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他サイトにも重複投稿。
(株)三上人材派遣会社 広報担当:左松直老「この前書きおよび本文はフィクションです。実在の人物、団体、国家とは一切関係有りません」
お願い:誤字、脱字がありましたら報告頂ければ幸いです。
注意:改稿版です。元の話とは話の流れは変わっていないです。
若干グロいけど18Gを付けるべきか迷う。
問題があれば付けようと思います。
個人的には問題ない範囲だと思っております。
人の出入りは忙しない。音量を数値化するだけの機器があるならば、その騒々しさは相応に大音量であると弾き出すだろう。それは人間が出す言葉の音であり、屋内を駆け回る人間の音である。
人の出入りが忙しない。コレが一般の企業ならば相当に繁盛している事が伺えるだろう。だが彼らは皆、責め苦を味わったような悲痛な表情ばかりである。商売により難題にぶつかったような溌剌とした、そんな有意義な顔ではない。問題は彼らが繁盛して良い「商売」ではない事にある。
時たま怒号のような声が聞こえ、それに対しての返答もまた怒号のようである。
皺寄った安いコピー用紙に油性のマジックで書かれた汚らしい「特別捜査本部」の文字はその広い部屋の銘を表している。ラッシュアワーに混雑する改札のように、一方の扉から人が入り、一方の扉から出て行く。
忙しい理由はいくつもある。
一つは大規模捜査であるため、動員された捜査員の数がそも多いことにある。大人数の動員は必然的にその部屋の出入りが多くなると言うだけのこと。
もう一つ。事件の件数である。一つの捜査本部だが、個別に見れば七件もの事件を抱えていてそれぞれに人員を割いている。事件が七件ならまたそこには被疑者が七名もいる。それぞれ別件として抱えるのなら部屋を分けてしまえば良いだけだが、この事案には関連性が見られる。同様の手口で国会議員という同一職種者を狙うものだ。
国民による信を得た代表者達が次々と殺されて行く。彼らを守るのは専職たる公僕の勤めであり、その為に市井の者には与えられていない特権がある。
彼らは捜査権を有する公務員。警察官である。その彼らが忙しなく入れ替わるように、一つ所に寄っていく。
忙しい理由は、まだもう一つある。
彼ら捜査員達が文字通り寄る辺にするのは一人の元である。現場において必要なのは的確な指示と正確な情報である。拾い集めた情報などどれもこれもが真実である確証はない。それを精査し、打開への一手を見いだすのは優秀な指揮官足る為の、必須能力と言って差し支えない。
彼らの捜査には情報が必要である。その足で稼いだ情報は物事の一片に過ぎない。
集積した情報の中から「正しいモノ」を探し出すのは難しい。他に照らし合わせ、科学的な物証をかき集め、時系列に矛盾がないように整然と事象を描かねばならない。
人間の考え方は基本的に短絡で単一である。人から与えられるあらゆる言葉に、情報に、ある人は思い込み、ある人は受け付けない。捜査員一人一人は意志のある人間である。誰かに従うのならそれは信を置ける人間だけである。
集うのは一つ所。一ヶ月、まともに家に帰れていない男。年の割には黒々とした髪の毛をオールバックにしているのだが、まともに身支度している暇など彼にはなく、整髪料で固められていた髪の毛が限界に近づいていて、所々反乱を始めている。
秋築昇。年齢、五十六歳。階級、警視長。役職、警視庁刑事部、部長。
国家公務員ではない地方公務員から警視庁刑事部の部長にまで成り上がった。その彼を慕う者は多く、駆り出される人員の殆どは彼を尊敬し、目標とする。
「環境保護団体員は予備役軍人でした。実銃での訓練経験はもちろん、PKOへの参加経験もありそうです」
汗だくになり、片腕に上着を引っかけたまま、夏の熱気以外にも当てられた若い捜査員が報告をよこす。ここにいるのは安い正義感だけをぶら下げた凡夫ではない。義心だけを育てているような青二才はこの仕事の中で削れ、皆が一様に清濁を飲む。秋築の目の前には険の鋭い若者が居る。
六十に迫る秋築には三十を超えた捜査員達もまだ若く、四十、五十と経年を得る度に顔つきは修験者のそれに近づいて行く。報告を上げた彼は未だ修羅道へとはほど遠く、この道の先に秋築という本物が居る事を夢想して止まない。
