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猫地球R33GTR〈第三部〉  作者: 北川エイジ
1/1

[光る南十字星]

第三部はエンタメ寄りになっています。




     3


あたしは会議室で殺伐とした空気に包まれ、しかしそれにのまれまいと自分を強く持った。一時間ほど前の午前十時、雑用係をやるべくあたしが遅い出勤を果たすと目の前で人が動き回り何やらオフィスには只事ならない空気が流れていた。そこへ勢いよく近づいてきたゴーレム武藤から「会議をひらくから用意を手伝え、でお前も加われ」と命じられわけもわからず他の社員と一緒に会議室へ行くことになった。何ごとか? 桜田さんもいたので訊いてみると写真週刊誌エクストリームからラベルダ所属未成年タレントの飲酒現場写真を掲載するとの連絡がありそれを受けて緊急対策会議がひらかれるのだそうだ。むろん当該タレントも呼び出されている。つまり会議の中身は実質、事情聴取が主になる。桜田さんもその名前は知らされていないようだった。週刊誌がターゲットにしたということは人気があることを意味していて嫌な予感しかしない。未成年ということは…考えたくはないが確率から言えばアイドル系だ。数もさることながら罠にもはめられやすい傾向がある──もうすぐ会議が始まる。会議室にあたしを含めて九人が揃い奥の議長席にゴーレムが位置する。あたしは末席に座り、もうじき現れるタレントの姿を待ち受けた。ここは裁きの場になる…あたし自身も他人事ではない。経験しておいて無駄ではないだろう。

静まり返る室内に担当マネージャーと共に入ってきたタレントはビオレッタ香田だった。普段着なのかレッスン着なのかだぼっとしたジャージを着ている。歳は十八だったはずだ。あたしが注目していたアイドルのひとりである。〈ラブギャラクティカ〉という五人グループに所属する、グループ内で二番目か三番目に人気のあるコだ。二人とも憔悴した表情でうつむいている。担当マネのカンセラット伊藤は社員イチのイケメン猫人間である。この場では彼も非難を受ける立場にいる。二人を立たせたまま、ゴーレム武藤の詰問が始まった。

「男と交際しているのは事実か?」ビオレッタは動じることなく返答した。「はい」

そういう話か。飲酒だけではないのだ。

「写真は他に撮られてないか?」

「盗撮なら…可能性がなくはないです。彼のマンションの入り口とかなら…」

「飲酒だけなら取り繕うことも可能なんだがな。今回のはだめだ。当面の問題は交際だ。別れろ」

「できません。私は…引退します」

カンセラットが隣で口をはさんだ。

「これまでの貢献は評価されてる。今なら何とかなる」

「今を失うわけにはいかないんです。私自身の」

「なんだそりゃ、私自身てお前タレントだろ」とゴーレム。

「こうなったらしょうがないです。責任とって辞めます。メンバーにこれ以上迷惑かけたくないし会社にも」

重苦しい沈黙が流れるなか、あたしの顔を皆がちらりちらりと見始める。何か言ってほしいらしい。が、あたしは黙っていた。彼女はあたしの見解では、仮に今回のスキャンダルがなくてもアイドル卒業後の展望が見えないタレントだった。でも今はステージの上に立てばかなりのレベルにある、輝きを放つ魅力的なアイドルである──もう過去のものかもしれないが。単体での活動も多く女優業も脇役だが時折入りバラエティでの対応も不満ない。歌とダンスも水準をクリアしている。しごくまともなコだ。でも引退の意志を止める気にはならない。彼女は強力な武器を持っていない。

ゴーレムが言った。

「島崎から何かあれば」

嫌々ながらもあたしは言葉を絞り出した。

「考える時間をあげたらどうでしょうか。引退という言葉を出されたら何も言うことがない」

それを受けてゴーレムは静かに述べた。

「いや引退なんて言葉は許せんね。契約解除、解雇が本筋だ」

当のビオレッタは淡々としていた。あたしの総合的な見地からすれば引退には至らないケースであるように思う。現実には妥協案が模索されグループ傘下の事務所に移籍、というところか。あたしはアンドロメダくんが不在なのが気になっていた。すると、ビオレッタがつかつかとテーブルの端にいるあたしの前に歩いてくる。まさかと思ったが彼女はあたしを見つめて言った。初対面であるのにまるで古い知り合いのような感じで。

「ショーコさん言いたいことがあるんなら今ここで言ってください!」

「ええ?」

彼女はひと筋涙をこぼした。言いたいことったって…困るわ。

「なぜ恋愛がだめなんですか」

仕方がなかった。逃げのコメントはあたしのポリシーにない。

「…容認されるケースもある。芸能活動にプラスとなる場合なら。それ以外はだめね」「なぜ」「裏切りになるから。ファンと業界全体にね」「プラスの場合って何」「そうね…そのスキャンダルが芸能史の一部になるくらい強烈なものなら或いは。長いスパンで見ればOKかも」「そんなこと考えて恋愛するわけないじゃない」「そうよだから恋愛自体を批判したりしないわ。いまの立場を捨てるほどの本気の恋愛だったってあなたが思うんならそれを誇りにして生きていきなさいよ」

