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他サイトにも重複投稿。
(株)三上人材派遣会社 広報担当:左松直老「この前書きおよび本文はフィクションです。実在の人物、団体、国家とは一切関係有りません」
お願い:誤字、脱字がありましたら報告頂ければ幸いです。
注意:改稿版です。元の話とは話の流れは変わっていないです。
若干グロいけど18Gを付けるべきか迷う。
問題があれば付けようと思います。
個人的には問題ない範囲だと思っております。
間接照明で艶やかになったカウンターの樫の木が、鏡面のように男の顔を映す。
薄暗いバーで誰もが囁くように会話する店内にて、彼は曇りきった顔で良くない酒を飲みながら、手慰みに赤銅色の古めかしいオイルライターを弄んでいた。耳に障らない程度の店内音楽もライターの開閉音が忌々しげにかき消している。
彼の周りだけ空間がまるで別世界であり、対面に寛容と諦観の面持ちに似た顔をしたマスターが事も無げにグラスを磨き、彼の俯いたつむじを眺めていた。
他に居る客はその一角だけを隔世のように他愛ない酒席に興じているが、そこだけはやはり空間ごと店にはあってはならない一席となっている。
その店はある男が贔屓にしていた店だ。男の職業は阿漕な商売であるといつか言っていた。職責のなんたるかは聞き及んだ程度の彼にはまだ解らないが上の人間や、下の人間と関わり合いになる時にその人となりを理解していなければ都合の上で不利益を被るとも、その男はここで言っていた。
忘れもしない。
男がその店を使うのは単純明快な理由で、部下の悩み事を聞き出すのに酒の力も必要だったからだ。本人は至って真面目な人間で、部下の悩みや愚痴を聞く事に専念し、落しどころを用意した上で解決策を共に模索する。ある種、皆と『同じ人間』であろうとした人が、よく使った場所。
それが今、彼が座る席で過去に男がそう接してくれたのだ。
その男に初めてここへ連れてこられた人間は、かならずその人を面白いと評価するだろう。
店に着いて早々、自分は「いつもの」と注文をするのだが、男の元には何の飲み物も出ては来ない。それとは代わりとばかりに部下に好きな酒を好きなだけ飲ませ、好きなだけ愚痴や悪口をも喋らせる。
全ては男の奢り。店は大声で怒鳴り散らすようなタチの悪い客など居らず、大衆向けの安酒を多売するような場所でもない。置いてある酒は銘柄に店主の粋が詰まっている。キープされたボトルにはそれぞれ個人名ではなく客番号が振られていて、個人情報の取り扱いにも細やかに応ずる様な店である。個別にとはいえ奢りとはそう安くない金払いだったろう。
始めのうちは上下関係に尻込みして当たり障りのない話だけをするものの、その男はその道のプロというのには差し支えのない人間だった。気がつけば気持ちよく誰の彼の嫌味や侮蔑をも男の前で披露していて、それに対して男は嫌な顔もせずただそれに倣うこともなく、話を聞いてくれた。
事の功罪はあろうが、男には必要な入信の儀だったのだろう。
その時間は掛け替えのないモノだ。その男と彼自身の共有する短時間は忘れ得ぬ、同じく阿漕な商売を志した人間としてその矜持を知り、手段を知るには言の葉を越えた教鞭者としての威風すら感じる。
皆、そうして男の術中にはまるのだ。
帰り際、その人は自分の弱点を言う。
『俺は酒が飲めないから、オレンジジュースだ』
薄暗くて何を飲んでいるか悟られないのがこの店、唯一の美点だと笑いながら言う。もちろん店主からすれば聞き捨てならないのだろうが、それも鼻で笑うように聞き流す辺り男と店主の関係も浅からぬものであると誰もが思い、その人に愛される姿もが何よりの忠信に繋がって行く。
誰もかもを愛し、誰にでも愛される。信心とは思い描く理想に抱くものではなく、それを謳う個人への憧憬にこそ抱かれるものであって、安直に誰も彼もが同じ方向に向かうこともない。それがどうだろう、その男には不思議と人を集め、同じ方向へ、同じ希望を抱かせる事に長けた男だった。
そんな、わざわざ行きつけのバーにオレンジジュースを置かせる様な男が、逝った。
ウィスキーを一つ空けて、グラスの中に渦巻いた私怨の宛先を煽るように飲んだ。
