いつものおつかい。
急かされるままに渡された巾着を手に稔が向かう目的地は、稔の自宅方向とは全くの真逆に位置する。家次と稔の家を直線状に結んで、その中間地点からほぼ垂直方向に位置するその場所は、家次の家からは徒歩で10分程度の位置にあり、走ればほぼ5分程で到着できる場所だ。自転車であれば、それを更に縮めて3分程度。途中で時間を奪われるような信号も無い、ただの入り組んだ小道を少し進んだ先に、お目当ての店は存在するのだ。
「・・・っあ、あのっ!遅れました!」
「・・・・まった坊やかい!あのクソガキ自分で来いって言ってんのに!!」
開いているのか、閉まっているのかは、何時だってこの店を切り盛りする店主の気分次第。シャッターが開いていようがなかろうが、『ヒヨリ婆さん』がやっていると言えばやっていて、やっていないと言えば帰るしかない、そんな独自のルールが存在している。
今日は店のシャッターを、下三分の一ほど上げた状態で、中へと続く店のガラス戸は開けられているが、言っても人様の家であり、駄菓子屋というれっきとした商店の入口だ。
寄りたい人がいたとしても声を掛けて反応が無ければ今日は休みと察して帰るしかない暗黙の了解に、それでももし中にいる住人に用があるのであれば別にある正式な玄関に向かえばいい。
だからこうして稔が声を掛けたことでわざわざ腰が重そうな、面倒くさそうな声を出しながらもシャッターを少し引き上げてヒヨリ婆が出迎えてくれるのは、此処での稔の存在は、家次を関することによって、少しだけ【特別な存在】として扱われているに他ならない。
「もう用意してるよ、早く中にお入り。」
「ありがとうございますヒヨリさん、…お邪魔します。」
「良いよそんなん、アンタお客さんだからね。ホラ、巾着よこしな。」
「はい。あ、お釣りが出たらアメ釣りしていいですか?」
「・・・・・クソガキが、口ん中虫歯だらけになって、そのまま菌に食べられちまいな。」
稔の言葉に一瞬だけ優しくなっていたヒヨリ婆さんの言葉が、直ぐに最初の毒気を孕んだ物へと色を戻した。どうも長年子供の相手をしている駄菓子屋のお婆さんというものは、気が優しく、穏やかなだけでは駄目なようで、少し癖のある人が多いらしい。子供は純粋だ、純粋だからこそ悪いことも一つのスリルだと遊びの一環に組み込んで万引きの常習犯になる事もある。善人じゃ務まらないのが商人だと、数年前に何人かの子供相手に叱咤し、出禁にした話をされたことのある稔は、ヒヨリ婆さんの中にある線引きの輪郭に触れてしまったように感じて、親しくしてくれていることに感謝こそすれ、それを当たり前に思い、感謝を忘れた時に何時でも自分は切り捨てられる側なのだと、幼心に少し恐怖を感じたことがある。
「いつものに、今週は良い黒糖があったからね、これを入れてある。後は変わんないよ。」
「ありがとうございます!」
「アンタももう中学生だってのに、まぁ~だお使いさせられて。いい加減嫌なら嫌だってハッキリ言っちまいな。」
「そんなことは・・・・、僕は、家次さん好きなので、これも結構楽しいです。」
「・・・・全く、あのクソガキは。ヒトタラシも大概にさせないとねぇ。」
そう言っていって大袈裟にため息をついたヒヨリ婆さんだが、このため息は決して稔に向けてだけのものでは無いのだろう。でなければ、一体誰が、たった一人の週一回の菓子購入の為だけに特別に卸からの値段で菓子を用意して、一袋に纏めて硝子カウンターの台の上に用意をしているだろうか。しかも稔の知るずっと前から、何十年と続けてだと聞いている。人の事としてでは無ければ言えない程の特別待遇だ、自らが誑されている張本人であると言って仕舞っている様なものだ。
「あと砂糖は値上がりしたからね、伝票入れとくけど、ちゃんと言っといておくれ。」
「はい、わかりました。」
「それでお釣りでの飴ね・・・・、3つ引きな。デカいのは残ってるよ。」
「・・・・・なんで急にプレッシャー掛けてくるんですか!?」
さあ、良いのが出るか出ないか、今週のアンタの運試しだ。
