第七部 街
翌日。
流永は家の裏手にある井戸で顔を洗っていた。
毎日はしない。気がついて、洗いたいときに洗う。
最後に手をパッと払って水を落とすと、いつもの場所で朝食の鍋と向かい合った。
流永は鍋と、にらめっこしたまま黙然としている。
ふと顔を上げたと思うと、
「今日街行こうよ」
といった。
「どうした藪から棒に」
「昨日の夜、パンみたいなやつだったでしょ」
流永は昨日の夕食のことを言っている。
老人は街で買ってきたのは切れ込みが入ったパンに様々な具材が挟まっているものである。何という名前だったか。
「コルトのことか」
と、老人はいった。ここではそう呼ぶらしい。
「あれ食って街に行きたくなった。だから行きたい!」
老人は露骨に面倒くさそうな顔をした。
だが、流永は一切頓着しない。
「行こう、行こ!」
「………」
老人はしばらく無言で流永を見ていたが、最後に大きくため息を吐いた。
「仕方ない。連れて行こう」
老人は何度も振った首をまた振った。
面倒くさいだけで別に流永を街に行かせたくないわけではない。
「じゃが……、まずは近くの川で身体を洗わんとな」
老人は空いた時間に近くを流れる川で身体を洗っているようだが、流永はこの六日間服を脱いだ記憶がない。
当然、子供の身体(七歳)だが、なにやら臭ってくる。
流永は別に気にならないらしい。
「体洗うの?」
「ああ洗え。臭ってくるぞ」
流永は老人から手ぬぐいを一つもらうと、面倒くさそうに川で身体を洗った。
洗い終わると老人が用意した新しい服に着替えた。
「朝飯はどうする?」
「あっちで食べたい」
「そうかい」
老人は既に身支度を済ませている。
「行くぞ」
老人はよれよれの白い服に薄茶の地味な布のズボンを着ている。流永も薄い布の上下を着ている。
街が見えてきた時、流永は息を吐いた。
街を見るのはこの世界に来て以来、六日ぶりだ。そこそこ、なつかしい。
しかし、この要塞都市の中に入るのは初めてである。
街を囲む壁は十メートル程度。
流永は今子供のせいか、その壁がかなり大きく見えた。
門は街の中心を流れる河を軸として垂直の場所二ヶ所にある。河からは最も遠い二地点だ。
中に入るには門前の検問を受けなければならなかった。流永と老人はそれを受けた。
「お、ボウズ」
と、門番の一人が流永に気づいた。
流永は今、七歳の為、声の主の顔を見るには上を向かなければならなかった。
「………」
「耄碌との暮らしはどうだ?」
その門番は一見口が悪く、目つきも鋭く悪人顔だが、どこか親しみを覚える微笑をしている。
「………」
流永は眉をひそめた。誰なのか思い出せない。
「忘れた」
「覚えてねぇか、お前がそこの耄碌に拾われた時にいたろ」
「ああ!」
流永は思い出したようだ。
「あの、口が悪い人」
「ハハ………」
ただ流永の物言いには閉口した。
口が悪いと覚えられて、いい気になる者などいないだろう。
「今日はどうしたんだ?」
門番は気を取り直してそう訊いた。
「俺をおぶってた人は?」
話が噛み合っていない。と、いうより流永が人の話を聞いていない。
「ああ、あいつは……」
と門番は仕方なく、自分の問いを引っ込めて流永の問いに答えることにした。
「今日は非番なんだよ。お前のこと心配してたぜ」
ハハッと門番は笑った。
「おいネル、後ろ詰まってるぞ」
と、彼の同僚らしい他の門番がいった。
後ろを見ると確かに何人か並んでいる。当然のことだが、門は一つしかない(正確には河を挟んだ向こう側にもう一つあるそうだが)為、流永と老人が中に入らない限り進まない。
「ああ、わりィわりィ」
と、門番はその同僚に片手で謝ると、流永と老人を中に入れた。
去り際、門番はボウズ元気でやれよ、と手を振ってくれた。
遠目から見て小さな街と思ったが、中に入ってみると意外に広い。道の両脇には店々が立ち並び、あちらこちらから喧騒が響いている。
「へぇ」
流永は子供のような(実際身体は九歳)無邪気な笑みをした。
「じいさん金!」
唐突すぎる。
「……」
老人はあきれた。かわいい顔をすると思ったら、いきなり「金」だ。
「金をどうするつもりじゃ?」
老人は鷹揚に聞き返した。
「使うに決まってるでしょう」
どうも老人が聞きたいこととは、ずれている。
「何に使うつもりじゃ?」
「なんか食いたい」
流永は腹をさすってみせた。
確かに朝食はここで食べるといった。しかし、だからといっていきなり金はないだろう。
だが、何かを買うには金がいる。流永にとっては唐突でもなんでもなく、当然の帰結であった。
老人は仕方なく懐から財布を取り出し、流永に銅貨十枚を渡した。
流永は「わーい」と喜んで軒並ぶ店に走って行ったが、どういうわけかすぐに老人の元に戻ってきた。
「どうした?」
流永は、来て、とだけ言って、老人の手を引いて店の前まで来させた。
「あれ、いくら?」
値段がわからなかったらしい。
龍の血を飲んでダウンしている二日間、流永はただ寝転んでいただけでなく、老人か文字や数字を習っていたため、簡単な数字や文章は読めたが、この世界の金勘定の仕方は分からない。
「これは10フラックじゃな」
フラックとはこの国の貨幣の単位らしい。
「どのくらい?」
流永は手元の銅貨を老人に見せた。
老人は流永に貨幣の説明をしてやった。
「大きい銅貨と小さい銅貨があるじゃろう?」
「あるね」
流永の手元には大きい銅貨と小さい銅貨がある。
「小さい方は一フラク、大きい方は五フラクとなる。他に銀貨、金貨、白金貨とあるが、それは後でも良いじゃろう」
「フラックじゃないの?」
先程、老人はフラックと貨幣の単位を呼んでいたじゃないか、と流永は疑問に思った。
「フラクの方が言い易いからの、普通は略して言う」
「ほう」
納得した。
「なら大きいやつ二枚でいいってこと?」
「そうじゃな」
流永は店の人に大きい銅貨——五銅貨——二枚を渡して目当てのものを買った。
「川魚の塩焼きか」
「うん」
川魚は口から木の細い棒で貫かれており、片方は取手になっている。
前の世界の頃、観光名所の川の近くで売っていた鮎の塩焼きを思い出した。
流永は懐かしみながら、その魚の塩焼きを食べつつ歩いた。
流永と老人は街の中心に着いた。
ここは門前の賑わい以上で、河に沿って道が両端にあり、左右共に店々が尽きることなく並んでいる。
人通りも波のようで尽きることを知らない。
街の中心部は大きな道が川沿いの道に十字状に交差し、河には幅十メートルはあろう巨大な石橋が掛かっていて、広場のようになっている。
老人はその橋の一角に置かれていたベンチにどかっと座った。
「わしはここにおるから自由に回ってこい」
と、老人は流永に銅貨の入った巾着袋を手渡した。
「うん」
流永は巾着袋を受け取ると、風を切るように店の方へ走って行ってしまった。
他の街ならいざ知らず、この街は治安がよく、人攫いなど滅多にない。老人は流永本人に多少の危なっかしさを覚えつつも、安心して流永を見送った。
「元気じゃな」
老人は昔を懐かしむような目をした。