沈黙と静寂があたし達を包んだ。彼女の目からぼろぼろと涙がこぼれていく。しかしあたしを睨んだままに、彼女は何かをこらえるように小さく体を震わせた。あたしはつづけてこう言いたかった。《あたしにはわかりますよ。本気度から言えば仕事の方があなたにとってずっと上でしょ? 仕事以外に、誇りなんか賭けれないでしょ?》と。あたしは短いながらも見てきたのだ、ビオレッタ香田を。彼女は言葉を失っていた。引退するということはプライドを賭けてきた仕事の場を失う、ということである。魂の脱け殻になったようなビオレッタは涙をぬぐうこともせずあたしを見つめ、あたしではなく脳が見せる彼女の心象風景、たぶんレッスンやコンサートの血と汗がにじむ苦闘のなかの輝かしい日々を見ている。

「色恋はやめてからすればいいだけ。簡単な話だ」ゴーレムはそう言って処分に関する話に切り替えた。正式な処分、結論は藤堂さんが戻ってきてから検討。この場での処分として彼女には自宅謹慎が言い渡された。桜田さんにビオレッタの帰宅に付き添う任が与えられ桜田さんとビオレッタの二人が会議室を出てゆく。

ため息とも吐息ともとれる皆の声ならぬ声が室内に満ちた。

あたしに向かい「アンドロメダは藤堂さんと本社に行ってる」とゴーレムが教えてくれた。

椅子に座りテーブルに腕をついてうつむいているカンセラットが、あたしの方を見ずにこうこぼした。「説得してくれるものと思ってました」ゴーレムが露骨に顔をしかめる。あたしはこんなことを口に出したくはなかった。でも出てしまった。止まらなかった。

「あたしに期待してたの?個人の意見を言わせて貰えば彼女は打ち止めです。これ以上の変化…望める変化はママさんタレントくらい。でもそれだって本人が全力で活路を見いだせばって話です」

彼もまた涙ぐんでいた。無念はわかるがあたしにぶつけられても困る。会議が終わり沈んだ空気のなか皆が部屋を出ていく。カンセラットを残してあたしが一番最後に部屋を出た。給湯室に行って水を飲み、一息つくと今度はうがいをしてシンクに吐く。いろいろな過去の嫌なことが甦ってきそうになり切り替えモードにメンタルをコントロールする。あたしは何もかも下手くそ!だからってそれがどうした!あたしにはあたしができることしかできない!

あたしはほうきとちり取りを持ってベランダに行き、小さなごみや枯れ葉を片づける。ベランダからは低いビルや同じように低いマンションが点在する風景が見える。空の色は薄く、たなびく雲までがレースのようで、悲しい風景に見えてしまう。ため息しか体の奥から出すものがない。

──たとえばジーン森崎ほどのタレント性があるなら止めたのだ。自然体で生き抜いていき、その都度、何の気なしに細やかな成長を見せていくジーンほどの背負う何かがあるのなら。存在そのものにエンタメが宿っているのなら。ジーンにはタレントとしての成長過程といい女になっていく成長過程という二つが混じり合うマーブル模様の深い魅力が備わっていて、ただタレント活動するだけでもそれが〈ジーン森崎物語〉というリアルタイムのドキュメント映画の様相を呈すのだ。

あるフィクションを成立させるためにアイドルの概念は世の中に存在している。それは「人間は成長する」というフィクションだ。現実には人間は成長なんかしない。それでもあたし達は夢を見たい。成長し、変わる、変わっていける、という夢を。

あたしとしてはそのような人類の夢を背負おうとはまったく思わないが。背負えないし。


四日後、正式な処分が降りた。三ヶ月の謹慎後SRプラムという系列事務所への移籍が決まった。左遷である。交際に関しては男の方から今後一切の関係を断ち切る旨の文書がラベルダに届き、これはガイナス斎藤名義で了承された。


ボスが病欠で出勤しなくなりひと月が過ぎた。もう誰もボスの不在を話題にすることもなくなり、今の状況を誰もがふつうに感じている。あたしはあたしで会社に頻繁に出入りするうちにすっかり社員のような心持ちでいた──厳密には個人事業主なので誤った感覚である。今日もオフィスで手伝いをしているあたし。時々(あたしタレントなのになぁ)と思い出しては、いやいやこれも仕事、と自分に言い聞かせている。そんななか藤堂さんから携帯に電話がかかってきた。内線でもいいのにどうしたのか。

「頼みがあるんだけど。いいかげん斎藤と連絡つかなくて困ってるのよ。もう我慢ならないわ、社長しかわからないことがけっこうあって大変。あなた社長の様子見てきて。どうせ仮病なんだから、とにかく出勤しろと伝えて。何ならケツを蹴ってもいいから」

「わかりました」蹴れる機会があれば蹴ります。たぶんあたしにこういう役が回ってくるだろうなあ、とは思っていた。もうこの会社のシステムは藤堂さん中心で動いている。彼女の仕事の内容も社内というよりは本社との連携に忙殺されている状況である。社内についてはアンドロメダくんが忙殺されるポジションに置かれている。藤堂さん直属の部下のような立場にあり今ではゴーレムがチーフマネージャーの働きを担うようになっていた。ラベルダはマネージャーの定義を曖昧にしてある会社なのでこうしたことは実に柔軟である。

まずはボスに連絡を入れてみた。向こうからかかってくることもないので話すのは久しぶりだ。というか繋がるのか?

