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他サイトにも重複投稿。
(株)三上人材派遣会社 広報担当:左松直老「この前書きおよび本文はフィクションです。実在の人物、団体、国家とは一切関係有りません」
お願い:誤字、脱字がありましたら報告頂ければ幸いです。
注意:改稿版です。元の話とは話の流れは変わっていないです。
若干グロいけど18Gを付けるべきか迷う。
問題があれば付けようと思います。
個人的には問題ない範囲だと思っております。
ある少女が嫌悪感との邂逅と同日。その数時間の後、午後七時五十分頃。
ある男は納得のゆく回答を得る為に、通常ならば有り得ない場所に居た。
「お引き取り下さい」
「どうして政府から捜査中止命令が来るのですかっ! 我々は、与えられた正当な捜査権の元に――」
「お引き取り下さい」
黒塗り、運転手付きの車で帰宅する寸前だった警察庁長官へ詰め寄ったのはテロリストでも、常軌を逸した凶悪犯でもない。秋築昇、警視長だった。
既に頭髪は乱れていて、くたびれたスーツに皺寄ったシャツでは不審人物と代わり映え無い。既に形の崩れて見る影もない上着は腕に掛けて持ち歩くほか無い。その持ち方も警備部の人間からすれば暗器の隠匿方法に近しい為に警戒もされる。
長官は問いに一言も答えず、無力な男を見ることもなく、黒塗りへ滑り込む。その一連の動作は、周りを固めるあらゆる人間によって成立した。警備部の人間が居て、長官官房の人間が居て、何一つままならない人間がそこにいて、成立した。
警察庁長官には、車外の騒音などまるで聞こえないかのような涼しい顔で、前だけを見据え、何一つ普段と変わりないと言わんばかりに。
ただ、
「出せ」
いつも通りの帰宅を演じるだけだった。
警察官として上に立つというのはどういう事か。現場の指揮系統を管理し、直接現場に出て、直接証拠品と関わる人間の為に腐心するだけではない。
警察に与えられた権限は市井には強大な権限であり、それはあらゆる方法で折衝を擁する。その内、行政機関への折衝を執り行い、諸外国と国内外での事件でも交渉や折り合いをつける為の強固な権限を持つ人間もまた必要である。
そして国家、地方の公務員達で組織される機関であり、どうしてもそこには官僚としての政治的権威も付随してしまう。
取り残されたのは一地方公務員である警視長であり、他に居る人間は皆が国家公務員で長官を見送る立場である。
「国家公安委員会からの指示です。我々警察庁の人間にも、どうする事も出来ません」
長官官房の監察官はうち捨てられた中年へ言葉をかけてやる。それがせめてもの、身内の情けである。車を見送った出入り口に膝を屈して正の字に座り込んで打ちひしがれた男へ向けて、無機質な言葉をかけてやる。
遠ざかる黒塗りの筺は、楯突いて手に入れられる場所ではない。アレに座るには非情であることもやむなし、権益を追求することもやむなし、地位を守ることもやむなしと、自分とは違う人間が乗るものだと秋築には見送る事しか出来なかった……
国家公安委員会。それは警察庁を管理監督できる立場にあり、そしてその機関の上部組織は政府である。
国家公安委員会は国務大臣一名を委員長に、他五名の委員によって構成されている。主な業務内容は警察庁の管理監督であり、特定の事件に対する命令権限ではない。もちろんそれは警察の政治的公平性、正当性、民主性を確保する為の機関である。
その管理監督機関であるはずの国家公安委員会から、捜査の停止命令を出されるなどと言う事は有ってはならない。それすなわち、政府からの捜査中止命令と同義であり、国民からの捜査中止命令と同義である。
