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他サイトにも重複投稿。
(株)三上人材派遣会社 広報担当:左松直老「この前書きおよび本文はフィクションです。実在の人物、団体、国家とは一切関係有りません」
お願い:誤字、脱字がありましたら報告頂ければ幸いです。
注意:改稿版です。元の話とは話の流れは変わっていないです。
若干グロいけど18Gを付けるべきか迷う。
問題があれば付けようと思います。
個人的には問題ない範囲だと思っております。
「もぬけの殻か。いいや、さしずめ間抜けの空だ」
「……」
真っ暗な室内に、蠢く黒い物体。それを人間だと視覚で捉えられるモノが居たとすれば、そこにいる彼等の用いる装備を鼻で笑うだろう。
熱感知式暗視装置。
物体より放出された赤外線を受容し、白と黒の濃淡で、暗黒の中ですら視覚情報を装備者へ与える。
しかしこの装備は現代科学の粋を集めたもので、簡単に手に入る代物ではない。与えられるのは官庁の所管する機関であり、個人や企業が容易に手に出来る物ではなく、彼等の居る場所は一企業の一室に過ぎない。一民間企業の部屋に特殊な装備を用いて深夜に侵入している時点で不審極まりない行為だが、それが職務上必須であり正当なモノだと証明できるなら話は別である。
政府からこの企業の実態を聞いた時、男は耳を疑った。
『非営利民間軍事企業』
バカバカしい。実に意味不明な文字の羅列である。好きこのんで戦場で死にゆく人材を貸し出すというのだ。それも利潤追求するような営利目的ではなく、最低限の諸経費代を工面さえすれば暗殺すら請け負うという。
そんなものをこの国が『許容する』などと、夢にも思わなかった。そもそも自分達が行ってきた行為全てが『知られざる悪を根絶する戦い』であったにも関わらず、『殺人』すら許容する特別企業を容認するというのだ。
政治家達はその企業を『便利に』ご利用するのだろう。
だとすれば彼等に理解させるしかない。今まで国家の安寧を保って来たのは誰なのか、これから安全を守っていくのは誰なのか、今まさに縋る相手は誰なのか。
その企業を利用したい人間は山ほど居る。なにせ優秀なのだ。それは男が一番知っている。まず最も早く利用したのはその男であり、最も高い評価を与えたのはその男である。
そして最も憎んでいたのも、その『谷田喜十郎』であるのだから。
ただ、彼等の能力は明らかな枷の下に存在する。使えるのは一部の人間だけ、依頼がない限り殺人を許可されないこと、そして最も重要な事として『法的根拠』がないこと。
国民を守る為に創設された機関ではなく。法律を遵守、履行することで国家の擁護下にある一企業が通常の権利から逸脱した能力を有するのはあり得てはならないのだから、表立って企業側が正当性を主張することは出来ない。その正当性を証明することが出来ない機関を一部の人間が『私利私欲』の為に用いた『事実』は国民の目にどう映るのだろうか。
楽しみで仕方がない。
入るのに時間は掛からなかった。
登記上、ビルそのものを所有していて、四階から六階までを三上人材派遣会社が占めている。一階から三階までは多数の中小企業が入っていたがそのどれも午後九時には社屋から従業員達は出て行った様だった。警備会社の巡回ルートと常駐する警備員達の行動は一ヶ月前から内偵を済ませており、潰すための準備などとうに済んでいる。
そも使い捨てをするための足かけに過ぎない集団であって、自分の経歴に関わり合い等という汚点を許すわけにはいかない。
電子鍵、警備会社報知機能付きの企業としてはありふれた防犯警備敷設であり、何の変哲もない警備体制でしかなかった。本当に軍事企業だというのならば相応に高い警備、防犯体制になっているだろうと構えたがそうではなかった。
