


怒っていた。違う、現在進行形で怒っている。間違いなく刀也が今怒らせている。窓を、壁を、階を越えて届く2つの声に、数十の驚愕したような悲鳴が混ざり合って響いている。どうやら稔の与り知らぬ所で、事態は急展開を迎えているようだ。こっそりと事を終わらせようと思っていたのに、こういう時に限って上手くいかない、コレも世の常というものだろうか。ようやっと稔の足が1階の床を踏んだ時には、良く知った声が頭上から絶え間なく謝罪の言葉を述べており、そしてざわざわとしたどこか高揚した人のざわめきが、校舎の中にさざめき合っていた。誰かとも知らない相手から向けられる視線や声というこの状況に、家次がそう長く耐えられる筈もない。急がなければ、そう思うや否や靴を履き替えている暇もないと、稔は後で教師から怒られるかもしれないと一瞬過った考えを捨てて、上履きのまま一直線に正門目掛けて駆け出した。


「・・・・・家次さん!ゴメン遅くなったかも!」

「~~~ケンッ!お前もう黙って引っ込んどけッ!!・・・・アイツはかなん!」

「ゴメンね、家次さん!僕も急いだんだけど・・・・、」

「・・・・・お前は十分や、それよりもアイツに言うとけ!デカい声で呼ぶなって!」


急ぎ走った反動が、止まったことで遅れてやってきたようで、はっ、はっ、と短く息を切らせる稔の姿に、不機嫌な顔はそのままに、お前のせいではないのだからと、家次なりの労いの言葉を掛けられる。そうはいってもこの状況から一刻も早く立ち去りたいと雄弁に語りかけてくる家次の眉間に深く刻み込まれた三本の皺に、稔はそれよりも、と、本題を促す様に声を掛けた。


「僕、何かしちゃったかな?それともお母さんになにかあった!?先生からは特に何もいわれて無いんだけど、そっちに連絡いったとか??」

「そんなんちゃう。そんな大事なら学校か、姉やんから連絡行く。ワシの用事や。」

「用事?わざわざ??」

「ついでや、ついで。今さっき馬券買いに行って、その帰りや。」

「・・・・・凄くろくでもないついでだね。」

「なんやお前、喧嘩売っとんか?」


先程までと、なんなら今現在進行形で向けられる好奇の視線に、しかめっ面をそのままに攻撃性を前に出す家次に、稔は両の手を挙げて降参のポーズは取るが、事実でしょ、と言葉を続ける。正門の鉄柵を挟んだ今、場の有利は稔にある事は間違いない。それを分かった上での行動に、家次は可愛くないと一言言ってフンッ!と稔の事を鼻で笑った。そしてその流れのまま腕を通していたクラッチバッグを手首ごと持ち上げ、反動を使ってそのまま手の中に収めてみせると、慣れた手つきで鞄の底を掴み、軽い音と共に蓋を開いた。鞄の中にもう片方の手を入れて、お目当ての物は直ぐ手に付く位置にあったらしい。スルリと抜き出す様に取り出されたものは濃い青色をしていて、それは何だと稔が問いかけるよりも先に、流れる様に家次の手が門の格子の向こう側から、少し中へと挿し込まれた。


「これ・・・・、かさ・・・・・?」

「ワシの折り畳みや。お前置き傘も折り畳みも持ってない言うてたやろ。」

「・・・・えっ!?それで寄ってくれたの!?」

「今日は剪定の日やから寄られへん、それで濡れんのイヤやろ。」

「嫌だけど、ホントに良いの?無いと家次さん困るんじゃないの?」

「ワシはこのまま真っ直ぐ帰る。そんで出走まで昼寝や。」

「あ、大丈夫そうだね。」


自分のルールが通用する世界で、自分の思うままに生きる人間の言葉の、何と気ままな返答か。かえってお茶を飲んで昼飯を食い、少し睡眠をとり、そして菓子を食いながらラジオで結果を聞くだけだと、自信満々に言い切る大男の姿に、稔の中に少しだけ沸き上がっていた申し訳ない気持ちが、嘘のように消えていく。


「・・・・・ホラ、お前にやる。使え。ちゃんと傘さして無駄に体冷やすな。」

「ありがとう、家次さん・・・・。って、コレ重くない!?」


家次から受け取ったそれは、家次が持てば小さく軽そうに見えたが、実際手にしてみると、稔の掌からはみ出す程の大きさがあり、重さも普通の傘と遜色ない程の重みをもっている。寧ろ軽量型が出ている昨今では、一般的なビニール傘よりも此方の方がずっと重たいかもしれない。驚く稔の様子を尻目に、軸の手入れはしてあるから錆びてはいないが、力任せに扱うと壊れるぞと、家次は一つ注意を付け足しただけだった。


