第五十二部 お節介な子
その後、流永は副長さんの所を辞し、ふらふらと、あてもなく歩いた。
まだ陽は高く、少し散歩してから帰ろうと思った。
流永は、おぼつかない足取りで歩きつつ、副長さんの部屋でのことを思い出している。
(変わった奴だったなぁ)
ジャックのことである。
副長さんを崇敬しているようであった。
それなら、流永も副長さんのことを慕っており、若干似てなくもない。
ただ、流永のそれは、子供が母親に持つ全幅の信頼に似るのに対し、彼が持つそれは、ひたすら神の教えに殉ずる信者にみえた。
それはさておき。
流永は左手に円形闘技場を見て、歩く。
確かエードが、闘技場の名前を言っていたはずだが、流永はもう忘れてしまっていた。
(どこ行こう)
白雲浮かぶ空を眺めつつ、考えている。
なんだか一句できそうである。
「白雲よ……おわッ!?」
——ドンッ
と、流永の肩と通行人の男と肩がぶつかってしまった。
流永はその場に転び、もう片方のぶつかった方は、数歩前によろけた。
その通行人は体勢を立て直すなり、流永のことを眼光光らせて睨み、
「貴様ッ、無礼だぞ!」
と、叫んだ。
一方流永は、いきなりなんだ、と尻もちをついた状態で、彼の顔を見た。
彼の頭は、髪の毛がそそり立ち、それはまるで、
「目の前に、喧しい口、鳥頭」
のようであった。
一句つくろうとしたときの余韻が残っていた。
ただ、これでは川柳である。
と、それはともかく。
「誰が鳥頭じゃ!」
鳥頭は怒り心頭、足を振り上げ、流永の身体を蹴り上げた。
流永は、ごろんと後ろは倒れたが、元々座ったままだったので、大したものじゃない。
彼は、この鳥頭と喧嘩する気が起きず、なされるがまま、呆けた面をしていた。
「このッ…!」
鳥頭は、再度、起き上がった流永を蹴りつけようとして——
「やめなさいッ!」
よく透る女の声がしたかと思えば、ドウッ、と旋風と共に人影一つ、鳥頭はその人影に強烈な飛び蹴りを受け、横へすっ飛んだ。
(なんだ、なんだ)
流永は目を輝かせた。
もう面白くなってきている。
先程まで鳥頭が立っていた場所に、人影の正体である娘が立った。
流永より少し上、十八九くらいだろう。
身長は百七十くらい、黄色に近い茶髪を頭の後ろで結び、切れ長の目で、利発そうな顔をしていた。
その娘は、鳥頭を、きっ、と睨んだ後、流永の方に目線を向けた。
「ごめんなさい。怪我はない?」
「だいじょぶです」
流永は一人で立ち上がった。
彼女の服装は華美とはいえないものの、一目で上等なものだとわかり、おそらく貴族階級の者であろう。
流永は、物腰が低くなることはないが、かといって無礼な態度もしない。
わざわざ、自分から諍いを起こす気はない。
まあ、舐められたら喧嘩腰になることもあるが。
「本当に?」
と、貴族らしい娘は、流永を心配するように見た。
流永は黙然。
流永も、転んだだけです、と断ればいいものを、腑抜けた面を晒して黙っている。
口を開いて断るのが面倒だった。
ひどい不精者だ。
やがて、
「ああッ。肘が擦り切れてるじゃない!」
と、娘は驚いて言った。
流永は、彼女に指された右肘を上げ、自分でも見てみると、確かに服が擦れ、その辺りが微かに赤くにじんでいた。
「服も破れて……」
娘は深刻そうな顔をした。
流永にとっては、ただの擦り傷だし、服もまた買い直せばよく、特に気にすることでもないのだが、やはり口が開くのが面倒なようで、黙ったままである。
「とにかく、手当てしてあげる。こっちに来なさい!」
娘は、一人合点で流永の手を引いた。