それを干した所で何も変わるわけではない。
飲み込んだ分だけ肺から息を深く吐き出して、まだ自分が事に直面して相応に傷つき、沈殿している様を思い知る。この先をどうするべきなのか、果たして先と呼べる己が望んだ結果にたどり着けるのだろうか。考えるだけで、彼は頭を抱えて苦悶するほか無い。
彼の悪態を見て、悪い酒には必ず悪運が付く。それだけ言って、マスターが男の前にオレンジ色の飲み物を差し出した。悪い酒を続けるのはやめるようにと。
三十年来、あの男にオレンジジュースを出し続けたマスターが、男の部下である彼に同じ物を用意した。
元々酒の飲めない男に対して、ボトル一本を空けた彼は世間で言うザルやウワバミの類ではない。単純に比して全く飲めなかったのが、あの男だ。
その男が亡くなった。
男の名は秋築昇。職業は警察官、階級は警視長。役職、警視庁刑事部部長。
敗北者たる彼、黒木秀司にはあまりにも重い人間の死を目の当たりにした。
その男には先頃までその双肩に苦渋の荷を乗せて彷徨う立場にあった。その先駆たる巡礼者が死んだのだ。先を見る丘の上に立つこともなく、断罪の槍に突かれることもなく。
秋築昇という人間は今まさに世を喧々囂々に陥れた国会議員殺害事件を捜査する特別捜査本部の長だったのだ。それが死亡し、上層からの圧力を一身に受けていた要を喪失したのである。公安部より集めた捜査資料を要求されたものの、奴らは特別捜査本部へ何の情報も与えず、礼も尽くさなかった。
そして秋築昇が亡くなったその同日。いや、それは日付を跨いですぐの事だった。後任が来たのだ。そう、亡くなってすぐに秋築昇の後任が。
元々秋築昇という傑が編み出した「特別捜査本部」という変則的な形態は他の警察官僚から見れば異常な状態そのものだった。上層部からみればその異形は早々に正されねばならぬ不祥に他ならない。だからこそ、その不可解な「特別捜査本部」は解散された。
何の説明もなく、唐突に。
刑事部には秋築昇警視長殺害の捜査すらも許されなかった。殺人は刑事部捜査一課の管轄範囲である。だがそれすらも許されなかった。理由は単純、身内に、刑事部に疑いの目が向けられたからだった。秋築昇の行動を把握していて、且つ犯人側と内通しているものが居るのではないかという可能性を指摘された為らしい。らしいというのは解散させられた後に刑事部内で方々噂話として流布するようになったからだ。
内情を犯人側に漏洩している人間が本当に居たとしたら。そういう疑心が生まれたのなら、誰もが誰もをその様な目で見合う。互いの行動の子細に気懸かりを覚え、身内で牽制し合うような、さもしい集団に成り下がった。
そんな場所で真っ当な捜査活動が継続できるはずはない。国会議員殺害容疑者、更にその近くで発見された狙撃者と思われる人間の殺害、秋築昇を高架下で殺害した者。更に外務省の官僚までも広域にわたって関連性を持つとして公安部に権限を委譲された。
外務官僚の死亡までも国会議員暗殺に関わり合いのある事件とされた事によって、当該事件に国外勢力の影がちらつき始めた為、隠れて個人的に捜査する事など不可能だった。
まず捜査を引き継いだ公安部の目が問題であること。彼らの捜査は徹底的に秘匿された状態で行われる事が殆どで、捜査中に辺りをうろつけば不利益であると判断されて警察庁から最悪、停職処分を下されかねない。
そして身内の中に内通者が居るのではないかという疑念も捜査員達の行動を大きく阻む要員となった。もし身内にいるのなら相手方に情報が筒抜けであると同時にカウンターを恐れて誰もが身動きが取れないのだ。殺されてしまうことが最悪の最後である。そして殺されずとも警察庁、公安部などに情報を漏らされることもあり得る為、見えぬ敵に完全に阻まれてしまった。
警視庁刑事部はこの一連の捜査から完全に排除される形となり、完全な敗北者と成り下がったのだ。刑事部という警視庁内でも高い権能を有する機関が身動きできぬ状況に属する誰もが、光明を失って死人のような無気力感にさいなまれている。
もちろん、秋築昇が殺害された事件に介入できない事も彼らの失望感をより一層引き立てる事となっていて、関連性のない暴行事件や傷害事件に関わり合いになる度、自分達の仕事が今一度どういうモノなのかと自問を繰り返すようになった。