一階から三階までを階段で無視して上る。監視カメラなど欺瞞用のループ映像を流して、深夜に一昔前の映画を三、四本勤務中に見ているであろう怠惰な警備の人間の為に手間まで掛けてやったのだ。慢心に躍ることなく、職務に忠実な人間にも容赦などしない。
彼らの仕事があるように、我々には我々の仕事がある。
それは日頃顧みられる事などありはせず、日の目を見ることなく闇から闇へ消えて行く光明のない仕事である。だがそれでも本懐を成す為に粛々と任務をこなして行くことを国家から求められている。
そう、求められているからこそ公安という組織が有るのだから、その行動は国家への寄与に他ならない。
四階に着いて入り口の簡単な鍵をものの二分弱で開ける。音を立てずに開かれた扉をまた音も少なに足早に抜ける。四階の受付や応接室に用はない。内部から階段で五階に上がるものの、単なる事務所などに興味はない。普段出入りのある設備会社の従業員や出入りする派遣登録の従業員達も五階はくまなく知っていた。一般人が立ち入れるような場所には「民間軍事企業」であるという証拠など有るはずもない。
最初から目標は六階。社長室、社長応接室、社長室の前室、備品庫。
社長の居る六階に備品庫を設ける必要があるのか。来賓に備品庫等といういわば目について欲しくないような倉庫が社長室と同階にある必要性がない。従業員もわざわざ社長の目の届きそうな場所に備品庫が有れば気を遣い、また作業効率の面でも不都合極まりない。
無用である。その様な非効率極まりない職場環境など不自然極まりないのだ。
だからこそ目指したのは明らかに占有率の高い備品庫。ここまで無防備であからさまに怪しい場所を用意するというのは偽装を疑う余地が無いわけではないが、捜索で十分に物的証拠を得られるモノと考えた。
六階。一行は備品庫に入る。誰かが居るような気配はなく、また直近で誰かが居たような形跡もない。備品庫にあるのはラックに整然としたコピー用紙の束や蛍光管の予備、四階よりも下階の為の備品までも置いてある。登記上六階建ての建物自体を三上人材派遣会社が所有運営しており、賃料を得てもいる。各テナントの保守用品まで置いてあるとなると納得する備品庫の広さではあるものの、それでもここには違和感を禁じ得ない。
スチール製の無難な、どこにでも有るロッカーが壁際に数台並んでいて、簡易の鍵が付いている。普通、更衣室などに置いてあるようなロッカーが八台並んでいて、備品庫であるにもかかわらずご丁寧にも施錠されていた。施錠するには当然理由があるものだ。顎で指図して部下に鍵を開けさせる。そこにあったのは拳銃、自動小銃。他のロッカーも同様に開けると拳銃と短機関銃が安置されている。開けたが中の物には一切手を付けない。手にとって触る事はおろか、指一本さえ触れない。状況、そのものを記録する。やることはデジタルカメラで撮影し、現状を完全保存したままそっとロッカーを閉め、鍵を掛ける。
捜査令状を持っている訳ではないので違法捜査に違いないが『根拠の存在する暴力集団』の捜索であり、証拠隠滅を図られる可能性がある為、緊急で行った捜査である。
これに反証する事は誰にも出来ないだろう。
今ここには「誰も」居ないのだから当然である。
谷田は部下七名に撤収命令を下し、侵入の痕跡を残さずに社屋を出る。その装備は公安警察としての範疇を逸脱している程だった。
すべて谷田が揃えさせたものだが、民間の軍事企業として秘密裏に政府が認知している機関に対し、その捜査を通常の装備のまま行うなどと言う事は自殺行為に他ならず、無抵抗のまま社屋を明け渡された事は意外だったが捜査員と自分を守る為に対テロ用装備一式を投入した事実は谷田の、この企業に対する高い評価の裏返しである。