「ありそうというのは」
「他の捜査員が調査中です」
「……」
重要なのは実銃を使用できる経験があると言うこと。狙撃にはそれ相応の能力や経験が必要である。一警察官である彼らにも拳銃による射撃経験はあり、小銃によるそれとは違うものの、そこには習熟した技術が必要である事は明白である。
安物の長机に両肘を付いて、祈るように手を組み、そこに顎を乗せる。秋築昇はそこでその体勢のまま、仕事中はここ一ヶ月程過ごしている。その間に寄せられる情報の集積と新しく出てくる疑問を精査し、捜査員各員への命令を下す。
元自衛軍隊員、現役警察官は実銃の射撃経験があるものとして、現実的に犯行が可能だという事は、おおよそだが見当は付いていた。
元自衛軍隊員は言わずもがな小銃での射撃訓練がある。そしてもう一人の現役警察官はその所属部署は警視庁警備部の特殊部隊員であり、対テロ要員として配属されており、銃器の扱いは一通りこなせていた事が判明していた。
他に新興宗教信者、フリーター、大学生、身元不明の者。彼らは狙撃というものを行えるだけの能力があったのか。その有無を調べるために、未だ多くの捜査員達がこの国を奔走している。
その労を惜しまないのは彼らが隷属しているからではない。そこにある絶対悪を許せない人間が居るからだ。もちろん清濁を併せのむ器量を持ってしても、それを絶対悪と定義できる程の巨悪が存在するからだ。
警察機関や司法機関が善悪を秤違える国は必ず衰退する。汚職にまみれ、横領に、賄賂。あらゆる汚濁は必ずや隙と怠慢を生み、規律は乱れ、規範は失せる。
割れ窓と同じである。一つの汚点や不整合は寄せて集まるように集積して行く。警察機関として必ずやその汚濁は排除しなければならない。
彼らの存在価値は彼ら自身によって証明されなければならない。このまま無能として誹られ、国家の威信に関わる事態を闇に葬ることは彼らには許されない。
あくまでも事件に対するアプローチは『国会議員暗殺の被疑者を殺した犯人』を探すことであって、国会議員暗殺に関連する捜査情報は公安部に提出もしていた。
だが、公安部からの情報開示は一切無く、刑事部では公安部に対する不信感ばかり募っている。
しかし、刑事部長たる秋築はその公安部の対応は至極当然なモノだと思っている。
実際の所、他の各捜査員も似たようなものだ。公安部の情報が他に漏れることなど滅多にはない。徹底的な棲み分けを行うことで捜査内容や捜査方法に違いを持たせ、完全に領分を分かつのが管轄と言うものだ。
もちろん、大々的に打って出ることができる強みを持つのが刑事部である。ならば、秘匿され、隠蔽された状態で粛々と追い詰めることが出来るのが公安部だろう。
それでも、人間納得できない事はある。目指すところは同じはずである。元々の機関として法を遵守せぬ者を探しだし、逮捕拘留する場所である。正確には検察が起訴するまでの間、逮捕状を請求できるだけの証拠を集め、勾留し、検察への送致まで身柄を確保することである。
やることを単純化すれば、悪鬼悪辣を捕まえることだ。そこに貴賤はないはずである。
だが、隣の芝を羨んでしまうのは、青いからではない。
「国内各機関へ簡単に働きかけられるなどと、刑事部も偉くなりましたね。警視長」
「嫌味を言いに来るほど公安部は暇なのですか。警視監殿」
一人、各員見覚えのある男が特別捜査本部の入り口に立ち、捜査員達の注目を集め更にその部屋への流入を阻害する。律儀に入り口側として機能している前扉に立っているのは彼らの仕事のために倣っての事ではなく、ただ単純に話し相手が最寄りであるからだ。
秋築昇、五十六歳。警視長。
谷田喜十郎、四十七歳。警視監。
警察官としての階級を言うならば、秋築よりも谷田が一つ上である。
秋築は地方公務員、ノンキャリアとして警察官になった。それから三十八年間の功績と人望を見込まれ、秋築はつい四ヶ月前、この役職にまで辿り着いた。秋築本人はおそらくこのまま警察官人生が終わるものだと、そう言えるくらいには昇った実感がある。
だが、それでも越えられないモノなど山のように存在した。
国家公務員、キャリア組として警察官になった、谷田の存在がそれを物語る。