事件との関わり合いを絶たれた次の日、刑事部から二人もの退職者が出た。それも今まさにカウンターでくだを巻いている彼と同じ警視庁刑事部捜査一課の人間である。彼は同じ場所でぐるぐると問答のふりをした優柔不断に苛立ちと後悔を繰り返す中、同僚はがんじがらめになった警察から外に出て行こうとしている。
二人は誰に何を言うことも無く退職願を届け出て、一ヶ月の引き継ぎ等猶予期間も殆どおかずに退職してしまった。
刑事部内では彼らは個人で秋築昇殺害事件を調べるのではないかと言う見立てが大勢であり、残された刑事部の人間達は二人をある種の羨望で見送った。彼らを誰もが羨望をもって送らざるを得ない状況には違いないが、前途を予見するに彼らの行動の先には多難であり、最悪を邪推するならば秋築昇と同じ末路を辿るかも知れない。
俯いたまま、黄色のグラスに映るうろんな顔を見る。そこに映るのは負け犬のそれだ。敗北者などと言う人としての矜持が保てているような顔などしてはいない。悔しさと虚しさに涙の一つでも流れたのなら人としての情動から敗北者たろうが、今の彼には涙を流すだけの余力など無い。生物としての敗北であり、悲しかろうとも生きるために涙を流さないのなら畜生と変わりないと、彼自身が思い至ったのだ。
確かに辞めるのなら今なのかも知れない。
或る夢を抱いたのは二十歳になった年。それまでは別の職業についていたが、まかり間違って地方公務員試験を受けて、警察官になった。それも十一年前の話であって、三十も過ぎてまだ夢見がちだったのかもしれないと、自嘲気味にオレンジジュースの自分が嗤う。
「ここではこんなものも出すのか」
カウンター席に座る惨めな男のせいで店内は陰鬱な色味を帯びてしまい、客は三人程度まで減って、空いている席は他にも幾らでも有るにも関わらず、その男は彼の隣に座り、彼の目の前にあったオレンジジュースを手に取った。
既にマスター共々、通夜の席に似た雰囲気で包まれていた空間に、人の悲悼の意を無碍にする人間が割り込むのは許せなかったが、何故かマスターはその男を一瞥するなりすぐに彼らの前から移動してしまった。
彼はマスターの方ばかり注視して隣に座った男の挙動を逐一把握していなかったが、内ポケットに何か収める動作を横目に見て何かを見せたのだと理解した。
カウンターに腕組みして顎を乗せていただらしない姿勢から上体を僅かばかりに伸ばして男の方を見、尋ねた。
「なんですか、あんた」
誰かと問い質したつもりだが、生憎と手合いは簡単に素性を語るような人間ではなかった。
「キミがこれを飲むのはまだ早いのではないか? 我々はりんごジュースを用意するが、いかがだろうか」
「なにを言って――」
「憧れだけで警察官になるものではない。憧れとは言わば願望に近いだけの幻想だ。思い描いたとおりに事が運ぶなら、この世界には秩序は不要だろう」
白髪の混じった四十過ぎくらいの男は、手にしたオレンジジュースを一気に飲み干し、こう付け加えた。
「警視庁刑事部部長、秋築昇警視長を殺害した真犯人を追いたいとは思わないか?」
オレンジジュースには氷が入っていない。薄れる事を嫌う人だったから。
「黒木秀司警部補」
だがグラスには、もう何もない。
何というか、まあ、年相応ではあるのかも知れない。そう思える自分には余裕があるのか、現実逃避という余力のない状況下なのか。フランツは暖色でまとめられた小綺麗な部屋で、己の居心地の悪さを覚えていた。
居心地の悪さにはいくつか理由がある。部屋の主である少女と現在二人きりであること、休みの日がこの少女と同じであったこと、休みの日だからと何故かほぼ無理矢理連れてこられたこと、連れてこられた理由が英語を教えろというなんとも学生らしい理由だったこと、更に一般人である彼女の友人達がこの後に来るという事を聞いていること。
現在フランツが腰を据えているのはハート型のクッションであり、実用性には乏しいような高反発力で、尻すら所在ないという事は完全にフランツの心理と体に揺さぶりをかけられているのだと若干焦り始めていた。
それを見抜かれたのか、彼女はこう言う。
「仕事の事は絶対に言わない。解ってる?」