それほどの恐怖感を谷田はこの企業に抱いた。軍事企業と言うのだから恐らく社員は元軍人だろう。そんな人間を相手にするのだから恐怖感を抱くのは当然の用意である。
有る程度の訓練を受けたとはいえ、それは犯人を確保する為の捕縛術訓練が主であり、制圧、即応する為の訓練時間が軍人よりも長いわけではない。それに『実戦』で磨き上げられる感覚はどう足掻いても不足しているのだから。
平和ボケによって得られるものはそう多くない。
資本主義的な「無価値」であるモノに「評価」を与えて「金銭的価値」を付ける行為は合理性に欠ける。人間に必須ではないモノを誰かが莫大な金をかけて買うのだ。その金によって救われる命と、救われぬ命が世の中を混沌に供する。
相対して共産主義的理念は人間に均衡と平等を与えるが、生物として必須である競争力を失う。人間の欲求というシステムに対し、万人が平等というシステムは相反するのだ。その根本的な齟齬によって終着点は思想、理念の並列化だろう。
どの社会体制も全て欠陥を持っている。万全であるものなど一つもない。しかし、我が国民は何の外的脅威も知覚していない。いや、知ってはいるがそれを全て他人事のように傍観している。経済的外圧や思想的外圧、軍事的脅威、国際間権益。その全てにおいて国民は「国家」に責任を押し付けているだけだ。
民主主義国家として成立しているはずが、主権である国民がその権利の重きを知らない。
個人の利益追求を主眼に「国民の代表」が選出され、その「国民の代表」と国民の乖離を不満に思うだけだ。「誰」が『誰』を選んでいるのか、そしてそれを【誰】が理解しているのか。
今一度、その人間に本来担うべき危機感を再起させる必要がある。
十四人乗りのマイクロバス。それが街灯を厭うように暗闇の中に佇み、乗客を待っていた。「大平観光社」と古い字体で青い車体の横に白い文字でプリントされており、それは年季が入ったように所々ボロボロになっている。だがその塗装、プリント自体はつい数時間前に施されたものだった。
偽装された車両。そもそも小さな企業が立ち並ぶ場所のどこに観光する場所があるのか。場違い甚だしいが昨今では変わり種の旅行が流行っており、実際、この車に違和感を抱いても誰も興味を抱いて調べる人間はいない。
それに向かって一団が、六階建ての古めかしいコンクリートオフィスから人目に付かないよう現れた。
深夜三時。オフィス街には街灯以外に明かりは付いていない上、誰一人歩いては居なかった。ただ一人、真夏に真っ黒なロングコートを着た男を除いては。
「誰だ」
谷田、そして各捜査員は確信する。相手は手馴れた人間だという直感。八人もの武装した人間を相手にしても怖じることなく、マイクロバスの横に陣取った事がその根拠。
有る程度人払いを済ませた上での社屋への侵入だったが、まさか段取りを逆手に取られるとは思ってもみなかった。
全員手にしていた短機関銃を構え、男を取り囲む陣形に移る。熱感知式暗視装置をも装備している八人を相手に、一人黒いロングコートを着て装備が分からない程度では戦況的優位など確立できないはずである。
「私が誰かなど些末な問題だ。そうだろう、谷田喜十郎警視監」
男はそう言いながら、右の手で自分の左胸を軽く指をさす。
「……」
谷田、そして各員、気が付いた。左胸に赤い発光がある。照準されている。距離、位置が分からない。全ての照準は各員に対して一つであり、誰一人撃ち漏らさない事を誇示しており、同時に「捜査員の人数」を完璧に把握されていた事を示していた。
「谷田喜十郎警視監及び公安部各捜査員に対し、殺人及び殺人教唆の疑いがある。大人しく同行して貰おうか」