この捜査中止命令は明らかに不当なものである。それでもなお、秋築達刑事部は頭を押さえつけられることとなった。それが現実になって初めて理解した。手合いの大きさを。
よたよたと足取りが定まらない。疲れていた。
秋築はこの一ヶ月間、まともに家に帰ることをしていなかった。
若かりし頃、刑事課に配属されたときの歓迎会でオールバックにして裸踊りをした。それをいたく気に入った年配の課長にずっとそれで居ろと命令された。当然、秋築としてはそれを続けるつもりではいなかったが、何故かオールバックで捜査すると笑顔と信用がついてまわってきた。職業柄、非常に都合がよいし、激高させて言質を得ようと思えば意外に役に立った。それらは宴会芸でたまたま得られただけの効力というには十二分にすぎ、以来、刑事部内では張り詰めた空気の中で道化になれたし、外回りでは顔を立てるには都合が良くて続けていた。
だが、トレードマークであるその黒々としたオールバックは既に原形をとどめていなかった。
家に帰ろうとも、もう待っている人間は誰も居ない。
ただ一人だった最愛の人は五年前、ガンで先に逝った。帰ってもすぐに呼び出されて飛び出して行くような男には、子供もいなかった。単なる甲斐性無しと言われればそれまで。
夏の蒸し暑い夜、ぼさぼさの頭に、首にかけられたネクタイは邪魔だと緩め、ただ引っかかっているだけ。それは誰が見てもタチの悪い、会社帰り酔っぱらいのおっさんだと思うのだろう。
どうしてか、秋築は我が家に帰ることを思いついた。
この有様で刑事部に戻るのは捜査員一同の為には良くない事、そして考え事をするなら今一度、一人になる方が良い。そしてなにより、すべての犯行が『政府、もしくは官庁』指示だった場合、表立って動くことは自分も部下達も危険である、と。
何がどうなっているのか。
歩みは重く、乗り込んだ電車が一駅ごと通過するに、心労は募る。
国家公安委員会が出張ってきた。国会議員暗殺という重大事件にも関わらず、多数の人員を割ける刑事部をこの件から外すというのだ。ここに裏を見得ない人間は早々居ないだろうし、物事の裏を覗き見ようとするだけの意志がなければ警察官としての資質はないと、秋築昇という一警察官は断言する。
公安部が国会議員暗殺という事件で、本当に後手に回るだろうか。
秋築昇自身、公安部に籍を置いたことはないし、推挙されたこともない。故に内情など詳しく知らないし、そもそも警察内部でも公安部は影のある組織である。
本当は掴んでいる事実を隠蔽し、何らかの不都合な事実を国民に知らせないための方便に刑事部へ自らの無能を気取り、資料を押収しようと考えたのかも知れない。
資料を渡さなければならないという「正当性」を作り上げるだけの政治力を有するのはやはりキャリア組たる谷田喜十郎の能力だろうか。
電車内の乗り合い人数は多くはなく、ちらほらと空席も目立つが秋築は腰を落ち着けることはなく、扉付近の手摺りに縋るように体を預けて思案する。
今まさに刑事部に籍を置く捜査員達は奔走している。暗殺に関与したと思われる被疑者が全員死んでいる事に、行き場のない怒りと無力感を携えて東奔西走であろう。
その努力を無碍に、夏の熱量へと変換される事だけはあってはならない。
彼らは目前にある蜃気楼のような犯人像を追いかけるほか無い。それが仕事であるし、実像を結んだ犯人逮捕は捜査員一同の悲願である。
だがこの捜査が公安にとって、政府にとって、国家にとって不都合極まりない何かがあるのならば彼らの身が危ないのだ。
もし、彼らの内の一人が虎の尾を踏んでしまったのなら。
そう考えると大人しく公安部へ資料を全て差し出し、捜査を打ち切るのが彼らの、未来のためではないのか。
