マゼンタ
——ずいぶん孤独の色を瞳に宿す人だ、と思った。
大陸の北方、ニックス村。小さな丘陵と森に囲まれた静謐なところで、人口は少ないものの農村として長い集落だ。ニックスは土地柄、毎年厳しい冬になる。秋も深まれば雪が降り始め、更に冷え込み冬を迎えると数メートルを超える積雪がある。春を迎えたあとの降雪も珍しくない。
名残の雪が目立つ春先のことだ。その田舎の小さな学校に、ノエルという男性が新米教師として就任した。田舎のごく小さな学校ということもあり教師も生徒も少ない。とりわけ就任のために、わざわざ外からこの村を選択するなど珍しい。
そういったこともあり、彼の存在はエルフィの教室でも春を迎える前から噂されていた。恋人は、顔立ちは、年齢は、出身地は。特に学校の女生徒の大半が浮き立っていた。
エルフィも期待していなかったと言えば嘘になる。なにせ男女問わずある程度年齢のいった教師ばかりの学校だ。そこへ若い教師が——それも第二都市郊外から——来るとなれば、期待に胸は膨らむ。
春季の短期休暇が明け、始業式にて演台に新しい教師として立ったのは、端正な顔立ちの青年だった。多目的室として利用している教室に、生徒の中から黄色い声が響く。浅い小麦色の肌に、透明感のある赤みがかったピンクの瞳、月夜に照らされた雲を彷彿とさせる白銀の髪の男。彼は自身をノエルと名乗り、精一杯尽力すると目標を示した。
ノエルが副担任として受け持ったのはエルフィがいるクラスだった。彼女の学級から歓声があがったのは言うまでもない。
エルフィのクラスは年度末に卒業を控えた学級だ。みな十四、五歳ということもあり、結束力のある生徒が多く扱いやすい、と初老の主担任はノエルに説明する。始業式を終えて教室に案内された新米教師は、主担任に促されて再度挨拶をした。続いて渡された名簿を読み上げ、それに名を呼ばれた生徒が応える。エルフィも名を呼ばれ、はい、と視線をノエルへ向ける。と、長く視線が絡んだように感じた。エルフィを値踏みをするような眼差しだった。しかしそれも束の間、すぐに彼は他の生徒の点呼へ移っていた。
——無理もない、と内心こぼして、エルフィは髪を整える。他人よりもとがった耳を隠すように。しかし同時に、彼の瞳の表情に違和感を抱いていた。自分を認めた瞬間は色が変わったものの、それ以外は心あらずといったようにどこか遠くを見るような瞳だった。確信はないものの、孤独を知る人だと、エルフィはそっと思うのだった。
「エルフィやるぅ!」
二人の担任が教室をあとにするなり、室内にざわめきが充満する。席を立つ者、近い席の友人と会話を始める者、机に突っ伏す者。各々が思い思いに行動する中、からかうようにエルフィの肩を叩く少女がいた。セツキという、グレーの髪と鮮やかなオレンジ色の瞳が目を引く生徒だった。
セツキは噂の新人教師がエルフィに注目した点を察したらしい。よく見ている、と思う。
「また! 珍しがってるだけだって」
エルフィの机の前へ回り込んだ友人はしゃがみ込み、机上で腕を組む。そして少女へ羨ましそうな視線を向けた。エルフィの長くとがった耳、縦長の瞳孔に、八重歯にしては長く尖った犬歯。それは純血な人間には持たない特徴だった。これはエルフィしかもたない、特異なもの。
——エルフィは竜人の祖父と半竜人の母をもっていた。竜人は一部で都市伝説と噂されるほど珍しい種族だ。深い渓谷に暮らしており、滅多に姿を見せない。遠い昔に竜と人間がまぐわった際に誕生した種族と伝えられているが、彼らは人間を含む他の種族へあまり干渉をしない。そうして彼らは数千年もの間、中立的な立場を保ち続けていた。
それゆえ、そのしきたりを放棄して祖先と異なる道を選んだ祖父を、酔狂な人だとエルフィは思う。その祖父を選んだ祖母や、祖父母の間に生まれた母を見染めた父のことも。エルフィのような存在は殊更稀有な存在だ。一家が好奇の目を向けられることが多い。