おそらく既に七回か八回ほどその言葉を聞いた気がするが、首を縦に振る以外フランツに取れる行動はなかった。単純に断る理由がないという事もそうだ。自分自身、或る意味で社会的道義に触れるような仕事に就いているのだから自ら身分を開示する必要性など無い。それとは別に、彼女にこの場で逆らってどういう目に合うか解ったモノでないと言うことも断る理由にはなろうはずがない。
彼女は眉間に皺を寄せて、座ったフランツよりも高い位置から立ったまま威圧的に言い聞かせるのだが、そんな事にフランツは気を回せるだけの余裕など全くない。
仕事のことは言うなと言われたが、少女の、リュウの母親が経営している会社に勤めているフランツとしてはそう言うしかないし、その内容をどう上手くごまかすかはリュウと何一つ打ち合わせしていない。
この少女はとにかく自分が「あの仕事」に関わりない事を友人にアピールしたいらしいが、どういうわけか友人達から最も興味を持たれそうな「外国人」であるフランツのマネジメントを怠り、フランツはどう言い訳をしようか焦り始めていたのだった。
一応、表向きは人材派遣会社だから、フランス語と日本語の通訳で雇われていると言うことにすれば――フランツがそんなことを考えている間に、呼び鈴が鳴る。
女生徒のみの学校に通っているらしい事は前もって聞いていたので、学校の友人と言うことは同じ頃の少女だろうと推察しているのだが、正直リュウを見ていても「日本の一般的な少女」という漠然としたイメージには辿り着かず、どういう人間が来るのかそれはもう恐ろしい限りだった。
前もって聞き知っていた日本人女性という先入観は女帝とリュウによって既に粉みじんに破壊されていて、この先現れる日本人の女性とはどういう化け物なのかと不安で不安でしようがないのだ。
まあ、絶対に話が合わないだろう事だけはなんとなしに解る。
なぜならば、あの少女の「友人」だから。
「こんにち――あああっ! 外国人っ!」
家主の先導もなくいきなりリュウの部屋の扉を蹴破るように入ってきた、団子に髪を纏めた少女に指をさされて驚かれた。見るからに快活そうな少女で声もデカイ。肌も日に焼けていて、キャミゾールを着ている素肌から白と小麦のコントラストが見えて、外で何らかの運動でもしているのだろう。
「ほんとにいるっ!」
続けざまにそんな事を言われたが、外国の人間などそこら中に結構な数が訪れている国のはずだが、この少女は初めて見たと言わんばかりの驚き様だった。排外的な社会ではないようにフランツ自身この国を訪れて感じているが、どうにも「余所者的」な奇異の目で見られること自体はある。だからといって道ばたで罵詈を受けるなどと言うことはない。
そういうのもやはり日本人的感覚な冷静さが有るからかもしれない。
「ゆ、ゆびさしたら失礼だよ」
「あ、ああ。ド、ドウモ……」
もう一人、フランツを猛獣か何かだと思っているのか、やたらに警戒してよそよそしい少女が追従して入ってきた。最もフランツのイメージ的に日本人らしい少女だが、着ているTシャツに『死ぬほど愛して、抱いて』と英語で書かれているのが気になってしかたない。
そしてフランツはこの時、大きなミスをした。
日本語を喋るだけならばかなり上手い。むしろ長年住んでいるのではないかとよく言われる位には日本人の発音に近く、こちらに来て一度もアクサンの違いを指摘される事はなかった。しかし、リュウに彼女たちのことを紹介されるものだと思っていたので、先に知らない少女が部屋へ唐突に現れ、指をさしてまくしたてて来るとは思わなかった為に、フランツは動揺のあまりたどたどしい喋り方になってしまった。
「あれ、日本語上手なんじゃあ……」
すこし遅れてリュウが部屋に戻ってきた。どうやらお茶と菓子を持ってきた様だが、団子頭の少女の言葉を聞いて、半眼でフランツを睨みながらの入室である。
見えないところで行われたフランツ達のやり取りにどうもご立腹のようで、リュウに不都合な状況が生まれていないかとフランツに睨みを利かせて問い質す様な素振りだった。
それにリュウから見てフランツが状況に飲まれている事はあきらかで、そこからボロが出ないかと不安が外に出てしまったに過ぎない。
「……」
「ふ、フランス人にしては上手いでしょう?」