「はい。なんだ?」お、出た。

「お体大丈夫ですか」

「ええ?体壊したことになってるのか?」「病欠と聞かされておりまして」「有給休暇。生まれて初めての有休だよ。ああ、何か言われたかスカーレットに」「困っておいでです。出勤して貰いたいと」「…ここに来るか?手が空いてるマネに言ってそいつとくればいい」周囲を見回すとシュトロくんが目に入った。彼に頼むとするか。「では今からお伺いします」「ああ」


丘のようななだらかな坂道を上がっていき、木々に囲まれた領域に出る。長い壁がつづく道路は暗く、方向感覚がなくなる。壁には苔がむし、辺り全体が湿っぽい。シュトロくんがクラウンを停め、ここですよと後部座席のあたしに告げる。「運転手なので待ってます。長くなるようなら連絡ください」それは大きな邸宅だった。しかも手前に大きなガレージがある。門の端にあるチャイムを押すとかなりの時間をおいて家政婦さんが出てきた。案内してくれるそうだ。門から玄関までが長いし家政婦さんも初老のため足取りが遅く、あたしにはこの時間が物凄く長く感じられた──と、玄関が開けられると右側にズーマーが置かれてあった。ピカピカのズーマー。グリーンで…シートが黒緑の二色ということはデラックスである。タイヤはさすがに埃がついているがおそらく新車をそのままキープしてあると見た。ナイスチョイスだよガイナス。ノーマルなのにすでにカスタム車のよう。

家政婦さんに連れられていくあたしには違和感しかなかった。静まり返った室内は冷え冷えとしており、内装は高級感があれども寂しい雰囲気に満ちている。生活の匂いがしないのだ。通された広い応接間は物で雑然としている。無駄に様々な種類の椅子があり、豪奢なタンスや本棚、グラスと酒の瓶が満載の食器棚などが壁際に寄せられ中央に意匠控えめなテーブルセットが置かれてある。倉庫とまではいかないが倉庫のような使い方である。

視点があちこちに散らばる中ようやく定まると、驚かされたのはお社の存在だ。部屋の一番奥に祭壇と言えばよいのか前の扉がひらかれた巨大な社があった。幅が二メートル弱あり高さも一・五メートルはありそうである。木材と金色の金具で構成されたその立派なお社は、質感がただものではなく伝統工芸品レベルだった。あたしが近寄って細部を凝視していると、遠い背後からボスの声が響いた。

「セットで作ったのを置き場がないから持ってきたんだ」「へー」「昔はラベルダ主導で映画製作してたんだよ。その頃ははぶりがよかった」「独りで住んでるんですか?」「奥さん出てったのよ。家政婦がいるから困らん」「これってモデルはモンテルス教のお社ですか?」

「まあスポンサーのひとつだったからな。モデルというか同じ業者に作って貰ったのよこれ。サイズと使ってる木材が違うだけでほぼ本物だよ」

だからよく出来てるのか。あたしはいい機会なので以前から疑問だったことを尋ねた。

「あのボス、モンテルス教の片仮名のカミというのは多神教って理解でいいんですか?」

「まあ…半分はな。絶対神もいるにはいるんだ」

「絶対神?」

ボスはホワイトボードを奥からごろごろと持ってきて、無言のままにマーカーで何やら書き込み始めた。

星マーク…いわゆる五芒星。その下に横棒を引き…さらにその下に星よりは小さな丸を横に七つ並べた。その丸の下に点をいくつかまばらに書いた。てんてんてん、と。

「それは…?」

おずおずとあたしが訊く。

「要するにこの星がGOD。絶対神。丸が片仮名のカミ。点が人間。つまり星は宇宙で、丸と点は地上の存在で直接の繋がりがあるが…星は全体をくるんでるようなイメージかな」

丸の列を指差す。

「…このカミというのがさまざまで、単体だったり集合体だったり人間だったり…動物、半獣神、正体不明の知的生命体…善いカミわるいカミ…犠牲を強いるカミ犠牲を求めないカミ…沈黙するカミ問いに応えるカミ…とまあ星の数ほどの人智を超える存在がこの世には息づいているんだ。たいていは人間の目には見えん」

へえ…。これがモン教の概念なのか。八百万の神、みたい。

「日本の神道との関連はどうです?」「共通するのは、霊の集合体という概念かな。モンテルス教にもあるんだ。敬虔な信者はアフターワールドで集合体たるカミと一体化する、とね」

「神道もそうなんですか」

「そうだとは言い切れん。おそらく神道では善悪や位の差なしに一体化がなされるはずだ…私の解釈ではな。わかりやすい例を言えばもののけ姫のデイダラボッチを思い浮かべればいい。あれは動物の霊の集合体」「はいはい」「同時に主人公二人の未来も暗示しているね」「というと?」「サンは亡くなると取り込まれて一体化するがアシタカはそうではない。彼の本心では生まれた村に帰りたいがそれもできない。アシタカは動物の集合神と共生しつつ、動物界と生まれた村とのはざまにある人間界で暮らし、人間界の末端で死んでゆく運命にある。だがこの新たな呪いによってオッコトヌシよりかけられた呪いは浄化される。人間は自然との因縁から逃れることはできないしそれでいい…みたいな感じかな」「へー」「たぶんこの浄化というやつを綿密に取り上げている点が“地上波放送の度に成長していってる映画”という不思議な特性を生み出しているように思うね」「猫の姿で観たわけですね」「ああ」「SFですね」「SFじゃないだろ」「センスオブワンダーてネットにありましたが」「何か違う気がするぞ」