しかし各地を転々としてきたエルフィ一家にとって、このニックスは意外にも過ごしやすい村だった。排他的で保守的な者が多いかと思いきや、大らかでのんびりとした村人ばかりだったのである。以来、一家はここに腰を落ち着けようと決断し暮らしている。
「でも本当羨ましい。あの竜人の血が混じってるなんて」
「うん、耳にタコができるくらい聞いたわ」
エルフィは苦笑する。
二年ほど前にエルフィがこの村へ引っ越してきた時、最初にできた友人がセツキだった。物静かながら好奇心旺盛な少女だ。彼女は自宅に数冊だけ本を所持しており、それを繰り返し読了するほどの活字好きだ。中でも奇譚、特に異種族との交流を描いた短編集を好んでいた。その影響か、異種族の血に憧憬を抱いているらしかった。
「エルフィー、ちょっといいか?」
一度職員室へ戻ったらしい担任に不意に呼ばれて、エルフィは席を立つ。大方新しい先生に事情を伝えることになるのだろう。セツキに短く断って、主担任のもとへ駆け寄った。
「ノエル先生に、君からご家庭のこと話してくれるか。ノエル先生のほうも気にするだろうし」
「はい」
「んじゃ、図書室で待ってもらってるから。頼むよ」
頷いて、主担任と共に廊下を進む。その途中、エルフィとその家族を迎えたことが感慨深い、本年度で卒業してしまうのが寂しくもある、と担任教師は話した。その言葉にエルフィは内心苦笑する。あたし達はただ根を張る場所がほしかったのだ、とは口が裂けても言えなかった。エルフィのような存在が人間と竜人の橋渡しになればと言い出したのはこの学校の教師達だった。しかしそれを断る気にもなれず、うやむやにしてしまっていた。古びた校舎の廊下が軋む。昼前の陽の眩さにエルフィは目を細める。騙しているようで心が痛むが、かといって、良くしてくれる教員や同級生らの期待を裏切るような行為はしたくない。そう思って、エルフィは「ここでの暮らし、とても楽しいです」と話した。すると「そう言ってくれると嬉しいよ」と、主担任は朗らかに笑った。
図書室につくと、窓際の席で文書を確認していたらしいノエルが顔を上げた。主担任の背後に控えたエルフィの存在に気が付くと、射抜くような瞳が彼女を捉える。
「コルド先生」
ノエルが主担任へ確認するように声をかける。と、コルドは頷く。
「まあ、そんなに気を張らないでほしいことだけど。お互い事情を確認しておいてほしいからな……私もそばで聞いているから」
コルドの言葉にノエルもエルフィも頷く。
図書室は始業式直後のため三人と司書を除いた人はおらず、しんと静まり返っていた。司書の女性が作業する音が響き渡るほどに。元来の特徴も相まって長話は憚られたが、ノエルの促す仕草にエルフィは綽々と身の上話をした。——といっても、彼女が話せることは少なかった。祖父が竜人なので少し特殊な血統であることや、家族は狩猟を生業としていること。この土地へは二年ほど前にやってきたこと。見た目の差異や五感の鋭さはあるものの、自身は純粋な人間と大差ないこと。そういった内容をエルフィは簡潔に話した。静かに耳を傾けていたノエルは、驚愕の表情を浮かべながらも短く「そうか」と答えた。表情とは裏腹に、意外にも淡々とした声色だった。
「竜人の血を引く生徒と会えるとは……。俺では力不足だろうが、教師としてできる限りのことはしたい。よろしく頼むよ」
軽く頭を下げたノエルに、エルフィも応える。
「こちらこそ。あたし、……わたしのこと、特別扱いしないでもらえますか」
「心構えするよ」
やり取りを見守っていたコルドが、空気の切り替えをするかのように一つ手を叩いて、
「話してくれてありがとう、エルフィ。ノエル先生、そういうことだから。エルフィからのこういった願いもあるし、我々からも事情を片隅に覚えておく程度で対応してもらえると助かります」
「分かりました」
「それじゃあ、エルフィは教室戻ってね。私らは授業の支度をしてから戻るから」
「はい。失礼します」
主担任の言葉にエルフィは席を立つと、二人に会釈をして図書館をあとにするのだった。