部屋へ入って二人に座るよう促した後、四人それぞれの前にお茶と菓子を置いて背の低い卓前にリュウも座る。セイザとやらで三人、少女達はさも当たり前のように座したが、フランツには考えられない。筋肉がついていて単純に座り辛いと言うこともあるが、あまりその姿勢で座る事を得意として居ない彼には彼女たちはどれだけ忍耐強いのだろうかと、三者それぞれの顔を見てみるが、どう考えても一人を除いて団子頭の少女とリュウは忍耐強そうには見えない。
「あ、ああ。そういう事ね。って、アメリカ人じゃないの?」
団子頭の少女がそう言って、フランツをじっと見つめる。彼女らの中でフランス人がどのような地位に居るのか知らないが、どうやらフランス人は上手く日本語を話してはいけないというのが共通認識のようである……フランスはジュドー等、日本から来たものがたくさんあるというのに意外と日本の一般市民は自分達の文化や芸術に関する知識や認識は浅かったり、無理解だったりとフランツからすれば不思議でしょうがない。
そしてちゃんと説明していなかったのか、おかしな勘違いまでされていた。
そもそも外国人と言えばアメリカ人限定なのか……
「英語も出来るらしいから良いじゃないどこの人でも」
じゃあ自分を呼ばないでくれと言いたい。いや、実際言ったのだ。
フランツ達の居る部署は「基本的に」暇だった。その為、休みは全員で一斉に取る。ただし、部長のヨシムラ氏はそれなりに忙しいので除外。他の人材として、ギアはコンピュータのパーツを買いに電気街へ出かける用事で本日は不在、もう一人、暇なのが居たのだが……
『あんな仏頂面で愛想のない人、友達に紹介出来る訳ないじゃない』との事で、結局選択の余地がなかったらしい。
件の本人たる「サイ」がこの場にいたのなら少女達の中で肩身の狭い思いをしたことだろうが、サイの事だ、気配を極力薄くして逃げたような気がする。
説明に不足が有りすぎる為、本来なら『外国人』である「元アメリカ国籍のギア」か「元アメリカ国籍の、仏頂面のサイ」に来て貰うのが妥当だろうと文句を言いたいが『英語の出来るフランス国籍の人』で妥協されたらしい。
楕円形の大きなテーブルに各人ノートや筆記用具を出して勉強を始める。
英語を教えろという漠然とした命令をされたが、それが筆記の方だとはフランツ自身、全く聞いていない。話す方ならば多国籍軍時代かなり日常的に使用していた事がある為、問題ないのだが、筆記の方は実際スペルミスが有っても多めに見てくれていたので、自分が人に教えられるほど上手ではない自信がある。
あらゆる意味で敵地に単身、放り出された状態と変わりない。
主戦場は楕円形のテーブル。彼女らの装備は――
「フランツさんだった?」
団子頭の少女、アキ・ヒビノと言うらしい少女が真正面に陣取って、真っ直ぐ面と向かって真剣な顔つきで語りかけてくる。本人は至って真面目なのだろうが、演技掛かっていておかしな行動以外のなにものでもない。
「え、ア、アア。ハイ」
最初にたどたどしい日本語を使ってしまったが故にフランツはごまかしに嘘を重ねて行くという愚行を続けてしまう。それ以外に取れる道は彼には思いつかず、またリュウからしても今更フランツが流暢に日本語を話しても違和感を二人に与えかねないため、こめかみに引きつるような感覚を覚えつつもそれを聞き流す。
「フランス人っぽく無い顔ですよね」
どういう顔がフランス人っぽいのだろうか、フランツは今更ながら自分の顔を触って確かめようか、と思うような質問に困惑する。西欧人ならどこの国にいても西欧人だと割り切ってくれるのだが、何故かそんな事を突っ込まれた。
「え、エエっと。ワタシハドイツ系なので……」
「はぁ? じゃあドイツ人じゃないの」
何を持ってドイツ人なのか、フランス人なのかと彼女に説明するのは難しいだろう。それはリュウも同じような難しさを感じているに違いない。
「え……」
「ドイツ系のフランス人だと思うよ、アキちゃん」
フランツに対して未だよそよそしい態度を崩さず、警戒している少女。ツクシ・イシカワがそれとなく助言をしてくれたのだが。
「系とかあるの? ダウナー系とか、ヒップホップ系とか……」
「それはない」