そう言ってフン、と鼻先で笑ったヒヨリ婆に促されるまま、稔は目の前の硝子カウンターの上に用意された紐が垂れている箱へと手を伸ばす。どの紐を引こうか、こっちか、それともこちらが正解か?迷う心が見え透いている、箱の上を行ったり来たりとするまだこれから成長するのだろう子供の手に、欲を出すか感で引くか、一体どうすると、ヒヨリ婆の口元がニヤリと楽し気な笑みを浮かべた。
頭を下げて店を出るなり、低く開かれていた筈のシャッターが、ガシャリと音を立てながら、終着点である足元のコンクリートに打ち付けられた。所々に錆がつき、鍵云々以前に上げ下げにもコツがいるらしい、昔製の重く固いシャッターは、今日はもう店じまいだと言わんばかりに、これ以上の来客を拒絶している。朝から開いていたのか、それとも本当にこの人会計の為に開けていてくれたのか、つい数十分前まで学校にいた稔には知る由も無い。ただこの店が本当にただ一人の客の為だけに開かれていたのだとしたら、少しでも顔を見せてあげれば、ヒヨリ婆さんもきっと嬉しいのではないのだろうか。
「家次さん、今度来てあげたら良いのに・・・・。・・・・、帰ろう。」
ギチギチと軋む音を奏でながら、下ろされたシャッターが内側から閉められる音に、少しの寂しさと、どんな目的であれ自分を待っている家次の事を思い出し、稔は締められた店頭を背に、一歩、また一歩と足を進め走り出す。今は何より先にお使いを遂行する、それが今稔にとって一番の達成すべき目標であることに変わりは無い。気になったことがあれば、後で本人に直接聞けば良い、家次さんは答えてくれる。その事を知っているだけで良いのだ。人間関係は人それぞれだ、他人が知ったふりをして勝手に首を突っ込むものでは無い、善悪関係なく触れられたくない事や、知られたくない線引きは、自分以外は誰だって分からないのだから。そう言って茶を飲んでいたお使いの主は、その後分からんことに悩むのは無駄だ、忘れろと言って、懐に抱き込んだ大袋に手を突っ込んでは、無心に煎餅を貪り食らっていた。
*
数分道を走りぬけ、視界の端にようやく青葉が見えだしたので、走るのを止めた稔は、先の時間に顔を突き合わせた人物の居た、薄暗い森の入口へと足を進める。稔の鞄はそこには無く、勿論鞄の代わりに巾着を持たせた男も、先とは打って変わってその場で待ってはいてくれない。いつもの事だ、分かっている。きっと今頃先に自分の巣に戻り、稔の持って帰ってくる戦利品に思いを馳せているのだろう。家次という男は驚くほどに基本が勝手なのだ、なによりもまず自分が優先。それが何より当たり前で、その生き方を決して崩すことはない。
ではそんな家次と何故稔が関わる事になったのか、それはただ家次が稔の事を気に入っただけという、何か他に言い様が無いのかと言いたくなるようなそんな何でもない、ピンときた、というなんとも感覚的なものであった。
「お邪魔しま~す。」
補装されていない入口から少し先に、木の幹の隙間に隠れるようにの門扉が一つ現れる。伸び放題の木々に隠れてしまってその存在感はゼロに等しいが、実は家の周りをぐるりと囲う木塀がこの家には存在する、らしいのだが、年に一度の季節の節目に木々から落とされた種が芽吹き、一つ二つと数える合間に、今や塀の外を木々が二重に取り囲む形になってしまったらしい。何時だったか忘れたが、稔も先に芽を摘むなりなんなりの対応をした方が美観的な事を考えれば良かったのではないか?と疑問に思い家次に尋ねたこともあったが、当の家主は寧ろ此方の方が良かったと言って、現在の姿に満足をしているらしい。表の木塀はちゃんと見えているし、寧ろ御勝手側の道路沿いは、開発が進むと共に騒音が酷くなったらしく、そこに木々が伸びたお陰で、外からの騒音に悩むことが無くなったと自慢気に鼻を鳴らして頷いて見せていた。実際ここを利用する人間は、内から戸を開ける権限を持っている家主自身だ、よそ者が入り込んだり、中には何が目的か、塀を掴み、ひっそりと中の様子を伺ったり、覗いてくる者も居たのだという。だから、私有地のだだっ広い地面に折角種が芽吹き、そして成長してこうして家主の役に立っているのだから、良いのだそうだ。それに何より、秘密基地の様で楽しいだろう?と、ニヤリといたずらっ子の様に笑った家次に、そこを共有させてもらっている稔も、確かにこの道を通る時には胸が躍り、なぜかワクワクするのだと、ウンウンと赤べこの様に首を大きく縦に振った。