「断ったら」
「我々は裁量の自由を得ている」
「まさか」
交戦への抑止として照準されているわけではない。そう、男は言ったのだ。単純に、断れば命を奪うことも辞さないという姿勢。これほどの権限を得られる機関がこの国に存在しているのか疑問に思う。否、有り得ないはずだ。現に公安部の人間がここにいて、それと似たような行動を取ってこうして糾弾されているのだ。この男にだってその権限は存在しないはずである。
「有り得ない。法的根拠がお前達にも存在しないはずだ」
「貴様は根拠が無ければ存在できないのか」
寝苦しい夜だろう。深夜三時、熱帯夜に黒いロングコートを着て男は涼しげに言い放つ。
「……なにを――」
「根拠が無ければ貴様は存在できないのかと言った」
法の下に人間は平等である。そう、かの憲法は説いた。人間はその法を遵守するならば平等だと。だが実際に人間が平等である事はない。必ず人間は生物である限り不平等であり、法の下でも平等ではない。実際、法を作るのは利己的な人間でしかないからだ。
ならば、人間は何を根拠に生きているのか。
「下らない」
谷田はそう一笑に付す。
「それが解っているならば真っ当に生きるべきだったな。人間などその程度だ」
谷田は構えていた短機関銃を下ろし、無抵抗の意として両の手を挙げ――
「――っ」
炸裂音。谷田の左側頭部を八・五八ミリの弾丸が穿つ。その威力は人間の頭蓋が耐えきれるものではなく、谷田喜十郎の左側頭部から延髄を射貫き、右側頭部は放射状に粉砕した。
始終を目撃した人間は少なくない。黒いロングコートの男、男を取り囲んでいた谷田の部下達、その男達に照準し続けている黒いロングコートの男の部下達。
そして黒いロングコートの男は始終を見終わる寸前、身を翻し、谷田の部下達に背を向ける。次に男を襲うのは抗いようの無い鈍痛の雨。
無抵抗の意思を示したにも関わらず、公安捜査員の前で上司の頭右半分が吹き飛んだのだ。それを、眼前の男の仕業と瞬間的に判断しない道理はない。残された捜査員一同は生きる為に眼前の男を殺し、左方向からの狙撃に警戒しつつ遮蔽物に隠れて逃げるしかない。
だが公安捜査員達の判断は根本的に間違っていた。狙撃した人間は黒いロングコートの部下ではなく、警戒する方向も間違っている。
照準していた黒いロングコートの男の部下は公安捜査員達の発砲を目視し、男を守る為に発砲を開始する。その発砲には破裂するような発砲音を伴わず、減音減光されており発射位置を特定されにくく、ほぼ無抵抗のまま公安捜査員は全員弾丸に倒れ、沈黙した。
離れた位置から有る程度の安全確認作業に入る。その間、黒いロングコートの男はある人物に話しかけられた。
「アナタは軍人に向かないって言ったでしょう」
マークしていたはずの建物と、その隣の建物の暗がりから女性の声がする。
そちらの方に顔を向けるのが精一杯で、男はまともに身動きの出来る状態ではなかった。防弾用のケブラーベストを中に、ロングコートには厚さ五ミリの鉄板。それを装備していてなお、男の受けた衝撃はそこに跪かせるには有り余る力だった。
「……三上、大尉」
「元大尉よ。イトウリュウ中佐」
「……」
退役したはずの人間が、自衛軍諜報局に席を置く人間の階級を知っている。それもつい先日、男の部署が行動の権限を得たばかりであるのに、それを全て知っているかの様だった。
「どうして――」
「ここはワタシの会社だもの、居てもおかしくは無いでしょう。それにどうしてここに居るのか問われたらアナタと同じ理由だと答えるわ」
同じ理由。谷田喜十郎の逮捕、及びその犯罪を公にすること。
軍を退役した人間が?
一般の会社を起こした人間が?