「でも二回行ってるんですよね?なぜ二回なんですか?」

「要するに結果を出せなかったから再トライ。ラベルダにも元調査員は何人かいてな、アンドロメダとかは一回でクリアしてる」

「へー!…ボスは何に失敗したんですか?」

「レポート。一定期間調査したあとに提出するレポートの出来次第なんだ。政府機関が資料として保存認定すればOK。任務クリアだ」

「どういうレポートだったんです?」

「どうって…話すの大変だよ」

「簡単にでいいです」

気になるではないか。

「八○年代の時は…まず驚いたのが愛国心という言葉がネガティブなイメージを持っていたってことだ。これをテーマに書いてみたんだがいま振り返れば取り上げ方の甘さがあったように思うね。内実はもっと深刻だった」

「評価されなかったわけですね。九○年代は?」

「軍事アレルギーについて。これは大きく言って二つあるわけだ。自然発生のものと意図をもって構築してきたものと。その辺の構造を踏まえてタブーになった背景と日本人独特のメンタリティを絡めて書いた。たとえば言葉の使い方にしても君らは実にセンシティブで“特攻隊”となると感傷的な意味合いになってOKな一方で、“特攻作戦”となると軍事的な意味合いになるから忌避する…といったような」

「ああなるほど自己犠牲の精神や特攻隊の歴史が戦後の日本を支えたってよく言いますもんね。確かに作戦とはあんまり聞きませんね」

「このレポートでようやく政府機関に評価され、そのつてで私はとあるフィクサーの運転手になることができた…私の芸能界入りはそこが始まりだったんだ」「アルフォンスグループの会長ですね」うなずくボス。

「九○年代のメインカルチャーもだめでしたか?」「いやそんなことはない。バナナヨシモトはその分野で大きな仕事を果たした感があるし何と言ってもモリタカがある意味メインカルチャーを背負って、正確にはMステとのタッグで大きな仕事を果たした。メインはここである種のリベンジを果たすんだ。公共事業にまつわる人々の心的外傷を、瞬間であれクリアしてみせたのさ。現実には無理でも文化の面でクリアするという、求められていた理想を形にしてみせたのが彼女だった。むろんこれはサウンドスタッフ、番組製作スタッフらの集合体という意味でだ。…思えばボブ・ディランがノーベル賞を獲ったとき真っ先に頭に浮かんだのがモリタカだった。この原理でいけば彼女も獲れるんじゃないか?と。でも世界的な仕事ではないから無理かと」「何て歌ですか」「曲名は忘れたがじつに明るい曲なんだよなアップテンポの。国家的トラウマをじつに明るく歌い上げるわけだ彼女は。で総合的に肯定してみせる。そしてな。歌声が。歌詞が。ビジュアルが。音楽番組という舞台が。リアルタイムという状況が。これらが総合されると、視聴者からすると期せずしてカウンターになっていたわけだ。サブカルへの敗北に対するカウンターであり、だんまりを決め込む他のメインカルチャーへのカウンターでもある…つまり彼女は結果的に“ロック”であることも証明してみせたんだ」

「へー。司会のイメージ、元アイドルのイメージしかないです」

「けっこう偉人なのよモリタカは。まあ君らのような若い世代の感覚からすればこういうのは単なるセンチメンタリズムなのかもしれないが」「経済効果でしか物事の価値判断ができませんからねえ…でも現実でクリアが難しいものを文化面でクリアしようとする試み…というのはわかりますよ。社会的機能ってことでしょ」

「そうだ。…あれ?君何しに来たんだっけ?」「ボスに呼ばれて」「ああ、スカーレットの使いだろ?」「はい。社長にしかわからないことが多くあり困っているので出勤して貰いたいと」「ああそう…」これは動かないと見た。事情は知らぬがボスは藤堂さんの言いなりになる気がないのだ。「…ところで玄関にズーマーがありましたが、あれどうされたんですか?」「非合法ではないよ。原付については規制が緩いんで公道使用をしない約束で輸入許可を得た。エイプにしろズーマーにしろ…古い人間からするとあれは奇跡のバイクでね。無理して手に入れたんだ」「そうだったんですか」「ガレージにはクルマがある。見たければ鍵持ってくるが」「あ、ほんとですか?ぜひ!」気になっていたのだ。ただならぬ雰囲気が立ち込めていてあんな大きなガレージなら三台くらいは入りそうである。ボスは車種を口にすることなくシャッターのリモコンキーをあたしに渡し、部屋を出てどこかに消えた。勝手に見てこいということか。あたしは応接間を出て玄関に戻り靴を履きガレージに向かった。


芝生を踏み踏みガレージの前に行きリモコンをオン。シャッターは最初にズズッと音がして重い動き出しだったものの、そこからは滑らかに上がってゆく。

シャッターが上がるとそこには一台の車しか停まっていなかった。右側に広くスペースが空いていて左に一台だけ。それはピカピカの、白い33Rだった。Rの赤い文字が輝いている。そしてヘッドライトがあたしを見つめている。Rの眼差しがあたしに向けられていた。厳しい眼差しだった。意志があり、でも人間のそれではない。

機械の意志だ。無言で語りかけてくる機械の言葉は脳に直接送られてくる。あたしは怖れた。立ち去りたかった。しかしコンクリの床に足を固定され、全身が何かに縛られていた。GTR、──何?

