第三十五部 訪問者
今日は日曜日、休みである。
と、いって流永は外に出て誰かと遊ぶわけでもなく、街で買った本を読んでいた。
彼はこの世界の文字は書けないが、どういうわけか読むことはできる。
文字を完璧に理解せずとも文字を一切理解していないわけではないし、なによりその類稀な直感力で、細々とした意味はわからずとも、だいたいの内容は理解できた。
流永の読了速度は速い。
前の世界では同じ分量でも、もう少しかかったがこの世界ではなんとなくで読んでいるためか、だいたい分かればいいだろう、とパラパラとページをめくっていく。
ちなみにこの世界ではまだ印刷術が確立されておらず、本一冊に金貨数枚〜数十枚、下手すれば百枚とくだらない代物もある。(目安として、五銅貨二百枚で一銀貨、金貨はその時の相場によるが、おおよそ銀貨百枚で一金貨となる)
流永が現在読んでいる本は金貨九枚の値がした。
題名は丘陵軍記、神とジファクト率いる魔術側の七度の大戦のうち一度目の戦争を記したものである。
大戦当初、神陣営は今まで人間を無視し、奴隷扱いしてきたことを詫び、人間にも魔法を公平に与え、奴隷制を全廃すると誓った。
そして、その証拠としてエルフの国の領土の一部を割譲し、人間によって構成された亡命政府を樹立させた。しかし、その経緯からしてエルフの傀儡国にならざるを得ないだろう。
著作者はその亡命政府の神官長であったルルウェ・カンラという人物で、エルフ語、ドワーフ語にも通じた優秀な人物だったらしい。
この書物は、史料編五十七冊、大戦前後の状況も記した歴史編八十三冊、魔術陣営の風俗編一冊、神陣営の風俗編二冊であり、合計でなんと百四十五冊という大部である。
流永が読んでいるのは、歴史書で、すでに三巻目に手をつけている。
そして、三巻目の半ばまで読んだところで腹が空いてきた。
窓を開け、そこから首を出すと日差しが目にささるように痛い。
雲がひとすじ流れている。
流永は首を引っ込め、キッチンへ向かった。そこから以前買っておいたパン、牛乳、干し肉を取り出した。
今日の昼食である。
質素かもしれないが、この世界の家庭はどこもこんなものである。
街の賑わいは昼時というこももあって最高潮に達しており、その喧騒が窓を通して流永の家の中にまで響いてくる。
と、流永が昼食を食べている時、この街を訪ねる者一人。
その者は、小柄で、子供のようだ。
麻のマントを着ている。目深にフードを被っており、顔はよく見えない。
不意に現れたこの小さな訪問客に、衛兵達は顔を見合わせた。
「なぜこの街に?」
「父親の友人に会うために来ました」
少女の声だ。
身長でいうとかなり小さい。
流永がこの世界に初めてやってきた時、縮んでいた当時の彼の身長よりも小さいかもしれない。
衛兵達も数年前の流永のことを思い出した。
「ここには一人で来たのかい?」
少女はかぶりをふった。
「いえ、ここまで送ってもらった方がいまして……」
「その人は?」
「もう帰ってしまったと思います」
衛兵達は再び顔を見合わせた。
付き添い人はいたそうだが、子供一人で来るなんてそうそうない。
しかし、少女の持っていた手形はきちんとした物である。
衛兵はしばらく少女と手形に交互に目線を動かしていたが、害意は見られないことから通行を許可した。
「ありがとうございます」
少女はぺこりと頭を下げ、街の中に入った。
丁度、流永が昼食を食べ終えた頃だろうか。
先程見えたひとすじの雲は風に流れてしまったのか、天は雲一つない快晴である。
——すみません
突然鳴ったノックの音が、春の陽気にまどろんでいた流永を醒ました。
「はいはい」
誰だろうか。
妙に若々しい声だった。
(間違いか)
そう流永は決めつけた。
現在、彼の家の所在を知っているのは、老人とその友人である小さい老人の他はいないはずである。どちらも歳相応にしわがれた声で若々しい声など持っていない。
流永は、この訪問者家を間違えている、と決めてかかり、ドアを開けた。
訪ねる家間違ってますよ、と言おうとした時、
「あ、あの。ここはイバさんのお家であっているでしょうかッ」
と、訪問者の少々うわずった声が聞こえた。
ドアを開けた先に立っていたのは十一歳くらいの少女。
フードを被っており顔はよく見えないが、若干のぞかせるその風貌は、とんと見覚えがない。
流永は、イバという別人物のことと間違えているのか、と思い反問した。
「………伊庭流永?」
だが、少女の口から次に出てきた言葉は彼の予想とは反対の言葉であった。
「あ……はい。そうです」
少女は頷いて肯定したのだ。
流永は唐突の出来事に顔をしかめて沈黙してしまった。
「あ、あの——……」
「………」
流永は顔をしかめ、黙然として少女を睨みつけるように見ている。
(……誰だ?)