そして谷田の言葉はそれを言い表す端的な言葉である。
ノンキャリアである人間が、国内各省庁から情報を簡単に集められる訳がないと。実際、秋築達刑事部はその難題に正面から激突するが如く、自由を奪われた。
各省庁の高級官僚達と対等に渡り合うだけの実力が、秋築には存在しなかった。刑事部の捜査権限など、とある領域には全くの無力だった。
「非常に多忙だ。そんな中、刑事部は我々に厄介事まで負わせたのだから少しは反省して貰いたい」
「どういう事だ」
「明日。国家公安委員会からすべての捜査を中止するよう、刑事部へ通達がある」
「警察庁長官を飛び越えてか? まさか、冗談だろう」
「実際、刑事部の捜査方法に現政府は苦慮している。刑事部は公にテロリストの捜査をしている。だが、手合いの大きさを測りかねている政府として、少しの情報も外部へ公表することは避けたい。解るか?」
「……」
刑事部、特別捜査本部に押しかけてきた、たった一人の男の声だけが、広い部屋に響き渡る。
あまりにも彼ら二人の能力に違いがある。圧倒的な差であり、絶望的な差である。
各省庁に問い合わせ、情報請求できるだけのコネクションが有る人間と、無い人間の差である。高等学校卒業から地方公務員として管轄内で一警察官として働いてきた三十八年間。片や大卒、国家公務員、キャリア組と呼ばれる高級官僚としての二十四年間。彼らの間には、隔絶した絶対の差が存在する。
「ショーさん……」
秋築と長年を共にした捜査員の一人が、愛称の中に無念と同情を。
ある夏の暑い日。普段と変わりなく、いつも通り。制服姿の彼女は、電車へ乗り込んだ。
律儀に券売機で切符を買い、夕暮れのホームで次に来る電車を待つ。電子マネーのカードは持っているものの、彼女はそれの使用を避けた。電子マネーカードには利用履歴が残る。普段利用している地域への履歴ならば良いが、過度に方々への履歴が残ることは許されない。それは自身で自覚しているし、なんなら彼女は無意識で券売機の前に立った。
電子マネーカードを用いるのは基本的に普段使う往路復路のみ。他に使うとなれば友達と遊びに行く際に違和感の無いように用いる程度である。
そこまで利用履歴に腐心する理由など一つしかない。
僅かばかりの待機時間だったが、構内に目的の電車が入ってきた。夕方で乗り合いの客足が増えていて、チェロのケースを抱えた少女はその流れには本来、乗れはしない。それでも彼女は悠然と歩み出て、人の少ない車輌へと歩く。
そこには人が少なくなる理由のある車輌。
女性専用車両。
年頃の娘が乗るには申し分が無く、強制的に国民の半数程を除外できるだけの優位性がある。混み合い始めた通常車輌よりもやはり女性専用車両の乗車率は少なく、彼女がケースを抱えたまま乗車すると出入り口近くの座席が空いていた。他にもちらほらと人が座れそうな空間もあり、特に何としても座ろうという人もおらず、少女の為に開けられたかのような席で、誰もが少女が座るものだと思ったし、少女も躊躇いなくその席に収まった。
大きなチェロケースを携えた少女が居たならば、おそらく多数の人間は他に優先されるべき人間が居なければ、そこに座ることを咎めたりしないだろうとも思ったからだ。実際、彼女の行いを咎める者も居なければ、彼女を不審に感じる人間も居ない。
ただ当たり前の日常に、楽器のケースを携えた少女が居る。部活帰り、習い事の帰り。そのどちらでも良く、そのどちらであっても他の乗客達にはどうでも良いことである。
発車時の警告音が響く。本来あるべき趣旨としては警告だが、ここにあるのはただ電車が出発する報知音にしか誰もが取らない。人間の危機意識に働きかけるべきモノが、この国ではいつしか忘れられて行く。本来あるべき姿で居られないのは危機的状況を見ぬふりをし続ける国民性にある。それが如実に表れるのはマスメディアである。国会議員暗殺のニュースが流れた後、アナウンサー達は笑顔でラーメン特集の話題に切り替える。
そんな危機意識のない人々に、彼女はうんざりしていた。
自分はそれほど価値がないのかと思うのと同時に、いつ身に降りかかるかも知れない脅威に対してあまりにも鈍感である人々に対して、彼女は心底うんざりしている。
だが危機とは警戒していても時ならば訪れる。乗り合わせた人々がその姿を知覚した瞬間、誰もが目を疑った。