若干言葉を遮るように強い語調でアキの羅列する系統を一蹴してくれたものの、リュウはおかしな会話の流れに割って入る。理解力のあるツクシとリュウが居てフランツは何とか自分が正常である事に僅かばかりの安堵を覚えるがそれでも女性ばかり、それも年の離れた少女ばかりの空間ではやはり所在ない。
「じゃ、じゃあ。フランス人のドイツ系が日本語で英語系教えてくれるって事かっ!」
団子頭の少女の言っている言葉の意味がよく解らない……それが正しい日本語なのか、続けざまに他に二名の反応を見なければフランツには最適解かどうかなど永劫解らなかったかも知れない。
「……」
「な、なんか微妙に間違っている様な気がするよ。アキちゃん……」
フランツから見てテーブルの両脇に座る少女達がアキの顔を見てそれぞれ、溜め息を付き、恐る恐る異を唱える姿が無ければ間違えを訂正できずにそのまま聞き流していたかも知れない。
「む~んっ! こんらんしたっ!」
団子が崩れないように頭をわしゃわしゃと掻きむしってテーブルに突っ伏す少女。ガサツな印象を受けがちだが髪型への拘りは強いらしく、団子アタマを崩さぬように上手く団子部分を回避しているあたり、冗談で有るらしい。
日本の少女はみんなこんな感じなのだろうか……
「それでさ、フランツさんとルイはなんで知り合いなの? カレシ?」
真剣に用紙に向かっていた少女達が退屈な学校の課題に嫌気が差したのか、唐突に下世話な話を始める。そういう話はフランツには今更だが、どうにも年頃の彼女たちにはそれなりに関心事であるらしいと、次の瞬間思い至る。
ツクシの横に移動して教えていたリュウが盛大に、砂糖入りの緑色のお茶を吹き出した。
「き、きったないな。るー、あたしのお茶に入るじゃない…… ああ、ノートが……」
団子頭の少女が自らの言葉でリュウの動揺を誘ったにもかかわらず、さも自分には非がないかのように被害を殊更に主張しているように見える。
「あ、アキが、変な事言うから……」
「るいちゃん酷いよぉ」
お茶を持ってきたトレイからオシボリを取ってテーブルを拭き始めるリュウ。この少女の本名は知らなかったのだが、どうやらルイと言うらしい。フランツは漢字が全く読めないので少女の母親である、あの女傑の言うとおりに覚えていた。
ルイと言えばフランツの感覚で言えば男性名なのだが、やはり文化や言葉が違えば同音でも男女の名に違う意味合いが与えられることなど少なくもない。
それでもルイというのは、彼女には「合う」名前かも知れない。
「お、お母さんの会社の人」
「ふ~ん。予想通り過ぎてつまらないなぁ」
鼻と上唇でペンを挟んでうーうーと言いながらリュウにそんな事を言うアキ。当然のように知っていましたと言わんばかりであり、また茶化している事も態度と言葉に表れている。
「つまらない方が良いこともあるの」
リュウ自身、人と変わった味の嗜好を持っていることを自覚しているものの、吹きだした砂糖入りのお茶の飛沫に、拭き取りにくさを感じて後悔している。
「ほぉう。どういった?」
ここぞとばかりに掘り下げたいらしく、アキの攻撃が始まる。違うと言ったとしてもそこは年頃の少女だからこそ、下世話だろうが色恋には野生動物が獲物に群がるように鼻を鳴らしてやってくるものだ。
「……へ、平穏無事が一番なのよ。最近物騒だし」
「ん~? それはフランツさんが野獣のように物騒だという事かな?」
半笑いでアキがそれこそ物騒なことを言う。フランツとしては野獣というのが「野生動物の様な」という表現なのだろうと簡単に考え至るが、その後に続く「物騒」という言葉は知らないとはいえ笑えるような言葉ではない。
「ええっ! そうなんですか?」
ツクシが少しフランツから距離を取る。シャツに書いてある文字がツクシ自身との差違に何とも言えない不安感を覚えるのは、彼女たちに英語を教えるという状況下に有るからだろうとフランツはもの悲しく思う。
冗談だろうが、このツクシという少女は真に受けすぎだろう。
「いや~ん。るーちゃん襲われちゃぁう!」
アキは両肩を抱いて身もだえ始める。半眼でうすら笑うように冗談めかしてリュウに視線を送るが、当人はあまりにもばかばかしいと取り合ったりはしない。
むしろ襲われて酷い目に遭いそうなのはフランツ自身の方だと思うのだが、そういう話は絶対に出来ない……
「ふえぇぇ……」