急なことに流永は戸惑い、首を傾げて困ったように笑った。
ただ、何を思ってか、依然黙ったままだ。
——おい
ふと、流永の左手、人混みの向こうから声がした。
流永と娘は声がした方へ、一様に視線を移した。
そこには、娘と同じ十八くらいの男が立っていた。
(わあ、イケメンだ)
流永は目を瞠った。
黒に近い赤茶の髪、目つきが刃のように鋭く、左目には眼帯をしている。
端正な顔立ちをしており、ジャンと同じ気品を感じられた。
そして、その男の周りには、同じく娘と同年代くらいの男三人、女一人が控えていた。
「どうした」
その赤茶髪の男が尋ねた。
娘は、流永の腕を掴んだまま、
「聞いてくださいッ。また、エルランが平民に乱暴を!」
「そうか」
赤茶髪は流永の方を向き、直立したまま目を閉じ、
「すまなかった」
と、無愛想に謝った。
流永はニコニコ黙っている。
「エルラン、来なさいッ」
娘は、裂くような声音で鳥頭を呼んだ。
エルランと呼ばれた鳥頭は、とっくに起き上がっていたが、流永たちの視界の外で縮こまっていた。
それは娘との力関係による恐怖か、それとも階級が彼女の方が上であるのか。
ともかく、エルランは小さくなって、流永たちの所へ近づいてきた。
「ほら、謝りなさいッ」
と、娘は、エルランを流永と向かい合わせにさせ、バンッと背中を叩いた。
当のエルランは口を曲げ、不満気だが、彼女を怖れているようで、目を逸らし、不承不承、
「どうも、すみませんでした……」
と謝った。
「うん」
流永はこっくり頷いただけ。
どうにも人並みの辞儀ができない。
「さて、手当てよ、手当てッ」
エルランの謝罪が終わると、娘は流永の手を引っ張って道脇へ連れて行き、怪我した方の腕を出させた。
服の袖をまくらせると、彼女は傷ついた部分を覆うように掌をかざし、「雨水の加護よあれ、レイン」と水の魔法を小さく唱え、傷口を洗った。
娘は赤茶髪と共にいた少女を指し、
「シャル、包帯持ってたでしょ、貸して」
「……あ、はい。どうぞ」
と、シャルと呼ばれた彼女は、肩からかけている大きなカバンを、ごそごそと探し、包帯を取り出した。
娘は、包帯を受け取ると、手際よく流永の腕に巻き始めた。
流永はその様子を見ている。
「大袈裟ですよ」
「いえ、小さな傷でも、膿めば大変でしょう?」
「唾つけとけば治るよ」
「わがまま言わないのッ」
相当お節介な性格をしている。
また、それはそれとして、流永は敬語を使うのか、使わないのか。
やがて、流永の腕に綺麗に包帯が巻かれた。
「これで、よしっ」
流永は、包帯が巻かれた腕を曲げてみた。
「あまり曲げないでね。包帯がとれちゃう」
「うん」
流永は、腕を曲げるのを止め、素直に従った。
「あ、背中が汚れてるじゃない」
と、彼女は流永の背中を払って埃を落としてくれた。
「なんだか、弟を世話してるみたい」
彼女は、やれやれ、とため息を吐いた。
「そうかな」
「そう。君は手が掛かるよ」
「そりゃ大変だ」
流永はおどけた調子で言った。
まるで他人事である。
これには、娘も思わず、あははっ、と笑ってしまった。
やがて、
「そろそろ行くか」
「そうだね」
赤茶髪の言葉に、娘は頷いた。
「それじゃあ、私たちはこれでッ。じゃあね!」
「うん」
流永は顔の横で手を振った。
陽が高い。
今はもう、春も闌けてきている。
頭上の建物、街路樹のそこここから、小鳥の、か弱くも生命力を感じさせる鳴き声が聞こえた。
流永は、彼女等と別れた後、しばらく街を散策してから、ジャンの邸宅に帰った。