己一人の身が可愛いのならこれ程に苦心などしない。問題は警視庁刑事部の捜査員達の事だ。物事の本質に迫る何かを得てしまえばどうなるだろうか。
国会議員の暗殺という重大性を鑑みて、捜査員達にもしもの事があってはならないのだ。
現在の捜査状況は芳しくない。なぜなら進展が殆ど見られないからである。
七人の被疑者は身元が割れている。だが、経歴が不透明だった。
本名と住所、本籍は確認できているのだが学歴や職歴がどうにも改竄されたような違和感を覚える。
現役の警察官であれば文句はない。高等学校を卒業後、警察学校へ入っている。国家公務員ではなく、地方公務員として公務員試験に合格した人間だった。
それから一度たりとも警察から出たことのない人間だった。そこにある経歴など警察の内部文章で確認できる。至って普通の警察官であり、特定の宗教思想や政治思想などは近しい人間には語ってはいない上に、人間として生きてきた痕跡としてもそのどちらの主義主張は確認されていない。
元自衛軍軍人は退役後に何をしていたのか全く不明だった。年齢は三十二歳、退役は二十六歳の時であり、以来より死亡時まで職業的、学的履歴が一切見つからない。
同様に元自衛軍軍人である環境保護団体職員は三十歳に退役後、南米やアフリカでの野生動物保全のために環境保全活動に携わっている事まで掴んでいるが、その実態は全くの謎だった。確かに環境保護団体に籍を置いていて、然るべき成果を上げているのだがそこに当人の存在を確約できない。
新興宗教信者に至っては大学卒業後に会社員として真っ当に働いていて、そのうち給与の三分の一以上を宗教団体に寄付し続けるような「敬虔な」信者であることは分かっている。だが小銃の扱いなど彼には似合わないような経歴しかなく、そして彼には不明瞭な経歴など無い。新興宗教とやらも反社会的思想を布分するようなモノでもなかった。
フリーターも大学を中退、後にアルバイトを転々としていて警察機関や自衛軍に就職したこともなく、また狩猟目的に猟銃の取得なども無い。
大学生も然り。高校卒業後に現役で合格した大学へ入学。二回時に単位を落として現在は三回生である。故郷の滋賀県より上京してから生活費は自らアルバイトで捻出し、学費は親の支払いである。
彼ら六人の親族や友人に彼らの素性を聞き訪ねても、刑事部が調べ上げた事以外は結局わからず終いである。
七人目の、身元不明の人間はある意味で最大の謎である。肉体は残っていて年の頃は三十代から四十代前半だろうと推察された。それでも顔写真であろうが、歯形から歯科医療機関をあたっても何の収穫もなかった。
現場に残された痕跡も全くと言っていいほど残っていない。残っているのは死体だけ、そう言っても差し支えのない程に「清掃されている」状況だけが与えられていた。
最も奇怪なのは弾丸が見つからないことだった。当たり前だが、胸部、それも心臓付近に銃創があるのだから凶器は銃である事は明確だった。しかしその弾丸が一つたりとも見つからない。弾丸は七件全て心臓を貫き、そして全て人体を貫通している。
人間には肋骨がある。それは胸部から腹部にかけて内臓を守る為に存在し、脊椎より伸びたそれらは上体を維持するためにある。隙間はあれど、弾丸が入ったからと言って全てが突き抜けるはずもない。肉に弾丸が当たったとして、その進路が絶対の真っ直ぐで無いように、肋骨が進路を遮り、逸れ、または減速する可能性の方が高い。
故に銃創の大きさから七・六二ミリ程度の弾丸口径だと推察されている。真っ直ぐに胸部、または背中から侵入した弾丸は肋骨をすり抜け何の迷いもなく心臓を貫き、躊躇いなくその仕事を成してまた反対側の肋骨をすり抜けて皮膚を貫通して抜けて行く。