女性専用と銘打たれた表示板を掲げた電車に、黒いスーツを着た男達が床に置いたチェロケースを抱える様に座る少女最寄りの出入り口から、扉が閉まる直前、乗り込んできたのである。その異様は他の乗客達には恐ろしく映り、チェロケースを抱えた少女もまた危機感を覚える。
一般の乗客達にしてみれば男性が乗り込んできたという事実がそもそも論として恐怖であり、更に異様と言って差し支えのない黒服の人間、ほぼ全員が同じ髪型で同じサングラスまで掛けている。一般人には彼らはやはり異様に映る。物事への理解が至らないのならそれはただの恐怖だ。
チェロケースを抱えた少女はその取っ手を握りしめる力を強める。
モーターの駆動音が聞こえ、規則的につなぎ目を踏む音が聞こえる。
最寄りに座る彼女には彼らの身元は分らなくとも、彼らの服装から意図する所は解る。それは明確に威圧感を与える為であり、その威圧感は集団性というカモフラージュによって個々の性質を殺すことにある。同じ服装であることは規律や規範を意味するのと同時に、普遍と並列である事を主とする。
所謂、SP、シークレットサービス。要人警護を主とした警察機関、または軍の警護部隊に近似した人間である可能性が高い。少女の目にはどう見ても東洋人の骨格で、立ち居振る舞いは軍人のそれだった。
明らかに一般人とは毛色の違う人間でも、そんな彼らに果敢に挑む者もいる。
「あ、あのっ! ここは女性専用車両ですっ」
本人達にその気はあるのか疑わしいが、明らかに対外に威圧的な態度が見られる。だが、乗り合わせた会社帰り風の女性は勇気を持って彼等に正論をぶつけてみた。当然、それは普通の女性が持ち合わせる正義感であり、彼らに対して向けるべき正義感としては、あまりにも足りない。
「……」
「ひっ……」
出入り口とは少し離れた場所にいた会社帰りであろうスーツを着た女性が一般人のなけなしの正義を振りかざしたものの、彼女の背格好よりも高い位置からサングラス越しに一瞥を向けられてひるんでしまった。彼女だけが見たその視線は、電車内の冷房の風よりも冷たく彼女に突き刺さり、後退る。
同じく入り口付近に座ってしまった少女もその場から逃げ出したい思いだったが、そうもいかない。無用に彼らの目に付く行動を取ることは避けたいし、何より行動の所作に「同業」である事が無意識に出た場合はこれをごまかしきれない可能性がある。
そして彼女の動きを留めた理由がもう一つ増える。
サングラス越しに女性を見下した男を手で制し、一人サングラスを掛けていない男が男達の輪から抜け出して、注意した女性を真っ向に捉える。
「女性専用とは銘打たれているが、法的拘束力はない。あくまでも配慮を優先的に得られる車両として存在するだけだ。無用な不快感を与えていることはこちらも承知しているが、急いでいてね。あと三駅ほどだ、無礼を許して欲しい」
六人もの他の大男に囲まれて気がつかなかっただけで、彼一人はサングラスを掛けていなかった。銀縁眼鏡に白髪交じりの頭髪で、他の男達とは違い個性というものを消失していない。彼が警護対象なのだろうかとケースを抱きかかえたまま横目で見る。
彼らが何を目的として乗り込んできたのか全く解らない。それが解らない以上、チェロケースを抱えた少女はその場から安易に動くことは出来ない。
少女は内心、会社帰りの女性に同情もしていた。要らぬ気苦労をせぬ為に彼女は女性専用車両に乗ったのだろうが、えらく気を揉みそうな輩が乗り込んできてプレッシャーを受けたのだ。
「えっと……」
普通に生きていれば出会うことのない人間である。正確には偶然でもなければ袖擦れ合うことのない人間だ。自分から積極的に関わり合いになろうとするなら、それはまた別な話になるが。
ただ一般にも冷めている癖に敵対的な人間もいる。睨まれた女性はその類とでも思ったのだろうか。それでも彼らはそういう輩とは次元が違うのだ。
圧倒的な威圧感は空間の一部に明確に穴を開ける。その異様な場所から皆が離れて行き、別の出入り口付近に乗り合わせた女性客が集まって行く。場所もタイミングも悪く、チェロを抱きかかえたままの体勢から少女は動き損ねた。電車が次の駅に、たった一駅に辿り着いた所で乗り合わせた客達が降り始めた。見る間に数が減って行き、取り残されたのは男性七名と女性が三人。一目で数えられるほど減ってしまい、その女性三人の内一人は数えた当人であるチェロを抱えた少女。