「昔のんやからな。まあその分今の傘よりも頑丈や、長い事使てるけど壊れん。」

「そうなんだ、やっぱり家次さんって物持ちいいね。」

「大事にしてるからな。」


稔の言葉にうん、と大きく一つ頷いた家次は、物持ちが良いと褒められたことに至極ご満悦の様だ。大柄で力もあるので大雑把に見られてしまうが、思ったより繊細に、特に物は大切に扱う様に心掛けている分、こういう昔からあるといった【物を大切に扱う】ということに対しては、誰よりも気に掛けていると、本人も常日頃から言っていたし実際そうしている。それを見た目からではなく、ちゃんと中身を見て、知った人間から評価されるというのが、家次はとても好きなのだ。


「ほなワシは帰る。・・・・ここのガキどもこっち見過ぎや。先生来ても面倒やしな。」

「え、あ、そっか。学校だった。ホントにありがとう、家次さん!」

「おう。・・・・・あとこれケンに渡しとけ、ゲンコツも代わりにしとけ。」

「えぇーーあぁぁーー・・・・・・。」


鞄を閉め、さて帰るかと自転車に跨って少しして、忘れていたと苦々しい顔をしながら、家次は今度はジャンパーのポケットへと片手を伸ばした。そこから取り出されたのは稔も良く知っている、毎日のように目にしている野球部で使っている物と同じ軟式の野球ボールだ。


「あの阿呆手ぇ振るだけやなくてボール落としてきよった。返しといてくれ。」

「こわー・・・・、え、家次さん当たったの?」

「当たるかいボケが!捕ったんじゃ!ワシやなかったら下手したら死んどったぞ!」

「それは確かに、そうかも・・・・・。ありがと、ちゃんと渡しとく。」

「ついでに殴っといてくれ。グーや。」

「僕友だちいなくなっちゃうよ。」

「そんなんでなくなる友だちなんかいらんわ。ほなまた明日な。」

「うん!ありがと家次さん、また明日―!」


そう言ってゆっくりとペダルを漕ぎ出した家次の背中に、稔はもう一度ありがとうと感謝の言葉を投げかけた。去っていく大きな背中に、控えめに揺らされた左手での挨拶は、人前での家次の照れ隠しからの精一杯の返答だ。衆人環視の状況に即逃げ帰りたかっただろうに、わざわざ傘を届けるために立ち寄ってくれようとは、稔は思いもしなかった。ついさっきまで憂鬱な気分だった筈なのに、たった一本の古びた傘一つだけで、稔の気持ちはいつになく軽く、不安何ぞとうの昔の事とばかりに、もうどうでも良くなってしまった。


「雨、降らないかな・・・・・、」


思わず口先から零れた言葉は軽やかで、昼休みの終わりを知らせる予冷に、はっ、と我に返り教室へと向かって走り出した稔の足取りは、今日の朝よりもずっと軽い。念のため職員室に寄り、訪問者が自身の知人であり、たまたま道を通り、傘を届けてくれたと報告をして少しのお小言を貰いながらも危険物や不審者では無いことを伝えてから教室に戻る。階段を上がり最上階、自学年の廊下にたどり着いた際には、稔の知らない人物までも、不思議そうに稔の姿を見ては、あちらこちらでこそこそと、声を潜めて何かを言い合っていた。まるで異質なものを見るように無遠慮に、好奇心の赴くまま向けられる名前も知らない他人からの視線に、稔は胸の奥がぎゅう・・・・、と肺が呼吸を拒むような息苦しさを感じたが、それもほんの一瞬の事。慌てた様子で野次馬の合間を縫って駆け寄ってくるたった一人の存在に、周囲の視線を気に掛ける、そんな必要は無くなっていた。


「稔、ゴメン!俺思わず声出ちゃって・・・・!」

「パーンチ!!!」

「いってっ!グーかよ!ゴメンって!ホント久々で嬉しくって、つい・・・・・、」


軽くボールを握った手を真正面に突き出して、稔は駆け寄ってきた刀也の腹に目掛けて、弱めのパンチを繰り出した。一瞬こちらの様子を伺っていた周囲の生徒は押し黙ったが、攻撃を受けた当の本人はまるで気にする様子も無く、寧ろ何度も顔の前で手を合わせ、平身低頭に自らの腹を殴った相手に謝罪を繰り返している。勿論、二人が幼馴染で、友達であることを知っている者からすればただのじゃれ合いと思うだろうが、それを知らない者からすれば、普段から大人しく、存在感の薄いひょろりとした根暗が、学年内での人気者に手を出した姿というのは、なんとも奇怪に映るのかもしれない。なんであの二人が?どういった関係だと漏れ聞こえてくる周囲の声に少しばかりバツの悪さを感じたが、それは刀也にとってはどうでも良い事なのだろう。他人の目から見た関係では無く自分の【友だち】に迷惑をかけたと同じ位置から、同じ目線で素直に言葉を掛けてくれる刀也という稔にとっての友達は、幼い時からずっと、何にも変わっていないのだ。