それが七件全てで起きている。確率論で言えばどれ程のものだろうか。小銃による狙撃はそれ専門に学び、教練を積んだ人間であってもそれ程の芸当は成し得ない。
奇跡によって弾丸が突き抜けた事は確率論として捨て置く他ない。だがそれが奇跡と呼ぶべき偶然だとして、突き抜けたであろう弾丸が見つからないのは奇跡では説明は付かない。
弾丸が見つからないのは何故か。
ある捜査員は言った。
『映画で見たことがあるんです。氷の弾丸なら見つからなくても可笑しくないのでは』
そしてある捜査員が答える。
『そんなもの創作物の中だけの話であって、実際に氷を弾丸として使うことは不可能だ』
弾丸が火薬によって射出される際のエネルギーは相当なものだ。それも爆発時に起こる圧力と熱量は氷の弾丸など簡単に砕いてしまう。銃身には旋条が刻まれていて通常の弾ならば金属に溝をつけて旋回させ、弾丸の姿勢を安定させ長距離の着弾点でも尖った弾の尖端を目標に向ける為に必要である。だが氷の弾丸ならば表面を削られると強度が著しく下がってしまう。運良く、なにがしかの、それこそ「奇跡」でも起きねば発射されない氷の弾丸を銃から撃ち出せたとして、それが人体に当たった際、形状を保ち続け心臓を貫き反対側へ同じだけの銃創を作って突き抜けるだろうか。
いくつもの不合理性にて氷は弾丸として成立しない。
だからこそ氷の弾丸では弾丸が消える事の証明にはならず、まして殺害できるだけの能力を有するか甚だ疑問である。
そうでなければ弾丸が見つからないのは何故か。弾丸という物証は今何にも代え難く必要なモノである。弾丸の口径、旋条の形状から銃器を特定できるはずだった。銃器の特定が可能ならばそれを国内で所持している人間を捜せばよい。
当然、国会議員暗殺に関わるような人間が手に入れた銃であれば未登録である可能性も否定できないが、それならそうと収穫である。
だが見つからないのならあらゆる想定も仮定も出来ない。
抜け出た弾丸が犯人に回収されたのか、第三者が持ち去ったのか。そうでなければ見つからない説明が付かないが、遺留品捜査にあたった捜査員達が見落とした可能性もある。ただ見落とした可能性ならば弾丸が人体を七度とも貫通しきる確率より低いだろう。
弾丸を回収したのは公安部……そういう可能性や疑念を抱えるのはなにも秋築だけではない。既に捜査員達の一部にも公安部の動きが刑事部の行動を阻害し、明確な敵対行動である事に気がつき始めている者もいる。
これは由々しき事態である。警察機関が何者かによって恣意的に運用され始めている。警察とは公明正大であり、法の下の平等を成すための一機関に過ぎない。裁判所、検察。法の下に平等を謳い、国家や国民の生活を守るための機関である。それをある種の意志が恣意的に行動原則や理念を掲げたとすれば、そこに待っているのは――
電車が自宅から最寄りの駅に着く。午後九時十七分。
足取りは先ほどの重きよりも千鳥に近い。秋築は久方ぶりに飲んだ。飲んだと言ってもカップ酒を軽く煽った程度で、それでも秋築は酔ってしまうのである。特徴的な髪型や、老成して恰幅が良いことなどからよく飲むのだろうと勘違いされるが、秋築は酒にはめっぽう弱かった。それなのに飲んだのは、気まぐれと、苛立ちによる。警察官とは思えないような短絡的な理由により飲めない酒を飲んだ。
嫌なことは酒で忘れるに限ると、諸先輩方の誰かが言っていた事を思い出し、電車を降りて最寄りのコンビニでカップ酒を買い、その店先で飲んだ。浴びるように半分くらいは飲んだものの、もう半分はシャツにくれてやった。更に穿いていたスラックスも酒を浴びて濡れており、暑い夜に酒臭いおっさんを誰が見ても、とても警視長などという偉い役職だとは気付かないだろう。