──お前、走り屋だろ。

──そうよ。

──なら走るんだ。

──いろいろとああなってこうなって、とにかくやることが沢山あるのよ。

頭のなかで声が大きく響いた。

《お前は走り屋のはずだ》

血の気が引いていたあたしはさらに冷たいものを浴びせかけられた気がした。

忘れていたのだ。そのことは。

頭の隅にはあっても意図的にそこは否定し、うずいても無視してきた。否定し忌避し、ブラックボックスに入れておいた。なぜなら今を失いたくなかったから。ここでの人間関係は血が通い、意味があり、確かな感触がある。でも向こうは意味を探すことに命がけだ。向こうではただ生きていくだけで消耗し疲弊し──

声があたしを呼び戻した。

「あの、」──え?

家政婦さんが左横にいて「お茶が入りましたよ」とあたしに言った。ああ、すいません、はいはいとあたしは急いで答え、リモコンのスイッチを押しシャッターを降ろした。そのときはRに何ら不可思議なところはなく、ヘッドライトが鈍い輝きを見せるだけであった。R33GTR、あたしにとってはまぎれもなくこの世界での“カミ”として彼はあたしに相対した。…相対してくれたのだ。彼はあたしの魂や運命を見透かしていた。自分ではどうにもならない渦から、ある意味引きずり出してくれた。こう言ってくれているのだと思う。お前は向こうの世界を適合するに値しない世界だと心の奥底で思っているがそうではない。そんなことはどうでもよい。与えられた役割を果たすかどうかがすべてだ、と。

──そうですか。

俺は見ているぞ、と。

──そうなのですね?

あたしは満足していた。いえ満足しなければなりません。どこかで満足し新たな一歩を踏み出さなくてはならない。


茶菓子とお茶があたしを待っていた。ボスと共に。通されたリビングは大きな台所と繋がっているような造りで、ここは整然としている場所だった。部屋の広さとは不釣り合いな小さなテーブルにあたし達はつき、お茶を飲んだ。出されていた菓子はクッキーとクッキーの間にチョコを挟んだ洋菓子でこれはチョコのクオリティがむやみに高い。

「なんでまたRなんですか?」

察するに相当な費用と手間がかかっているはずである。

「なぜって…なぜかな? 理由まで考えたことはなかったな…。…あえて言えばレースカーでもないのに、走りに特化したクルマだからだよ。そうしたクルマは他にもあるが、その中でいちばん好きなルックスなんだ。手に入れるのは大変だった。政府に申請して認可が下りるのに三年だ。公道で走らないことを条件に出しても納得しないのよ。結局、エンジン抜きならOKってことでようやく話がまとまった。そこは悲しい側面だが、まあしかし、あのクルマはたとえ不動車であっても存在するだけで価値がある…君も一瞬で目を奪われただろ?まさにそれさ」

「…確かに」

ルックスだけじゃなく、あなたのRは喋るんですよ~。

「他に二台あったんだけどそれはこないだ売ったんだ。でもRは別だ」


半分冗談なのだがどうしても訊いてみたくてあたしは決意し、ボスにこう問うた。

「考えたんですけどたばこを何とか輸入できませんかね? たとえばジャンク品のバイクのタンクの中に入れたりして。修理目的なら書類通りそうじゃないですか」

「密輸?ばれるよそんなレベルじゃ。複雑な構造の骨董品とかなら…まあ何とかなりそうなもんだが、量が入らないだろ。てかお前未成年だろ。何言ってんだ」


クラウンに戻るとシュトロハイムはよだれを垂らして眠っていた。後部座席に乗り込むと彼は目を覚まし「どうでした?」と尋ねてくる。「どうもこうも出勤するつもりはないようよ。事務所に戻って」「わかりました」車が発進するとあたしは安堵の息をついた。ボスはボスのままであり回復を果たしていた。あれでいいのだボスは。安堵すると同時に、しかしあたしの頭のなかは混乱していた、カオスになっていた。どんどん過去の記憶が頭の奥から体の奥から溢れ出てきていた。それはあたしの周囲を埋め尽くし、記憶の池に溺れるようにして今のあたしは死を迎えようとしている。ショーコ島崎が過去の存在になろうとしている。