足元を飾る様な石畳も何もない。土が剥き出しで、人が歩いて踏みしめたことで何とか道の形を保っている地面に、稔の為に開け放たれていた門を潜り、そして内側から閂をかけた。
生い茂る木々の中、逞しい幹から地面へと張られた根を避ける様に、右へ、左へ。根を踏まない様に踏み固められた地面に、方向を定められていない道を確かに前へと進みながら、青々とした葉に光を遮られた中進んでいく。少し湿気た空気は数日前に振った雨の所為だろうか、進む視界の片隅に、水をたっぷりと含んだのだろう苔が、住み着いた木の根から幹に掛けてその輪郭を表している。どことなく薄暗く、だけど決して嫌ではない。寧ろこの場所の方が日常生活の中で一番清々しいとさえ感じる程に、精気が満ち、空気が澄んでいるようにも感じられる。鬱蒼とした木々の隙間を縫う様に歩き、頭上から零れる様に降り注ぐ木漏れ日は、先程苔を見つけた時同様に、その時々にしか見られない景色を拭き向ける風と共に教えてくれる。鼻先を過ぎていったのは、まばらに植えられたなにかの花の香りか、それとも瑞々しい輝きを放つ新芽の青葉の香りだろうか。木の隙間を潜り抜け、頬を撫でる風が心地良く、稔は無意識の内に深呼吸を繰り返す。常に人と関わる事柄は何とはなしに気を使い、自分が思っている以上に、心も体も疲れてしまっているのかもしれない。だからこの道を通る度に、稔の身体は普段の張り詰めた気持ちを正す様に、長く、深く、ゆっくりと呼吸を繰り返す。そしていつの間にかその行為は、稔の日常において大切な【リセット】の習慣として組み込まれるようになっていった。
そのまましばらく進んだ先、木々の姿がどんどんと減り眩い光の差す方に踏み出した瞬間、一瞬の眩さに目を顰めるが、数秒も経たず直ぐに目が慣れると共に、最初に目に映るのは此方に縁側を向いた一軒家が一つ。戦前から生き残っている年期物だそうで、黒光りのする瓦屋根に、6畳からなる部屋が数室、障子や襖で区切られている。一見地味だが外壁は漆喰で、内壁には土壁を、家を支える支柱となる大黒柱も中々に芯の強い頑丈なものを使用しているらしい、大変贅沢なものだそうだ。そんなこじんまりとした、一見質素な家の縁側で、まるで大きな岩の様に、背中を丸めて胡坐を掻いていた人物は、砂を踏む足音に気が付いたのか顔を上げ、のそりと、太い丸太の様な片腕を高々と振り上げると、その手を大きく左右に振った。
「待っとったぞ、稔!おかえりぃ!!」
ぱん、とまるで空気を叩くような張りの有る、だが少し煙草でしゃがれた太い喉から、稔を呼ぶ声が放たれ、背にした木々と家の間の空へと抜ける様に木霊する。待ち侘びていたのだと言わんばかりの喜色に溢れた声色に、人によっては鬼瓦の様hだと揶揄されている強面の顔をくしゃりとして笑う家次の姿は、まるで稔の年頃と変わらないような、少年のような笑顔を浮かべている。
「ただいま!家次さん!!」
「早よ来い!早う!早よ持ってこいっ!!…しゃ、茶入れるぞ!」
待ちきれないと言わんばかりに手招きをして、そうかと思えば立ち上がり、いそいそと家の中へと消えていく大きな背中に、縁側の上、伏せられた湯呑茶碗が二つ用意されている。
理由は何であれ、自分を待っていてくれる人がいる。それが一体どれ程嬉しいか、それを稔に教えてくれたのは他でもない家次だ。
今週も、楽しいと良いな、そう思いながら家次の下へと一歩踏み出す稔の足は、一日の中で一番軽い一歩を刻んでいた。
功刃 家次 / くぬぎ いえつぐ 50代前半
無駄に広い土地をいくつか所有、繁華街等にもあるので不労所得で生きている。強面でデカい。身長186センチ、体重103キロ程度。