完全にコップ半分で酔っぱらったおっさんは千鳥の足で何とか辿り着いた私鉄の高架下で遂に真っ直ぐ歩けなくなった。飲めもしないのに無理をしたせいで頭を高架のコンクリート壁面に預けて斜めに進むという奇行をしていたが、その近隣は人一人歩いていない閑静な住宅街で、いくつか街灯の電球も仕事を放棄していた為、誰に見咎められることもなかった。
ただ、秋築は酔った頭ながら気が付いた。
暗い高架下で誰かとすれ違った事を。
真夏の蒸し暑い夜なのにこの身は凍える様に、寒い事を。
目の当たりにする目に痛い外灯が、何故か虚暗い事を。
壁面に預けた世界が、今まさに傾倒して行く事を。
同日午後九時二十九分。警視庁刑事部部長。秋築昇警視長、五十六歳。
何者かに刺殺さる。
秋築昇警視長が警察庁長官へ直談判する半日前、ある男は情報の流れを見いだした。
策謀が巡る。そして男の目的はその思惑を断つことである。なればこそ、男は早急に動かねばならなかった。特別機関の人間ではあるが、生憎と心得があった。最も効率的な運用が出来るならば如何なる手段を用いる事も辞さないという、心得が。
だからこそ、時間の惜しい男達は女性専用車両に乗り込んだ。
乗り込むまで男には一切の雑念も余念なども無かった。彼等よりも先んじて手を打たねばならないという自負だけを携えて、敢えて乗り込んだつもりだった。
そこで、見覚えのある顔に心奪われるまでは。
夢物語の中の登場人物の様だと見たそのままを伝えると、目を合わさないように隠しながら笑う、あの人に似ていた。
こちらが見ていると気が付くと、同じように目線を外してから顔を背ける癖があの人と同じ、その少女を見つけるまでは。
だがそこは昔の電車内とは景色も音も違い、立場も年齢も、皆何もかもが違いすぎた。
乱立する高層ビル群は旧知の斜陽を遮って。線路は継ぎ目無い長大なレールに敷き変えられ、覚えていた心地よいリズムを失って。己は摩耗した壮年に。片や彼女はチェロを抱える幼さの残る少女に。
全てを知っているのは世界中で自分だけだという孤立感を抱え、眼鏡をかけた白髪の男は六人を従えて揺られる事を進む時の中で享受する。進み続ける時間は、それが男にとっての罪の想起に違いないが、それでもなお男はその時間に酔いしれることにした。
だからこそ眼を伏せる少女に、話しかけることにした。
男の目は人のそれより優れていると自負している。だからこそ、男は少女が隠そうとする拒絶を、すぐに悟る。
どういう理由で忌み嫌われるのか男には良く理解できなかったが、どうしてか少女は逃げたそうな態度に見える。先程、女性との会話中に何か不快な思いをさせたのかと考えたが、別段彼としては思い当たる節はない。
いつも通り丁寧な口調で説明しただけで何一つ不遜な言葉遣いをした覚えもない。
それでも少女はどうにかして逃げようかと思案している様にしか見えなかった。だからこそ、彼は自ずと移動することにした。
出入り口、反対側の手摺りに手を伸ばして掴まって立ったのだが、その付近にいた女性にまで嫌悪された。
やはり、異物である自覚は持たねばならない様だ。
だが、現在の状況を憂いている暇はない。
男は存在し得ない人間で、この集団は国家としての異物である。その自負を持ち、ここにある事を是としない状況はまさに相応しいのではないかと思えてならない。
彼等は存在しない集団であり、『彼等』の『行い』は全て有り得てはならない事。
故に政府機関は感知できず、同時に干渉される事もない。
法的根拠のない集団だが、存在理由は憲法により批准される。最高権力者はあくまでも国民であり、政府の命令系統に組しない。そして司法、行政、立法の三権は『彼等』の存在を認めることも、知る事も無い。