いいや違う。この会社はあくまでもダミーだ。その実、この会社のあり方は男が目指した物に最も近い。伊藤龍中佐率いる諜報局内調部。その国内の諜報捜査部に唯一諜報局上部が『関わるな』と言った「三上人材派遣会社」の名。人材派遣会社がどうして不可侵なのか疑問に思ったが三上の名と、有る程度聞き及んだ業務内容からその実を理解していたし、なにより、
『こうなってしまっては我々の面目は無きに等しい…… 完全に後手に回っているが。それでも?』
誰の後手に回っているのか、今まさに理解した。
同じ軍部の人間が、誰よりも早く超法規的な諜報機関を作り上げただけだ。紆余曲折、権利や権益に翻弄され、歩んできたプロセスが違うだけで三上は男の目指したものを、誰よりも早く完成させていた。ただ、ただそれだけの事。
「どうして谷田を殺す必要が」
「正当性を守る為よ」
国家に寄与する事は人間に寄与することに違いない。いつの間にか誰かの思惑のまま人は人を傷つける事は少なくない。今回、三上人材派遣会社はその責任を取っただけ。
谷田は国民に対する啓蒙の為、個人の危機管理意識を再起させる為に犯人のない連続殺人を思いついた。結局それ全ては高級官僚である谷田自身の保身と権力の掌握に繋がる事であり、実質的に国家を掌握する為の反逆行為に違いなかったのだが。
思想的殺人犯が誰かに殺害されていた場合、疑われるのは誰か。思想的背景が不明瞭にも関わらず、それに敵対しうる人間を特定できるのか。傍観し続ける国民性を持ってすればその思想犯という人間の特異性は顕著になる。
テロ行為の被害者になる恐怖感を知らない国民。
保身の為に他者を信用しない、無能な政治家。
身動きを封じられ易い、序列社会の警察機関。
全ての状況は谷田に有利だった。
政治家同士のつぶし合いの為に政府容認の「軍事企業」は大いに役立った。直接邪魔な議員を始末したのは公安捜査員。その捜査員は谷田の思惑を知らぬまま、マインドコントロール下に置かれ、本来守るべき人間を射殺する事になった。
その捜査員自体、谷田に必要な人間ではなかった。故に思想犯の一味として「謎の殺人犯」である「軍事企業」に議員殺害を実行犯する捜査員達の殺害を依頼した。三上人材派遣会社には思想犯の所在を通達し「自由裁量」の下に彼等を始末して貰うだけ。既に事が成った後が依頼予定時間のため、議員暗殺後に所定の位置へ捜査員を配置しておいただけだ。もちろん一度撤収済みなのだから傍らに銃器の類はなく、身元は公安捜査員の為、暗殺の犯行現場に居ても不自然ではない。
刑事部の捜査権限は公安捜査員の身元特定をするだけの権限が無い為、単なる元自衛軍隊員や警察官として認識される。ここで重要なのが警視庁警備部所属として報告された人間はそれが事実だと言うこと。警備部は公安部と同じく秘匿性が高いが、公安部から情報をリークしておけばそれ以上の追求捜査はないだろうという判断。
刑事部の捜査能力を持ってしても犯人は浮かばない。当然だ、不法な殺人犯人はこの世に存在していないのだから。あの人材派遣会社に偽装した軍事企業は政府の後ろ盾を持っている為、犯行集団として挙がらない。
そして高級官僚としての能力と地位を活用し、警察内部からの情報操作も容易だった。
大規模捜査と、連日各種メディアで放送され続ける政治家暗殺の事件。
政治家も、国民も無能な通常捜査に辟易する。その期を逃さず、正義を全うした者が谷田の思い描く「秩序」になる。
「ワタシ達の存在は不確かなモノよ。正当性を声にして誰かに伝えることは許されない。だからこそ、ワタシ達は理念に基づき、行動をもって正当性を主張する」
利害の一致。それが谷田と三上人材派遣会社の関係性。存在感と必要性の顕示。それに対するプロセス、アプローチが違い、谷田は三上を、三上は谷田を邪魔に思った。
