サルビアブルー
——お前は幸せになってはいけない。誰かにそう囁かれた気がした。
地図を広げると、海の他に目を引くのはアリヒ大陸だ。地図上のやや左下寄りの中央、世界の約三割を占める海にかこまれた大陸で、現在三つの国が統治している。その内の一つ、北西から東北東にかけて土地を保有しているのがルオント国だ。王都はシラン、第二都市としてラディがあり、ニックスはラディより遥か北方に存する。
ノエルが学校へ就任した春先、受け持ったクラスの中に風変わりな容貌の娘を見つけた。エルフィといって、彼女は春とともに齢十五を迎えたばかりなのだという。声をかけると凛として芯のある、アルトのよく通る声で返事をする。そういった声質の人間には、以前にもノエルは出会ったことがある。銀色の髪も自分のそれと似通っているし、別段珍しい色合いでもない。容姿や服装は特段華美ということもなく、目に余る言動もしない。だが、長く尖った耳などが、彼女はただの人間でないことを証明していた。
それでも、主任に促されて彼女がした身の上話に動揺しなかったといえば嘘になる。——エルフィは竜人を親族にもつという。出会ったばかりのノエルに、主担任——というより学校の意向で、彼女は話したのである。淡々とした様子で、学び舎に身を置く以上、説明は必要であると理解しているようだった。けれど、自身は純粋な人間とさした差はないので、他の生徒と同じように接してほしい、エルフィはそう締めくくった。
就任して数ヶ月接してみて、確かにエルフィから他の生徒と大きな差異は見られないと実感した。教師たちも生徒の内の一人としてエルフィと接している。
「エルフィは特異な出生と感じさせませんね」
ある時、何気なく一人の教師に彼女の話題を振ると、「やっぱり気になるかい」と納得する素振りを見せた。「あの子は平凡なありふれた子だよ、意外と」
ノエルより数年早く就任した、ニックスの学校の中では比較的若い男性だ。
「確かに特殊な家庭に生まれ育ってるし、その影響なのかちょっと強気で落ち着いてる。達観している節や実直なところもあるね」
けれど、よく笑いよく食べ、同性の友人と他愛もない話題で盛り上がる。特異な存在といえど、やはりただの子どもに他ならない、と。そういった趣旨の話をしていた。だからこそ、扱い方は「我々人間と同じ」なのだそうだ。しかし同時に、竜人への敵意がないことを示し、歩み寄りに繋がればという意図もあるという。
彼ら——竜人はその名の示す通り、竜と人間の特徴を併せ持った種族だ。人間に近い骨格に、竜を思わせる精悍な容姿。鋭い目付きや逞しい尾とは対照的な、すらりとした体型。そして艶やかな鱗、人間の頭髪にも似た頭部からの体毛。彼らは独自の文化を築いており、人間からは共存可能とも、あるいはそれは不可能、邂逅すれば必ず血を見ることになるとも言われている。長い歴史にある彼らの友好的ながらも中立的な立場も影響してか、それほどまでに、竜人への認識は甘い。偏見が少ないだけ幸運なことだが、さらに幸か不幸か彼らを崇拝している節がある。畏敬を抱くべき存在として認識している人間は多い。
そういったこともあり、他の教師は彼女の存在が人間と竜人の橋渡しになればという願いも込めて、彼女を迎えているのだという。だが小耳に挟んだ話によれば、竜人は不死あるいはそれに近いとされている。エルフィほど人間の形に近ければ事情も変わってくるだろうが、それでも貪欲な人間にしてみればこれほど好都合なことはないだろう。——エルフィら家族の意向を差し置いておきながら。
「キミが魔法を不得手としているとは意外だな」
「ええ、そんな得意そうに見えます?」
ある時エルフィが魔法授業の補習を受けたと小耳に挟んだノエルは、彼女を前に思わずこぼす。授業が終わり、帰宅の準備をしていた時だ。エルフィの友人はすでに教室を退出しており、取り残されていたのはノエルとエルフィだけだった。
「竜人は得意なんだろう。養父からの受け売りの知識だが」
「きっとわたしの父に似たんですね。魔力はそれなりにあるみたいだけど、どうも扱いきれなくて……。それより、先生が養子というのもなんだか意外です。ご両親はどちらに?」
「ラディにいる。眠ってるよ」
「あ……、ごめんなさい。不躾なことを聞いて」
「いや。俺もキミの話を随分聞かせてもらってる。俺からも話しておあいこになるんじゃないか」
一呼吸置いて、ノエルは世間話のように話し始める。
「養父はここの生まれなんだそうだ。見飽きるほど雪に囲まれて育って、出稼ぎのためにラディに住むようになったみたいだ。何年かして養母のところへ婿入りして、そのままラディに住むようになったそうだよ。子どもに恵まれずに悩んでた時に、孤児でやさぐれてた俺が現れて引き取られたワケさ」
「へえ……」
孤児自体は特段珍しくない。ここ数年で大陸全域で景気が落ち込みつつある。それに伴って幼くして親を失くした、あるいは棄児となった子どもも増加した。それで孤児院に入れたのならよし、入れずとも運が良ければ引き取られる。大概は飢餓や病で命を落とす。十数年前までは近年と比べ少ない統計が出ているらしいが、当時の報告数よりも実際はより多いだろうというのが市民らの見解だった。その統計に入っていたかは定かではないものの、ノエルが運の良かった部類になる点が、エルフィにとって意外に感じられた。
——というのも、彼からあまり欲が感じられないのである。しっかりとした食事を摂りたい、必需品を余裕が出るほど確保したい、その他諸々の欲求が少ないように思えたのである。
(……それだけご両親が大切になさってたのね)
そう解釈して、エルフィは他人事ながら安心する。自身の家族も、自分をとても大切にしてくれている。生い立ちゆえの苦労も少なくないが、それでも充分な愛情を受けてここまで来た。だからこそ、エルフィの心中にはかすかにノエルに対する親近感が芽生えていた。