『彼等』の目的は「国民の利益」であり「国民の幸福」である。いつ如何なる時も国民に還元されるべき利益の為に、いつ如何なる時も国民の安寧と幸福を守る為に、職務を遂行する。
それは「国益を損なう者」を「無かった事」にしようとも。
確信のままに男は少女が降車する際、一つだけ言葉をかけた。
黒い革張りのチェロケースにほとんど剥がれていた金色の印字を見て言った。
あの日、牧瀬の楽器店に置き去りにしたチェロケースに向かって。
目の前に存在するそれは正しく愕然だった。いやそれは悲愴でもあるし、なにより絶望だった。だが、誰かが言った。眼前のそれは敗北であると。
午後十時五十五分。
一つ仏が出た。飛び込んできた報告に、皆はまた八人目が出たのかと思った。バカな政治家が時勢も局面も読めずにパーティーでも開いて資金集めに奔走しているのかと呆れたのだ。そしてこれまでの一連の流れからもう一つ、議員暗殺の被疑者が死体として見つかるのではないかと皆が、思い込んだのである。
「あの、それが……」
午後十時丁度、特別捜査本部の熱量はそこで死んだ。
高架下で一つ死体が見つかった。確かに高架周りは騒音があるだろうが、他は閑静な住宅地であろう。そして被害者はその近隣に住む住人だった。
「秋築昇。年齢は五十六歳。職業は――」
警察官としての身分証明書は持ち合わせていなかった。持ち場から離れる際に秋築は警察手帳たる身分証明書を置いて出てきた。それは習慣づけられた行動で、彼には当たり前の行動である。非番や警察権を行使する可能性がない場合は大抵持たずに出て行く。
現場に訪れた刑事部の面々は知っている。だが服が酒に濡れていて、高架の壁面にもたれ掛かるように正の時になって座って亡くなっていた。
その遺体を見て刑事部の人間は酷く後悔し、忸怩たる思いを抱かずにはいられない。
壁に頭をつけ、俯いたままその男は泣いていた。
発見時から今の今まで、頬を伝う涙は顎にかけてそこに筋を残している。腹部、それも肝臓を狙って刺されている為、痛みにむせび泣いたのかも知れないと臨場した鑑識班は彼に同情したが、その場に駆けつけた捜査員はその言葉に皆が心の中で「否である」と確信している。
その男は、痛みを覚えて泣くような人間ではない。
彼は己の痛みよりも、他者の痛みのために泣くような人間である。
この現場にいて警察官は二通りの反応をする。
秋築昇を知っていても当人を直接知らぬ人間は敬愛すべき、尊敬すべき警察官の、同業の先達の死に哀悼を思う。それは年の頃に関係などなく、若輩から同年代の玄人達も同じくである。彼の死の真相を追うために地べたを這い回ってでも痕跡を探す。
そして秋築昇という、かの人となりを知る人間は彼の死に邂逅してしまったとき、皆同じように呆然とした。死ぬような人間ではない。このような場所で死ぬべき人間ではない。その人は定年までその職責を全うし、第二の人生として新しく見つけた趣味でも幾年か続け、老いさらばえて自宅の畳の上、または相応の施設の中で息を引き取るべき人間である。
だれもがそう信じていたし、そうやって死んで行くモノだと誰もが確信していた。
それが自宅近所の高架下で刺殺されるという最後を迎えたのだ。コレを見て納得する同業者がいるだろうか。それこそ同業者であれば、秋築昇を既知であろうとも無知であろうとも、誰もが皆「否である」と確信するのだ。
その現場に集まったのはやはり慕う者が多く、国会議員暗殺の特別捜査本部であるはずだが今まさに捜査本部の本丸はこちらに移行するのではないかと見紛うほどに人員が訪れる。
狭く片側一車線の高架下は多数が陣取れるほど余白はなく、近隣に赤色灯をつけた警察車両がごった返すという異様を見せたのである。これだけ大がかりな捜査陣容だが、本来ならばその人員を割くだけの事件ではない。警察官が一人殺されたという話である。