「これは守るモノを違えた事による結果よ」
「しかし、これでは谷田と――」
「アナタには、何が守れたの?」
伊藤龍の部下達には三上の姿が見えなかった。それなのに、龍は話し続ける事を止めず部下に近寄ることを許さなかった。伊藤龍中佐と三上代表取締役社長との距離は十二メートルほど。それが二人を隔てる壁の厚さでもある。
「……」
「アナタのその弱さが、守りたかったモノをここに導くことになったのよ。甘い考えも、中途半端な残忍さも、軍人には不向きなのよ」
最後に、その女性はこう付け加えた。
「谷田を撃った弾丸はアナタが持っていると良いわ。それはアナタが唯一守れたモノだから」
「――っ」
某日、深夜三時五十七分。誰も居ない、暗い道。
アスファルトには真鍮で覆われた大口径の弾丸が突き刺さっていた。
敗北とは認めたときに訪れる。
軍に入ってから上官に言われた言葉を思い出した。
雨あられの様に弾丸を、防弾仕様とはいえコート越しに受けたのだから容易に立ち上がることなど出来ない。単純に痛い事も確かだが、背中側からの痛みが引かない。
背中側の肋骨が耐えられずに折れたかヒビでも入ったのだろう。
雨降る泥の中、這いつくばった背中に一切の容赦なしに浴びせられたのはただただ、心に残る言葉だ。
まだだ。
今折れたか疑わしいのは肋骨程度だ。
両腕を折られ、ぬかるんだ地べたに顔を半分沈めて、側頭部を踏みつけられたままにそれを聞いた。ぬかるみに掛けられた体重の分だけ頭を沈め、鼻に泥水が入り込む不快感から首で何とか頭を上げて抵抗を試み、それを上官は感情なく足蹴にしてくる。
『死ねば負けだ。だが死よりも前に、己が認めた時に敗北はやってくる』
まだだ。まだ俺が負けて良い時ではない。
真夏の蒸し暑い時に、重く分厚いコートを着ている奇特性を許容しているのは単純に話し合いの場を持つことを主眼に置いていたからでしかない。
用心に用心を。本来、伊藤龍は谷田の前に出る必要性はない。この一連の事件を終わらせるだけという一点に限れば単純に谷田を排除してしまえばよかった。
今まさに大平観光社のバスに手を掛けて立ち上がる伊藤は手を当てた感触に違和感を覚えて目視する。小さな穴がいくつもの風穴をバスに開けていて、触れた手袋の糸がわずかにほつれた。弾丸を文字通りまき散らされてよくも己の身が無事だったものだと、幸運を嗤わずにはいられない。
俺が認めねば、これは敗北とは呼ばないのだ。
そう、
『こうなってしまっては我々の面目は無きに等しい…… 完全に後手に回っているが。それでも?』
その言葉には嘲りがあったのだ。『お前は敗北者の立場から始まるが、それでも』かと。
上官からの忠告であることは承知していたが、まさか先んじられている事までは伊藤龍には酌めなかった。
三上に一日の、いや、十数年の長を開けられていることは確かだ。
一日の長や数日、数年とは思わなかったのは【彼女】の存在を認識する事になったからだ。伊藤龍が「唯一守れた」モノなど一つしか思い浮かばない。
十七年前に数多くを失った彼が唯一守れたものだと言うのなら、それくらいの時間経過を同じくしていても不思議ではないからだ。
どこかで生きていることは知っていたし、なんなら先日その当人であろう【彼女】に出会った。それがどうだろう、その身元を確かにしているのは三上であると言う。
それも【彼女】の存在価値を知っていてここにいるのだ。
上官の言葉にはまだ伊藤を嗤う言葉が含まれていたのだと真に知ったのだ。
上官は「我々」などとわざわざ取ってつける必要はなかった言葉だ。本来正しい言葉をそこに宛がうならば「お前」という特定個人への侮蔑に他ならない。