「おっ、原付暴走族が来たぞ」

強く甦ってくるのは直樹ではない。自動車工場で働く直樹の同僚のおじさんだった。あたしは直樹の忘れ物を届けに行ったことが何度もあるのだ。

「走り屋って言って貰えますか」とスクーターに乗ったあたしはその時そう答えていた。

カブに乗り換えてから行った時には「あれ、カブ吉に変えたのか」と驚いて、あたしからその呼び方はやめてくださいと忠告を受けたそのおじさんはその後もずっとカブ吉と呼んでいた。忘れていたことも甦ってくる。兄が亡くなってから家の中は荒れていた。些細なことでいがみ合う両親。度々母は家を出るのでその度にぐちゃっとしたままになる台所。何も期待されていないあたし。あたしは世界も自分も憎んでいた。それが変わるきっかけをくれたのは兄の友人だった滝川徹だ。河原でぷらぷらしていたあたしの元に原付スクーターで現れた彼はあたしにそのスクーターを貸してくれたのだった。「乗りなよ」と。あたしはノーヘルで生まれて初めてバイクに乗り興奮した。こんな乗り物だったのかと感銘し兄のことを思い浮かべる。そんなあたしに滝川が言った。「お前の兄貴にはわるいことをしたと思っててな…。俺は大事なことを教えてやれなかった」「大事なこと?」「バイクに乗ってるときは、周りは全員敵ってこと。…教えてりゃ死んだりはしてないんじゃないかって」

「うーん…、どうかな、うちの兄貴のことだから聞き流してたんじゃないかな。そういうのって経験しないとわかんないんじゃないかな」「まあそうなんだけど、悔いは残るわな」

じゃ、と言って彼は河原を去っていき、あたしは自転車に乗った帰り道で彼の言葉を胸のうちで反芻した。〈周りは全員敵〉そんな世界だったなんて知らなかった。知らなくてもよい世界ではある、でもあたしは惹かれたのだ、どうしようもなくそんな世界に。

──車は事務所ビルに到着し、あたしはまっすぐ最上階まで行き藤堂さんに報告した。出勤するよう促したのですが社長は休暇と思っているようで反応はありませんでしたと。「体調はどんな感じだった?」「最後に会った時よりずっと元気そうでした」「ま…っ、だろうと思った。わかったわご苦労さま」一礼して部屋を退出したあたしは早退することを事務員に告げたあと素早く事務所ビルを出る。早く気持ちの整理をしたかったのだ。頭の中はごちゃごちゃと乱れ、胸の中はざわざわと落ち着かない。近くの大きな喫茶店に入ったあたしはいちばん奥の席に向かい深々と体を黒々とした豪奢なソファーに沈める。コーヒーだけ注文し、それが届けられると結界を張るようにして自分のビジョンに集中した。視界にはうごめく人の姿が映っていても心はトリップしていた。二台目の愛車をカブに決めた日に。


あたしはそのカブを見下ろし、凝視していた。いつも無愛想な店主が近くにいたのであたしは尋ねてみる。

「候補なんですけど状態どうですか?」店のおやじは驚いた顔をしていた。意外だったようだ。

「てっきり次もスクーターかと思っとったよ」「よくバイク乗りはカブに始まりカブで終わるって言うじゃないですか。経験しとこうかと思いまして」

おやじは浮かない顔をしていた。ツナギの腰の辺りを両手でさすり、そして腰に手をあてる。

「あまりお勧めじゃない?」

「いやこれ知った客のバイクでね。完調のカブなんでどうかなと」「何がよくないんです?」「んー、ガソリン代が高くつくだろうし」「燃費いいって聞きますけど」「燃費はいいさ。でも余計に走ればそれだけガソリン代がかかる。結果的にオイル代もかさむ」「? 余計って何です?」「例えば買い物に行くとして、行きは普通の調子で、帰りが別のバイクになったような尋常じゃない走りになれば真っ直ぐには家に帰りづらくなる。降りる勇気がいる。普通はそこから余計に走ってしまう。走るだけ危険性も余計にかさむ」「調子が変わるってことですか?」「まあな。それを知ると好調さを得ようとしてさらに走る。いつもかつも出てくるもんじゃない。前の所有者はバイクに命を乗せて走るバイク野郎だったからそれで何も問題なかったけどね。あんたはそうではないだろう」「ネットで調べて来てますから…おっしゃってることもある程度は理解できますよ。麻薬のようなトルクが出ると」「知ってるんなら、止めはしないね。わかって走る分には」

あたしがそのあと知ったのは、この時の店主がそれでもかなり控えめに言っていた、ということだった。噂の猛烈なトルクが出たとき、勇気どころかあたしは降りることができなかったのだ。降りることを考えられなかった。恐くなるほどの車体を震わすトルク、そしてこの状態を失うことに対する恐怖。

あたしはカブの声を聞いた。

その時あたしはあまりの猛々しい振動に心配になったのだ。これ、壊れるんじゃないかなあ!?と。エンジンが爆発しそうに感じたのだ。

──走ってくれ。大事に思うのなら走るために走り、俺を酷使してくれ。そのために俺は生まれたのだ。

「! なんか言った? カブ!」

返事はなく、でもあたしは生まれて初めて機械の声を聞いた。恐ろしくもあり嬉しくもあり──

走ってくれ?

わかったわよ、走らいでか!