駅にたどり着いたのだから乗客が他にも乗り込んでくるはずである。だが怯えながら多数降りてきた様を見て異様に気がついたのだろう、出入り口にひとかたまりになった男の集団を誰もが見たのだ。ジョセイセンヨウシャリョウなる空間に黒い服で異質を形成する男性七名が居るのだから忌避されても仕方がない。
その駅では彼らの存在を見た人間は誰一人として乗り込んでこなかった。
三人と七人を乗せた鉄の異空間はあらゆる人間を拒む。見るからに不審な黒ずくめの一団を見てしまえば女性はおろか男性すら同乗など御免だろう。
しかしチェロケースを抱えた少女、三上流以は、その場から動くことはなかった。ただ単純にチェロそのものが重いため、面倒で動こうとは思えなかったというだけ。
何か事を起こそうというのならわざわざ電車内など選ばない。車列の最後尾である女性専用車両には車掌が乗り合わせている。残念ながらその車掌は乗務員室から七人を苦虫を噛みつぶしたような顔で睨んでいるだけで、恐ろしくて注意する気にならないのだろう。下手に関わって運行に支障が出ることを気にしているようでもある。
流以以外にも二人ほど乗り合わせてはいるのだが、二人は友人らしく七人からは離れた位置でそれとなく様子を窺っている。
流以は自らの横着に酷く後悔を覚えていた。
国会議員暗殺の日、彼女は本当にチェロをメンテナンスに出していた。出したのは彼女の仕事が始まる前、指定時間までの間に一人手に提げて持ち込んだ。
一度も会ったこともない、見たこともない父親が残したというチェロをなんとなしに始めて、それを唯一の繋がりだと思って続けている。その繋がりも人から言われたからそうなのだろうという惰性で続けてきただけであり、彼女自身楽しいから続けているとか、意味がある行為だと思っているわけでもない。
この惰性を続けているのには単純に続けるように言われたからだ。母親の存在である。
彼女は自分の母親を当然の様に生みの親はないと理解している。容姿は似ているところはないし、食べ物の好みも違う。それでも育ての親である彼女に感謝しているし、生き方や考え方に多分に影響を与えて貰った存在としては尊敬している。
それでもあれやこれやと増やされた習い事を「仕事」を理由に止めたとしても、チェロを止めることは許されなかった。強く抵抗すれば止めることも叶ったかもしれないが、なんとなしに続けて来たのは流以自身である。
その横着とも、惰性とも言える自身の行いに、酷く後悔を覚えていた。
それほど自分では執着していないと思っているチェロを、さも大事な物を守るように抱えているのは無意識の「自衛」である事を自覚せぬままその視線に脅威を感じた。
誰かが見ている。
女性として、三上流以はそれなりに視線を感じる能力はあると自負している。特に男性から受ける視線のそれには敏感である。だがその時受けた視線は、確かに男性から受けた視線だったが、その類の物とは違うような感覚を覚えた。
視線を探すまでもない。遠巻きにいる女性二人は互いに話していてこちらになど興味はないだろう。問題は件の七人組の方だった。
見られている事は分かる。それが不思議といやらしい視線でないことが良く解り、その視線の主は唯一サングラスをしていない銀縁の眼鏡を掛けた白髪交じりの男だった。
流以を見る男の視線はそれこそ本当に不思議な物だった。見てはいけないモノを見たような反応をしたかと思えば、どこか遠い物を見るような目をする。そしてなんとなく、流以はその男の事を不愉快に感じた。正確には嫌悪に近い。
じっとこちらを見る男はどうにも『おじさん臭い』のだ。
家族構成は母娘二人の生活で男性の加齢臭とは縁遠く、学校まで徒歩で通える少女は満員の電車などあまり経験が無く、更に学校の先生もほとんどが女性である。会社にいる男性も火薬の臭いや工業用油の臭い、焦げた埃の臭いと、それぞれが独特の臭いで加齢臭など感じるだけの余裕がない。
男性特有の『加齢臭』とはあまり縁が無かった。だが、ここにきて何故か車内のエアコンの追い風を受けた『おじさん臭』という、流以にはどうしようもない見えぬ敵に悩まされる事になった。
