第十部 老人の家に戻り
前に老人がいっていた通り、今は春の明け始めのようで、早朝の間はひどく寒風が吹く。日が登り始める頃である。
流永は身震いをした。
老人がくれた服は上下共に薄い布でつくられており、この寒空の下では服の意味を為さない。
昨日は歩き疲れ食べ疲れで早くに寝てしまい、未だ老人も起きぬ時間に起床してしまったのだ。
流永は一瞬眉をひそめ、天を仰いだ。
「爺さん!」
流永は老人の迷惑も考えずに老人を叩き起こした。
老人は目を細めながら嫌そうに流永を見たが、流永に家から出され、無理矢理火をおこさせられた。
「いやぁ…、あったかいあったかい」
流永は焚き火の前に蹲って顔を溶かしている。
老人は無理に起こされ疲労感のある顔をしているが、文句は言わない。言っても無駄だと思っているのだろう。
それに、流永の柔らかな表情を見ていると文句を言う気にもなれなかった。
流永と老人はそのまま早い朝食を取った。
配膳、片付けは老人がする。流永は一切手伝わない。
老人は少しは手伝ったらどうだ、と聞いてみたが、流永は笑顔で、老人がやってよ、と屈託のない笑顔でいった。憎めないものだ。
これ以上手伝えとはいえなかった。
やがて老人は食器類の片付けを終えたが、体感まだ寒い。
手拭いで濡れた手を乾かしながら焚き火の所へ戻ると、
__春風や嗚呼寒きかなこの天下__
と流永は肌寒い風に身を委ねながら一句読んでいた。
「なんじゃそれは」
老人当然ながら疑問に思った。ここには俳句や川柳などは無い。
流永はにやにや笑みを浮かべただけで黙っていた。
彼からすれば、春だが寒さはまだ残っていることと、自分が独り身でこの異世界に投げ出されたことをかけているつもりだ。
流永に俳句の教養などない、読むこともまずない。ただ時々読むだけだ。
「なんじゃそれは?」
老人は何度か流永に訊いてみたが、流永は笑っているだけでついに要領を得ないままだった。
その後、流永は老人より毎日の習慣となっているこの世界の文字を学んだ。
ちなみに学習場所は外でする。
始めは家の中だったのだが、薄暗いし風が留まるからやだ、と流永が駄々をこねた為屋外となった。
ようやく日が照り始めてきた。
それと同時に春らしい陽気が身体をすり抜けていく。
勉強を始めて三時間経っただろうか。流永は地面に寝転んだ。
家の周りは程よく刈り取られているので天然の芝生となっていて、寝転ぶと草の感触や土の感触が心地いい。
「まだ途中だぞ」
と老人は言わない。流永は理解力はある。ただそれは流永にやる気がある時だけで、やりたくなくなると、その理解力は地に落ちる。
運動のようなものだ。始めは意気揚々と動くのだが、次第に呼吸が乱れていく。
つまり脳に疲労が溜まっていき、最後に動くのをやめてしまう。
もちろん本当に動くのをやめるわけではなく、思考や理解の幅が狭くなるという意味だ。
そのことを老人は知り、流永が疲れたといったら、その日は文字の勉強をすることはなかった。
「今日はこれで止めじゃな」
老人は草原に気持ちよさそうに寝転んでいる流永を見やった。
「それなら次は魔術の特訓かの」
「ホウ!」
流永は飛び起きた。
「魔術ってどうやって使うの⁉︎」
流永は老人の言おうとしていたことを一回り先にいった。
老人は流永の怒涛の勢いに多少押され気味だったが、すぐに姿勢を直して、
「まずは詠唱からかの」
といった。