考える時の流永の癖で、一点を見つめて微動だにしない。
「あの——」
少女は声をかけるが、流永は目線を動かさず、より深く、顔をしかめた。
自分の名前を知る彼女が何者か、ということを考えている。
流永の頭の中では様々な可能性が浮かび、それら全てが妥当ではない、と消えていった。
(誰だろうか)
それは目の前の少女に尋ねれば解決するはずなのだが不思議なことに、誰なのか、と少女に訊くことはない。
無邪気な時ならともかく、深沈とした時の流永は、殻に閉じこもったように一人で考えこんでしまう。
少女の声は流永に届いていない様子である。
流永はその性格故か、自分を理解できるのは自分だけだ、という孤独な信仰を持っており、同時に己の思考も相手にはわからないだろうと無意識のうちに決めつけてしまっていた。
「………」
彼は依然、凝然として少女を見つめている。
少女はもの言わない流永に戸惑っていたが、
「あ、そうだ。これッ」
と、何やら渡すものがあることを思い出したらしく、ポケットから取り出した封筒一枚を、ぐっと小さい背をせいいっぱい伸ばして流永へ差し出した。
「……?」
流永はそれを受け取り、封をきった。
中には手紙が一葉。
文飾といったものはなく、そこに書かれた文字は必要なことのみを記していた。
合理性の塊のような手紙だが、流永はその手紙を読み終わると顔をしかめ、思わず右掌を口にあてた。
(まさか)
内心驚愕している。
しかし、表情は先程の渋顔のまま変わらない。
「………」
流永は目を見開いたり、すぼめたり、と動かして落ち着きがない。
手紙の末尾には差出人の名前が書かれていた。
(ログライツ……)
と、流永はその名を、まるでうらんでいるかの如く心の中で唱えた。
今、目の前にいる少女をここまで送ったのはあのログライツらしい。いや、それどころか、目の前の少女はログライツの実の娘であるという。
あの男は——いったいどういう思考でその考えに至ったのかはわからないが——実の娘を流永に預けると言いたいらしい。
我が娘を頼む、とあるのだ。
しかし、何故敵であったはずの流永に娘を渡す。なぜ己の娘を手元に置かず手放す。
(なんで?おかしいだろ)
流永は舌打ちをうった。
手紙には、俺の周りの情勢が危なくなってきたからその間娘を預かっておいてくれ、とある。
「………」
情勢が危ない、というのはわかる。
ログライツはこの国の南部にある反政府寄りの組織、三集会の幹部であり、つい先程まで、罪人として捕まっていた。
彼の見立てでは、近いうちに三集会と王国の間で何かしらあるということだろう。
対立が深刻になれば国軍が動く場合もあるだろうし、国内は混乱の真っ只中となってしまう。
そうなれば、ログライツは自分の娘を守りきれないと思ったのだろうか、それとも幹部として娘がいると仕事がしにくいということだろうか。
まあ、それはいい。
この国の情勢があやしいということは、流永も老人から聞かされていたことで、特に驚くことはない。
問題は手紙の後半である。
何故、一度会ったきり、しかも敵対した人物に娘をやるのか。
父親に嫌われているのか、と思ったが、彼が本当に嫌っているのなら、情勢が危ないから娘を預ける、なんていわないだろう。文面から察して、むしろ娘のことを心配してのことだと思うが、なぜ流永なのか。
流永はログライツとそれなりに闘ったとはいえ、身分はただの一学生である。その背後にはどんな肩書きもない。
流永は手紙に顔を落としたまま、蝋で固められたように動かない。
なおも考えている。
驚くことに、流永は一時間もの間、直立不動で手紙と向き合っていた。
ふと、流永は目が疲れたのか、しばしばと瞼をまたたかせ、顔を上げた。
「………」
流永の目に街路をゆく人々の黒い影がうつった。
その影は生々しさ帯び、太陽の許、異様な程にぎにぎしく蠢いていた。
(……ああ)
流永はその影に呑み込まれてしまう思いがし、一転、はっと現実に引き戻される感覚がした。
深沈と考えるよりも重要なことが目の前にあるではないか。
(とにかく今は……)
ログライツの思考云々は後で考えればいい。
流永は街路から目を離し、顔を少し下げた。
相変わらずフードで顔はよく見えないが、あの男が父親とは思えないほど整った顔つきをしているように思える。
髪は短いが、ほとんど白に近い、しかし明確に金色とわかる、透けるよな美しさをもっている。
「………」
その少女は、流永が沈黙してしまったので、手持ち無沙汰に俯いて手指をくるくると絡ませて遊んでいた。
はじめ、彼女は何度か流永に声をかけたのだが、流永が一向に返事をしないため諦めてしまったようだ。
ようやくその流永が動いた。
「お前さんはログライツの娘?」
「………え?……あ、はい。リーウィアと申します」
少女は、あたふたと慌てながら自己紹介をした。
流永は好意的な微笑を彼女に向けた。
あの男が娘をここに送ってきた理由はどうあれ、手紙を読み終わった時には、流永の胎は決まっている。
「じゃあ、上がりな」
と、流永は少女……リーウィアに家の中に入るようさし招いた。
「しばらく預かってやる」
流永は街路の方を向き、誰に言うともなしに呟いた。
娘を一度会ったきりの男にやるログライツがおかしければ、また流永も罪人の娘を預かる分、おかしな男だった。