平時ならば確かに地域事件の紙面に大々的に乗るだろう。だが事はそれでは済まない。国会議員暗殺事件の捜査を担う刑事部の部長たる秋築が殺害されたのだ。これが全国紙一面に載らない訳がない。あらゆるゴシップ記事よりも「面白い」事態であり、人心は物語のような娯楽性に彼の死を些事として、大事たる一連の事件に関心が向いてしまう。
事件には大も小もないと言うのは誰もが理解している。そこで起きた事件は当事者にしてみれば生涯における重要なモノだ。それで人生の分岐点を迎える人間もいれば、事件によって何もかも失う人間もいる。
だが世間の目に触れるのは刺激的な出来事だけだ。そこで本当に起きたことも、そこで誰が何を思おうとも、マスメディアが伝える事はごく一部でしかない。
その男の生涯を消費娯楽に貶めることは許されない。
ただ目で流し読みされるだけの人生であってはならない。そう思う人間が寄るのだ。
そこは聖人の在る巡礼地のように、警察車両が近くに三十余台をも連ね、参じる人間は二百をも数えた。刺殺体一つの為に集まるにはやはり過多なる捜査人員である。
そこにはただ彼の人の、人徳だけが集うた。
時間とは或る側面から見れば無限である。そしてまた或る側面から見れば有限である。人が思案を巡らせる時間はそのどちらでもあるが、思案事は大抵の場合に時限付きである事が多い。特に人間が忌み嫌う事柄には、とても多いものだ。
「こんなことをして、ただで――」
「こちらの台詞だ」
時間が有限ならば最も効率よく事を成すに限るのだ。
真っ黒なサングラスを掛けた男が胸ぐらを掴み上げる。その相手は足が地上から数センチ浮いた、いかにも事務職然とした優男だった。だがその行いは何も無用な争いを好んでいるからだという訳でもなく、彼から金銭を要求するためにそうした訳でもない。
人には在り方たる決定的なモノがある。それは人相と呼ばれ、見た目、印象ともする。それらは一般市民には純然に相手への第一に受ける情報であり、その身なりからどういう人間なのかという判断基準となる。
確かに。胸ぐらを掴み上げられ、簡単に足の浮く男など一見すればただのうだつの上がらない外務省職員にしか見えない。それでも人気のない住宅街の一角で七人して囲み、七人の身分の一端を知らせたときやはり態度は「人相」からかけ離れたものとなる。
「防衛省が内務に口を挟むべきではないぃ」
喋る事に掴み上げた手が締まり、言葉を発する事に自らの首が絞まって行く。それでも男は彼らへの反抗的な目を改めることはなく、次には胸ぐらを掴んでいた腕を憎らしげに両の手で掴み返してきていた。
「国防の範疇であれば差し挟むのが道理だ」
胸ぐらを掴み上げている男とは別に、一人銀縁眼鏡で白髪交じりの男が言葉を掛ける。七人居る中で男と会話をするのはただ一人この白髪の男だけであり、一人だけ明確に他の六人とは違い個性を消失させたような人間ではない。
個を特定される事に問題のない人間か、既に特定されていて隠匿する必要の無い人間か。抵抗する男はそのどちらであるか、知っている。
「伊藤中佐。これは明確な越権行為ではありませんか」
「隠し立てもしなくなったな。それを言うのなら君たちはどうなんだ。自分達は棚に上げるのか、それともそれが許されると思っているのか」
外務省職員としての対面は既に無い。あるのは同じ穴の狢である事を如実に表す明確な敵意である。三十代の中頃、そろそろ昼行灯は官僚としての限界が見える頃合い。大抵の人間には彼の社会的地位と垢抜けない外見に幻惑され、その素性を推し量ることはできない。
防衛省。それも制服組に籍を置く男の名と階級を知っている時点でただの外務省事務官ではない。外務省付きなのだから自衛軍の武官との交流はあるのだろうが、伊藤の存在を承知している外務省事務官などあってはならない。