その臭いを意識し始めると、とたんに逃げ出したい衝動に駆られるが、残念なことに次の駅まで十分ほどある。それに逃げ出したいもなにも、次の駅で彼女は降りるのだから、ここで不用意にこの男性の集団から遠ざかるなどと言うことをすれば、絶対に少女の方が怪しい。次の駅で降りるのだから、入り口近くのこの席は或る意味で都合は良いが、逃げるには不都合すぎる。
何故か女性専用車両でおっさんの加齢臭に悩まされるという、おそらく希に見るキチョウな体験をしてしまった哀れこの上ない少女。そして、貴重な体験は偶然を許さないらしい。
「それは、チェロかな」
「えっ―― は、はい……」
流以の頭の中を覗けば、おそらく『喋りかけないで、近寄らないでおじさんっ!』という思い以外存在しないだろう。一応、彼女は人より自分の表面を取り繕うのは上手いつもりでいる。だがこの男の前では、どうにも心中が顔面によって吐露されるらしい。
「……」
「……」
男は少女の心中を察したのか、それとも表情を見て芳しくないと男に判断させたのか、それ以後男は語りかける事もなく、少女から少し離れた位置に移動した。それに追従してサングラスを掛けた六人も移動する。
女性専用として鉄道会社に用意された車両に居ること自体が異様である。夕暮れに利用客が増えた為に他の車両に乗り込んでも似たような扱いを受けたろう。そもそも扱いに不自由しないなら他の車両に乗り合わせる事が最も合理的である。それをしなかったと言うことは彼らが一般車両に乗れない理由があるのだろう。
三上流以は彼らの素性など分からないが、特殊な職種である事は承知している。彼らの目的や行動事由は分からないが、三上流以、自身がその対象ではない事を彼らが離れることによって証明したのだからこの期を逃す手はない。
規則正しいリズムで振動を乗り合わせる人間に伝え、開放までの時を刻む。
西から差す夕の光が、鈍の鉄色を鼈甲色に染める空間。陰るのは手摺りに、人の足下だけ。移動して離れた男達を横目に、抱きかかえるようにしていたケースを提げて立つ。
彼女の降りるべき駅は次。
残り数分の同乗だが、彼らに背を向けて扉を真っ向に捉える。扉の窓には見慣れた風景が流れていて、見慣れない自分が映っている。他人に対してあまり嫌悪感を持つことは無かった自分だが、どうにも彼らには彼女自身が思っているよりも嫌悪を抱いているらしく酷い顔をした自分が窓に映っていた。
外面を取り繕うだけの精神的余裕がない。顔を合わせないように窓を向くしかなかった。
見慣れた風景が近づくにつれ、徐々に風景が遅く流れて行く。遅くなり始めた次の間にはいつもと代わり映えのないホームが流以の眼前に差し出される。普段と変わらない場所に安堵感を覚え、普段と変わらない扉の開く音がする。本来ならば代わり映えのない世界に、異質な人間の存在は世界を途端に異界に変える。
扉が開ききった所でその場から逃げるように飛び出した少女の背に、思いがけない声が届いた。
「牧瀬によろしく」
「えっ……」
言葉を掛けたのは間違いなく先ほど話しかけてきた白髪頭の男である。
発車の警告音が響き渡り、次には流動する。
そしてホームには、少女の疑問符だけ置き去りにされた。
「どうして」
眉根を寄せて、困惑顔でそれを受取った。正確には押しつけられた。
それを押しつけた男は同じように困り顔で、更に男は問いに対して諦めたように笑いながら答える。
「大切な物ほど、傍にあるのが辛いんだ」
言わんとしていることを理解できるだけの余裕はなかった。親から継いだ楽器店のカウンターで、中学校からの同級生が半分笑いながら、もう半分は泣きそうな顔をしながら大切にしてきた楽器ケースを押しつけてきた。
他でもなく、その男にチェロを見繕ったのは彼自身だった。楽器店の店名には我が家の苗字たる牧瀬の姓が入っていて、ケースの底面にも細く小さな金字で牧瀬楽器店と銘が打たれている。
楽器店の息子というだけで「楽器が出来るんだろう」などと勝手に思い込まれ、そう上手くもないトランペットなどを吹かされたのは中学校二年だった。肩すかしを食らったように笑い会う友人達の中に一人、ソイツは真剣に下手くそなトランペットを聞いて拍手した男が居たのだ。
一人だけ輪から浮き上がってきた気泡のような男に理由を聞くと、それこそ笑いがこみ上げた。