そんなアキの一人芝居にいちいち反応して恐ろしがるツクシ。その度にフランツを怯えた眼差しで見やり、目に涙まで溜め始めている。それにしても、ツクシは何を想像しているのか。
「バカな事言ってないで勉強をしなさいよ。勉強」
一番不出来なのはなにを隠す必要もなく怒られているアキであって、一番出来るのは極端に出来る教科と出来ない教科の差が激しいものの平均すれば二人よりも頭一つ出るリュウ。二人の中間……よりもまだリュウに近しい、ほぼ全て平均的に学を修めているツクシという。現状、英語を教える必要があるのはアキその人であって、他の二人は独学で何とかなるというのが実情だった。
それにもかかわらず、
「るーたんエキスでノートが濡れちゃったから、勉強できませーん」
「……うぅ」
ここぞとばかりにリュウを弄り倒すつもりらしいアキ。今回フランツをわざわざ呼んでまで、リュウ自身身の上がバレたのなら一番に困るにもかかわらず、誰かの学業のために最終手段にも等しい方法をとったのだ。
「ぬ、濡れ濡れだねっ! 出来ないねっ!」
何故か目を輝かせながらおかしな空気に乗っかってきたツクシが、恐らく一番のクセモノと言うヤツだろう。間違いなく、フランツが後でリュウに殺される。間違いなく。
たまに、頭の痛い日もある。
樫の木で出来た机に向かい、見慣れない書類に目を通す。
休暇届。
つらつらと日本語の事務的文章で書かれた書面に筆記体で書かれたサインが添えられている。フランツ・ジュベール。日本に来て初めて自発的に取った休暇が、まさか彼女自身の娘によるワガママとは考えもしなかった。
別にそこに不純な目的があるとか、反社会的な側面があるというワガママではないものの、彼らの身の上を汲んでいるはずの娘ならば、そういう軽はずみな事をしないだろうと漫然と思い込んでいた自分自身にも苛立ちを禁じ得ない。
だからこそ頭が痛いのだ。
育て方を間違えたと他人から言われてしまえば、それは仰る通りだと無抵抗に許容してしまうだろう。そう思えてならないような育て方をしてきたのではないかと自分では考えてしまう。他人からは当たりのキツイ人間だと見られるが、外聞に反して彼女自身はこれまで子育てなどという真っ当な行いを為してきた覚えはない。
それが無責任だと言うのならそう思われて致し方なく、またそうせざるを得なかった状況と、それを享受せねばならない娘に訪れる『この世の全て』が「我が娘」への責任を放棄していたのだから、女帝と呼ばれた彼女にはその全ての責を負うだけの器量など無い事を、彼女以外に知るものは少ない。
その事実もまた、頭痛の種である。
フランツという娘に関わる新たなる人物の登場は、娘の将来にどう影響を及ぼすかは未知数だ。もちろんフランツを三上人材派遣会社に引き入れたのは他でもない女帝、三上愛花その人であり、リュウの実情を知らぬとは言え、彼女のワガママに付き合ったのは他でもない彼だ。
我が子として育ててきた娘に、他人に好かれるだけの愛嬌があるとは思えないが、上司の娘だからと渋々従うことにしたに違いなく、フランツには申し訳なさと彼女の傍にいる彼の存在に安堵感を覚える。
それは母親としての安堵感では無く、職務上、規定的な安堵感に近い。
人としての、親子としての愛情は当然彼女に向けているつもりだが、それは三上愛花の中で「真」たる愛情かという疑念も生まれる様な他人行儀な愛情でしかない。
彼女の母親になって十六年。五十七歳となった三上愛花には負い目と言うべき不義理がある。自然、娘である流以もそれにはなんとなしに気がついているものの、それを面と向かって尋ねられた事はない。
『三上流以は本当に三上愛花の娘なのか』と。
そう問われれば答えることは決まっている。今まで訊かれなかったこと自体が女帝としての対面を保てたという事実もまたあるのだ。幼心に訊いてこなかった事は有る意味奇跡に近い。そしてその奇跡に縋った自分自身の甘さと弱さがこの先にどういう影響を与え、また娘自身にどういう未来を見せるのか、誰も解らない。
ただ一つだけ彼女のために、娘である三上流以の為に決めている事がある。
この世全てが娘の敵になろうとも、母である三上愛花だけは、味方であることを。
母であり続けることを、この世にこの身ある限り。