彼はそも秘匿されるべき人材だった。国家の防衛において必要なものは何か。攻勢の戦力や防衛志向の軍事力が必要なのは事実だが、真に必要なのは実力部隊一辺倒ではない。
古来より、銃が発明される遥か前より情報が国防の要である。
敵を知れば、と説いた人間が居るように、なんであれ「知る」ことは優位に立つ上で絶対の条件に相違ない。諜報と諜防のそれらを引き受け、更に国家への攻撃準備に対する「行動部隊」それを立ち上げ、所属する人間の公的記録の一切を欺瞞した集団である。
その長たる伊藤の階級を知っている人間が「真っ当」であるはずもない。隠蔽され、居ないはずの人間を知るのはやはり、居ないはずの人間だけである。
「公安は国内の安全保障を担う立場であるはずだが、いつから外務省へ面白い出向をする団体になった」
胸ぐらを掴まれた男は口の端をつり上げて聞き及んだそれに笑う。男がいつから笑っていたのかは分からないが、へらへらと笑い始めた男には、七人してなんの感情も抱かなかった。怒る必要性もなければ呆れる必要性もない。ただ必要なのは事実の確認と、何故それは行われるべき事柄なのかを問うことだった。
「越権行為である事をお前達にとやかく言われる筋合いはない。それよりも明確に国家への背信行為であるこの状況に――」
言葉の途中、自らが発したそれを止めて「嗤う」男の首を両の手で掴んだ。部下であるサングラスを掛けた男すらその行動に動揺を見せる。ただ一瞬の行動だが、伊藤の焦り様は尋常ではない。部下は伊藤の行動に驚いて締め上げていた胸ぐらの手を離し、何事かと無言で指示を待つ。
「毒を飲んだかも知れん、背後から下腹部を両手で抱きかかえて吐かせろっ」
それはなんと悪辣な出来事だったろう。ただの官僚が口腔内に致死性の何かを仕込んでいる、というのはまるで考えていなかった。そも、公安職員が自殺をする必要性もない。身の上を把握されぬようにそれを選んだのだろう。
真っ当な公安業務以外に就いているという明確な意志だけをそこに残して。
「誰です、この仏は」
「外務省の官僚様」
「そんな人がなんでこんな所で」
「一見して分かればオレ達はお役御免だぞ」
「そうですけどね」
仰向けに、住宅街のある一軒家の生け垣の低木に上体を預けて男は死んでいた。おかしいのはその姿はまるで磔刑にかけられた罪人のようであり、死に際に嗤うのは天上を見た選ばれた者のようである。
何故、住宅街の他人の家の生け垣で服毒して死んでいるのか、警視庁の人間には皆目見当も付かなかった。これが他殺なのか自殺なのか、それにも見当をつけるには鑑識の慎重な見立てを要した。
死因は歯に仕込んでいた毒物による死亡だった。毒物がどういう成分なのかは鑑識から科学捜査研究所に送って厳密に調べる必要性があるものの、やはり致死性の毒物で間違いないようである。
何故、この言葉が彼ら現役の捜査一課の中で最も使われた日は、今日だろう。国会議員暗殺の、死亡した被疑者達を追っていた刑事部の部長が自宅付近の高架下で殺された同日。同じく自宅近くの住宅街で服毒して自殺した外務省の官僚。関連性は見られないものの、同日に何故公務員が死んだのか。
捜査員の一人が外務省職員が秋築を殺し、自宅付近で自殺したのではないかと言い出したがそれは即時否定された。秋築殺害よりも前に、官僚が服毒自殺した可能性が高いと断定されたためである。
住宅街でも人通りの少ない、外灯のない通りに倒れていたため発見が遅れたものの、死後硬直や死亡後の体温測定で推定して午後九時よりも前に死亡していた事が鑑識からの報告に上がっていた。
「今日は最悪な日だ」
誰かが言って、誰かが同意した。