……走るために走る。

あたしは喫茶店の奥で窓の外を眺めながらひっそりと泣いていた。忘れていたのだ。あたし自身の意志で。

こちらに来て七ヶ月が過ぎた。ラベルダとの契約、専属契約期間は半年から一年という幅を設けた契約になっておりあたしはこの契約を履行している。スケジュール調整が必要なのですぐ辞めるというわけにはいかないが帰還に問題はないはずだった。帰還の意志を固めると、あたしは店を出て、店舗脇の通路からアンドロメダくんに電話をかけた。今後の対応を相談するためである。


「もしもし、突然でごめんなさい。そろそろ元の世界への帰還を考えようかと…」

「ちょっとその話はあとで」

アンドロメダくんが不自然に言葉を切り、別の誰かが携帯に出た。「どうも島崎翔子さん。次元パトロール隊所属の小山田という者です。ちょうどいいので社長室に来て貰えますか?」け、警察である。「…わかりました」ああ…見つかってしまったのだ。なんてタイミング。あたしはまるっきり不法移民、不法労働者ではないか。

急いで事務所ビルに戻り社長室へ赴くと四人が部屋で待ち受けていた。藤堂さん、アンドロメダくん、スーツを着た男、紺色の制服姿の男。制服で先ほどの電話の相手、小山田はわかる。あたしはここへ来る過程で覚悟を決めていた。あたしはどこかへ連れて行かれて尋問を受けるのだろう。その制服男小山田氏が口をひらいた。

「まず言っておかなければならないのは、本日をもってあなたは政府に公認されています。厳密には非合法の存在なのですがね」

「はあ…」

助かった…そうなのか。一方のスーツ姿の眼鏡をかけた細身の猫人間はどこか異質だ。彼が自己紹介した。

「モンテルス教渉外担当の道明寺です。簡単な経緯を言いますと我々が政府に働きかけてあなたの存在を認めさせたわけです」

「はあ…」

「ですから何も心配することなくここで活動できますよ」

そうですか。それはありがたいような…そうでもないような。

「…それを伝えるために来られたのですか?」

この問いには藤堂さんが答えた。

「私が呼んだのよ。厄介な事態になったんでまずはあなたの件をクリアにしとこうと思って。ずっとこの世界にいるわけではない存在ですからね。

──厄介な事態というのは、あなたが帰ったあとガイナス斎藤が逃亡したんです。監視下に置かれていたのですが、私があなたを送ったので何かを感じたんでしょうね。いま監視のネットワークを逃れてどこかに向かってる」

え…?どういうこと?

「なぜ逃亡なんて」

「それを調べてるとこ。本社の人間が家宅捜査に向かったわ。ま、それは本社の問題。実はね…モンテルス教の方はあなたにこちらの世界にいて貰いたいようなのよ。あなたは一年経てば帰るつもりでしょ?」

「いえ実は…その帰還の時期についての相談を藤堂さんに明日しようと思ってたんです。よその世界の人間があんまり長く居るのはよくありませんから、去るなら早い方がいいのではないかと…」

「あらそうなの? そっか…私の想像よりずっと早かったわね」

「せっかく芸能活動が軌道に乗ってきているのに、もったいないですよ」と道明寺氏。

「もったいないのはやまやまです。が彼女はラベルダとの契約期間をクリアしています。彼女側の責任は果たされているわけです。あとは会社の責任で帰還させなければならない。──というわけで次元パトロールの方も呼んでいます。帰還計画をもとにこちらのスケジュール…彼女のスケジュールを組みますから」あたしの方に顔を向けて彼女は言った。「召喚は非公認でも帰還は公認で、というわけ」

再び道明寺氏に向かう藤堂さん。

「道明寺さん、意見があればどうぞ」

「警察を直接に招く、という手法は意外でした。我々は帰還も我々の手で行うつもりでいましたから。…島崎さんには一応、名刺を渡しておきます。我々はあなたを本部に招待する意志がある。気が向いたらぜひお越しください」

「あの、あの質問ですが、なぜあたしにこの世界にいてほしいんでしょうか?」

「それは私の口から申し上げることはできません。然るべき立場にある人間にしかお答えできない質問です」

彼は微笑みを浮かべながらそう言い、あたしに名刺を渡すと部屋を出ていく。扉が閉まり、ややあって小山田氏が言った。

「何が目的なんでしょうな」

「さてね。斎藤の目論みと…合致する部分があるんでしょうよ」

なんだか機械の部品になったような気分だった。あたしの知らぬところであたしに関する重大な事柄が決められていっている。…ネガな思考を切り替えて別のことを考えよう。帰還の道筋が見えたことを。そうか。帰りは次元パトが送ってくれるのか。ならば安心だ。根拠はよくわからないがとにかくは。

「では、チーフと小山田さんで話を擦り合わせて。結論だけあとで私に伝えて」

あたしは芸能界からフェードアウトしなくてはならないのだ。誰にも損害が出ないようにして。帰りたいからといって今すぐってわけにはいかない。

あたしを含めた三人が社長室を出たあと廊下を通り抜けエレベーター前に来ると、小山田氏が強い調子でアンドロメダくんに言い放った。

「お前はわかってるんじゃないのか?なぜ言わないんだ?」

「確かなことじゃありません」

モンテルス教の目的のことか。二人は旧知の間柄のようである。

エレベーターが来てあたし達は乗り込んでゆく。

「ショーコさんはお帰りください。帰還の日はたぶん早くて二週間くらい先になります」

そうアンドロメダくんが言って、二人は四階で先に降りていく。

…二週間先か。おそらく代役を立てればということなのだと思う。それでもすでに決まっている仕事はできるだけこなさなくてはならない。…ボスは今どうしてるんだろう。逃亡の理由が知りたかった。でも本当に興味があるわけではない。今は何となく推察できるから。ボスはグループの会長に不義理を働いていて、そのことがもうじき明らかになると踏んだのだ。逃亡の準備がための休暇だったはずである。この推察は大きくは外れていないと思う。ボスのたたずまいには生き抜いていく固い決意や活力とともに諦念、諦観も薄く漂っていた。──ストップ。ボスの心配ができる立場にあるか? あたしはいっぱいいっぱいでとにかく早くベッドに入り込み、ただひたすら眠りたかった。今日という日は。