なにせ【彼女】を伊藤が失うきっかけを作ったのは他でもない、上官。
松本卿一陸上自衛軍中将その人なのだから。そう、俺はもう負ける訳にはいかないのだ。
左手をバスに当ててよろよろと思い通りにならない足取りで伊藤は歩いてゆく。負っているのは見えない十字だろうか。八人の遺体を背に、自分たちがここまでやってきた車両まで戻る事にする。
遺体は警察に任せてしまえばよい。そもそも既に警視庁刑事部には谷田が一連の殺人を企てた人間だという情報を流しておいた。そしてこの遺体になった姿を引き渡せばよい。
当然、自営軍諜報局より正式な情報開示によるもので、市街地で「不法な武器の携行任務」を「正当な理由」により阻止した態を取る。
そもそも一人眼前に出て会話する必要性無く始末してしまうという意見の方が多数であった。数にして七対一。彼だけが、伊藤だけが谷田の前に立つことを頑なに主張したためである。
姿を見せることなく殺してしまった場合でも、谷田率いる公安の武装をそこら中に撃ち撒いて正当防衛の論拠を作り上げる事も可能であるし、最小限度の接触で済むはずだった。
それが、それが蓋を開けてみれば中には混沌が詰まっているではないか。
谷田は三上人材派遣会社への強行が一方的であると信じていたし、伊藤もまた谷田の公安部への優位は一方的であると思い込んでいた。
そのすべてを俯瞰していたのが、あの三上だったというだけの話だ。
諜報局としても三上人材派遣会社の本質を知りうる立場にはあるが、三上の行動がここまで早く、また直接的であるとは思ってもいなかったのだ。
三上愛花に与えられた役割とは民間企業を装った産学スパイの養成と運用である。その旨を聞き及んでいたに過ぎない伊藤からしてみれば、青天の霹靂と言っても過言ではない衝撃だった。
伊藤と同じく元諜報局に勤めていたあの三上が直接的な戦闘を選んでくるはずがなく、確実に逃げるであろうと踏んでこの場での谷田狩りを決断した。
それが完全に伊藤の想定を外した。まさか【彼女】を「使う」などとは夢にも思わなかったのだ。
伊藤の知る【彼女】とは珠であった。何物にも代え難い存在であると思っていたし、その思いも考えも、今も変わることはない。だが、同時に【彼女】が傍に居ることに耐えがたいという思いもある。故に伊藤は【彼女】を手放すとこになり、その【彼女】が行き着いた先は伊藤の元上司である三上の元だった。
別に三上の元に【彼女】が引き取られた事自体に伊藤としては不満はない。
そう、ただの人として、ただの娘として引き取られていたのならばそこに不満はない。
しかし、伊藤は聴いたのだ。『唯一守れたモノ』が弾丸であると。
三上はあの松本とは違うのだ。決別した二人であると心のどこかで思っていたし、その自身の思い込みを気が付かぬうちに信じていた。それが気が付いてみれば、目の前で頭部を喪失した男を撃ち抜いたのが、その『唯一守れたモノ』だと、そう言い放たれてしまった。
ならばその銃弾を撃ち込んできたのは【彼女】であろう。
バスに手を当てたまま立ちすくむ。守れたとはどういう意味であろうか。
結局、こちら側へ【彼女】を招いてしまったのではないか。
バスの側面に当てていた手を握りしめ、忌々しい心持をそこに叩きつける。
その音に驚いたのは控えていた伊藤の部下七名である。現場の保全と状況分析のために狙撃位置から降りてきた彼らは、無表情のままバスを殴りつける伊藤を見て足を止めた。
伊藤の部下たちは彼が怒る様を見たことがない。正確には伊藤龍という人間の感情は死んでいるのではないかと面白半分に会話中にも出たことがある程だ。そんな男が無表情だが確実に怒りに打ち震えている。谷田という政治、思想犯を眼前で撃ち殺された事に対する怒りなのだろうと彼らは受け取ったが。