『オレも母親がピアニストだけど、全くピアノなんて弾けない』
楽器店の息子なのだから、何か一つ楽器でも出来れば世間体が良いだろうと、子供のない頭で考えた末に騒音と曲の中間音を奏でられる様になった彼には信じられない思いだった。
蛙の子は蛙。
世間ではどう使われる言葉だろうか。悪いことをした親を持てば、やはり子供も悪い事をするのだと見られるのだろうか。それとも偉大な業績を成した親を持てば、やはりいつしかその子供も大成するのだろうか。
だが彼はそんなモノは気にも留めず、あっけらかんと言い切った。
『親と同じ事がしたいと思うのは、親の仕事が尊敬に値するからだよ。確かに母親がピアニストで、母親は色んな人から尊敬されているのかもしれないけど、オレからすればただの口うるさいかーちゃんだからな』
尊敬に値する仕事とは何だろうか。他人の目を気にして生きてきた子供の自分を、その時初めて俯瞰から己を見られた気がした。
彼とよく遊ぶようになってから唐突に「ピアノ以外の楽器もやってみたい」などと言い出して、実家の楽器店で遊び半分に、二人で手当たり次第に試してみた。
色々試してみて結局彼はどの楽器もテキトウに異音を轟かせては飽きて放り出す。端から見ればただの飽き性ではないのかと思えるのだが、彼の行いを見ればそういった無責任な行いとは違うようにも思えた。
手に取る楽器は店先の商品である事は承知しているし、もちろん手荒に扱うこともない。それなのに子供のように構っては、他に目移りするように止めてしまう。
一つ所に留まることもせず、飄々と流れて行く。
彼の在り方にどこか危うさを覚えてしまう。どこかに留め置かなければ知らぬ間に消えて行く人間のような気がしたのだ。
なるべく重しはかさばる方が良く、それでいて持って歩くのに過度に邪魔にならぬ方がよい。そして彼が持っていて様になるようなモノが良いのだろう。
その時目に付いたのはチェロだった。一度彼はチェロを手にとって黒板消しから掻きならす異音のような、甲高い音を出してすぐに手放したのだが何を思ったのかその時、自分が勧めたのがそれだった。
高い三十万もするチェロを彼は即金で買った。金持ちを鼻に掛けるようなヤツではなかったのだが、どうにも金銭感覚は常人のそれとは違うらしい。それは甘やかされて育てられたと言うこととも違い、ただの無関心が生んだ放任の末に得た常識からの乖離だった。
親が与えるべき愛情は金額に比例するとでも思っているような家庭に生まれ、彼はそれを不満にも思わず、なんなら彼は親へ興味のない人間だった。
それ以来、チェロを家で一人弾いて居るようであり、たまに楽器店に持ち込んで父に弾き方を教わったりする。彼は単なる飽き性なだけであり、一つを始めたのならそれは逆に惰性として続ける。
下らない話に、下手くそなトランペットとこれまた下手くそなチェロ。苦笑いで父がそれをカウンターから聴いていた。
自分には娘がいる。目に入れても痛くないとは例えでも何でもなく、その目に彼女を捉えて離したくはないという親心の真実であるように、大切なモノは常に身の回りにあることで幸福であると実感できる。
目の前で踵を返した男はそれを辛いと言う。
過去に在った時間を幸福だと言い、その幸福をそばに置くことが辛いという。古めかしいボロボロになった床に、見慣れない革製のブーツが行く。カウンターから立ち上がって声を掛ける。だがソイツはその声に立ち止まることなく、自動で開く扉など一瞬の間を与えるに過ぎず、店から去っていった。
止めるべきだったと、出て行ってから後悔する。
彼はもう、店に来ることはないとその時、確信してしまった。
走って追いかけるべきだったか。チェロを押しつけるように返してきた事に怒るべきだったのか。もっと深く事情を尋ねるべきだったのか。
しがらみを得た今、彼を追うだけの力はない。その男は既に自分たちとは立場が違うのだ。得たモノを零さずに歩いていけるような身分に無い事も既に知っていて、それがカウンターに座り、動けぬ自分とは隔絶された世界の人間だと身を持って証明する。
自動の扉が開き、入退店を告げる電子音が鳴る。
「そのチェロ、私に頂けないかしら」
それだけ言うと提示されたのは彼女の身分証明だった。