「僕は大丈夫だよ、ありがとうケンちゃん。あとコレ、家次さんから。」

「ぁ、良かった~!!ボール取り上げかと思った!!」


進学し、社会が、交友関係が広がっていく現状で、距離が離れてしまったと勝手に思って、そして思い込んだまま勝手に世界が違うと線を引いていたのは自分の方だった。友人は何も、友達である稔の事を恥ずかしがっていない、迷惑だと思っていないのだ。少し環境が変わったからと勝手に神経質になって。相手は何も変わらずに話しかけてきてくれるのに、他人が、空気が勝手に決めたランク分けに自分からはまっておいて、勝手に自分を卑下していたのは稔の方だ、刀也自身は何も変わってなんていなかったのだ。

殴ったくらいで壊れるモノなら、壊れてしまった方が良い。家次の言う通り誰かに気に入られるための線引きや、自分を上げるために他人を下に見る行いよりももっとずっと、こうして接してくれている刀也は、家次が言っていた通りの【壊れない友だち】だと、そう自信を持てたから。


「パンチは僕じゃなくて、家次さんからね。殺す気かって言ってたよ?」

「ぅわ、やっぱ怒ってんじゃん!でも稔が居てくれて良かったわ。次家次さんと会ったら絶対それで終わんなかったって。マジでヤバかった~!」

「多分頭に一発っぽかったけど、やったことないし。でもちゃんと約束通りグーにしたから。」


無事手元に帰ってきたボールに一安心とばかりに胸を撫で下ろした刀也に、家次の宣言通りに実行したから大丈夫だと、稔は軽く笑って返事をした。グーパンはキツイってと、不満を口にしながらも、どこか楽しそうに弾んだ声色で話す刀也の様子は子供の時から変わらない。悪戯をして叱られて、でも構ってもらえたのが嬉しい時に、右耳朶を触る癖は相変わらずの様だ。


「じゃあ許された!ちゃんとグー受けたし!」

「うん、そうだね!ちゃんとグーで殴ったって言っとくから!」

「頼む!って、ところで、もしかして家次さんが来てたのって?」

「うん、コレだった!傘!!」


刀也の言葉に稔はにっこりと笑みを浮かべながら、その中にある紺碧の折り畳み傘を自慢げに胸元に持ち上げてみせた。現在の折り畳み傘より一回り程大きく、どこか武骨でガッツリとした大きさのそれに、刀也は一瞬目をしばたたせ、そして良いなぁ!と驚嘆の言葉と共に、羨まし気な視線を稔に向けていた。


「お前良いよなぁ~、家次さんって本トに稔贔屓だよな!俺もいるのに!」

「たまたま目が合ったら下に居たんだー、貸してくれるって!」

「ホントにたまたまか?来てくれたかもじゃん?」

「馬券買ってきた帰り道に通ったんだって。」

「・・・・・・たまたまだな、ラッキーじゃん稔、良かったな!」

「うん!良かった!!」


会話が終わると同時に鳴り響いた午後の授業開始を知らせる本令に、稔は勿論、周りで様子を伺っていた者たちも、皆が皆我先にと、散り散りに教室目掛けて駆け出していく。その様子に稔も刀也と共に短い廊下を小走りに、鐘が鳴り止む直前に、教室内へと滑り込んだ。この後の二時間の授業はあっという間に過ぎ去って、授業が終わったその時には、雲の中で轟音を響かせながら、確りと形を成した雨雲が、ザァザァと音を立てて大粒の雨を降らしていた。


正門を潜る前に苦戦しながらも組み立てた雨傘は、やはり大きく、重く、そして綺麗な畳み皺が付いている。鞄の中には古典の教科書とノート、筆記用具に古語辞典。それらを濡らさぬようにとしっかりと胸元に抱える様に鞄を持って、稔は雨の中に一歩足を踏み出した。古臭い構造に、持ちにくい手元に少し苦戦しながらも、傘の布に染みついた、良く知った甘苦い煙草の葉の香りに、稔は少しばかり特別な気分だとばかりに、足元に纏わりついてくる、柔らかな雨水を跳ね上げた。


坂口さかぐち 刀也けんや

稔くんの幼馴染男の子。お父さんが硬式野球のコーチをしているので、子供の頃から野球をしている。ピッチャー。今は中学で他の人とも野球がしたいと硬式ではなく部活で軟式野球をしている。雑用1年生のはずだったが、経験値の高さからスタメンや中継ぎピッチャーとして既に戦力として起用されている。元気で素直な男の子。家次さんのことはデカくてカッコイイと思っており、昔から腕にぶら下がってブン回して遊んでくれたりするとでとても懐いている。が、うるさいので稔がいない時は家に入れてもらえない。(ずっと体を使った遊びを要求されるので面倒くさい。)本当は剣也だったが、字を間違って登録された。本人は気にしていない。


家次さん

基本家から出ないが、回りものの時はちゃんと着替えて自転車で券を買いに行く。電車賃を浮かせている。自転車が好き。前に席替えで窓際になったと言っていたことを思い出して、少し止まってみたら本当にいたのでこっそり傘をあげようと思った。ら、一番見つかりたくないヤツに見つかって注目を浴びたので暫くは学校近付の道は使わないようにしようと心に決めた。許せない。



次はただただのんびりしています。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