「谷田の近くに谷田を撃ち抜いた弾丸がある。それは回収しておけ」
そう命令された一人が谷田の近くを探す。立っていた場所から頭部のおおよその位置を把握してなんとなしに路面をさらう様に探すとそれは存外早く見つかった。
男の持っていたライトの光で弾丸のわずかに出た尻の部分が真鍮の輝きを返し、男の目に留まった。
どうして伊藤は銃弾を探しておけなどと言ったのだろうか。そもそも頭部を破砕して突き抜けた弾丸が谷田の近くに都合よく着弾したなどとなぜ伊藤が分かったのだろうかと部下は不思議に思ったが、その時は上司の経験則によるものだろうとその時はそんな風に考えた。
指でつまんで引き抜くことも容易く、回収した弾丸は専用の袋に入れて諜報局に持ち帰ることにした。他六名も各々やることはある。一人は八名を載せてきた車両を取りに走り、残り五人もそれぞれ遺体を担ぎ上げて運び、全員を並べる。
諜報局が知っていた、又は知らなかった公安捜査員の顔があるかどうかを照合するために遺体を一体一体、手持ちの資料と突き合わせる作業も手分けして行われた。
時間にして十五分もかからずに照会を終え、所管警察へ通報する。当然、身分は諜報局として堂々と開示して連絡を入れた。
何かあるのか伊藤は部下に指示するだけで自分から連絡を取ることはなかった。現場に警察が到着した後も担当の上官としてただ淡々と経緯と状況の説明だけを行い、警察側の質問や疑問には「機密事項につきこれ以上の情報は開示できない」の一点張りで諜報局から一切の情報を与えなかった。
多少不満に思うこともあろうが、警察機構のこれまでの怠慢と内部の不正、また一連の事件の実行犯を生んだ事の負い目を認識したのか、刑事部の人間は苦々しい顔をしたまま案に納得したのだろう。
谷田の頭部を撃ち抜いた弾丸だけが見つからないだろうが、それは銃撃戦の中でどこに行ったか分からないと口裏を合わせておいた。そもそもそんなに簡単に弾丸など見つかるものでもない。単純に公安部と諜報局での撃ち合いの末に頭が吹き飛んだだけだと主張することになった。
なぜ伊藤が谷田を撃った人間が別にいる事を隠蔽するのだろうかと局員達は疑問に思ったものの、伊藤が暗がりの誰かと会話をしているらしい事は遠巻きながらに把握していたために、彼らの中では何らかの合意をその人物と得たのだろうと割り切った。
必要ならば伊藤が話すだろうし、知るべき人間と無知であるべき人間には明確な差と理由が存在することを彼らは知っていた。
それでもなお一人、純然たる疑問を伊藤にぶつけた人間がいたが。
高機動装甲車。市街地で走るには明らかに目立ち、諜報局員に与えられるべき車両とはとても思えないそれを運転しているのは最も遅く、この諜報局内調部に所属することになった男だ。
彼が使い走りの様にこの車両を現場に回してくることを求められたのは、単純に新入りであるからというだけの事ではない。警察関係者に彼を見られるということを伊藤が、そして彼自身が嫌ったためである。
その車の中で彼は考え事をしていた。
『なぜ谷田を殺害されてしまったにもかかわらず、伊藤はそれを許容しているのか』と。
暗がりに居た誰かと伊藤は会話をしていた事は居合わせた諜報局員全員が認識している。当然、彼らの上司である伊藤自身も局員全員が始終を認識していると知っているはずだ。
それに対する説明が一切なく、彼を、彼らをそれぞれ仕事に割り振った。
伊藤に自分たちは、いや、彼自身がまだ信用されていないのかと頭の中で渦巻いた。
そして高機動装甲車の中、全員を載せて撤収の折。
助手席に座る伊藤に向けて、彼の疑問が口を突いて出た。
「あの時、何があったんですか」
「何もない。もう、何も無くなった」