シュナイザー道明寺と記された名刺を眺めながら、あたしは招待の理由、相手が意図するところを考える。といっても家で皿にのせたポップコーンを箸を使ってついばみつつ、である。そばにはレモンティーが置かれてあってこの組み合わせがあたしは好きだった。今日は昼から出勤であと二時間くらいで家を出る予定でいる。携帯にアンドロメダくんからのメールが先ほど届けられ、内容は今後の大まかなスケジュール表だった。そこからはあたしというタレントの真実がかいま見える。代えが利かないのは雑誌取材くらいでほぼ代役ですませられるということだ。テレビ出演が一つだけありこれが最後の仕事となる。ただ周りには最後というのは伝えてはならず、胸に隠しての収録になる。かりそめの存在であることは最初からわかっていることとは言え申し訳ない思いが先に立つ。これも一種の裏切りなのだ。新人ゆえに我慢して貰えたところ、業界全体で育てて貰ったところが多々ある。まああたしが消えて誰が困るというわけでもないのだが。誰かが新たに出てくるだけで。

…モンテルス教、あたしに何の用だろう? どうやら関わりがあるらしいアンドロメダくんに探りを入れてみるか。気配からくる情報を読めばラベルダ、AG本社、モン教──このトライアングルの中心に彼は位置している。ボス、ガイナス斎藤が消えた今、彼がキーパーソンになっているのは確かだ。


あたしは出勤する前に仲のよい事務員に連絡を入れてアンドロメダくんの動向をチェックして貰っていた。彼女は自分のネットワークを用いて目標の動きを把握し携帯にメールを送ってくれた。〈目標は席を立ち現在移動中。昼食と思われる〉とある。こちらは〈かたじけない〉と返信。いつもとは異なるアプローチをあたしは試みる。

一階のカフェの隣に食堂があるので行ってみると果たして彼は奥の方の席にひとり座っていた。他に人はおらず、パスタを食す彼はすぐにあたしに気づき、どうやら自分が行動をマークされていることにも感づいたようである。あたしは彼の真向かいの席に勢いよくどかっと座り、両肘をテーブルについて述べた。

「さて問題です。モンテルスはなんであたしにいて貰いたいのでしょうか?」

とくに反応はない。彼が頼んでいたのは春キャベツとベーコンのパスタで大変にうまそうである。

「知りませんよ。…招待されてるんですから行って確かめればいいじゃないですか」

「政府に口出しできる機関でしょ、怖いじゃない」「じゃ行かなきゃいいんですよ」「どっち!」「ショーコさんが決めることです」「判断材料となる情報がほしいです」「ええ?買いかぶりというものですそれは」

教えるつもりはないようだ。小芝居を入れてみた。

「やれやれ、皆知らぬ存ぜぬだもんな~」

「何を知りたいんでしたっけ」

「だからなあんでモンテルスはあたしを帰したくないの?」

「やれやれ」彼は小さくそう言い、パスタをくるくるっとフォークに巻きつけて口に運んだ。それからもぐもぐと食べたあと、ひと息ついてから言った。

「聞く相手を間違えてますよ」


大事なことは彼が本部への訪問を“止めなかった”ことだ。

行ってもよし、と解釈していいのだろうか。そもそもの疑問として“なぜあたしだったのか。なぜあたしを選んだのか”というのがある。そこはボスも関わってはいない部分だろうし知ろうとするならモンテルス教に乗り込むしかない。今さら知ってどうするという事柄でもある。帰れるのなら藪をつつく必要はないのではないか。でももし、残って貰いたいという相手の求めに、あたしを納得させるだけの、引き留めるだけの理由があるとしたら──明確に提示されたとしたら。そう考えると重大な機会である気がしてくる。単純にあたしが意志を変えなければいいだけの話なのだが。未練があるということだろう、ここでの生活に。しかし断ち切ったはずだ。あたしは日本人なのだ。猫地球の猫人間ではない。


タレント・ショーコ島崎にとって最後の仕事、最後のテレビ番組収録の日を迎えた。桜田さんはあたしがもうじき“居なくなること”自体は知らされているため微妙な顔をしている。関係者には箝口令が敷かれてあるので何も言わないのだが、あたしに問い詰めたい感情はありありと伝わってくる。ごめんなさい。でもこうするしかないのだ。

番組は午後十一時から一時間枠のバラエティである。収録は予定通り午後一時に開始。レギュラーの芸人さん四人とゲストという組み合わせでトークが進んでいく。今回は演者も含めた番組スタッフが注目するタレントという企画での参加だった。あたしを含め五人が呼ばれている。若手ピン芸人、CMモデル、若手俳優、若手女優、そしてあたしだ。中堅コメディアンのMCから出されたお題は最近のマイブーム。ジム通い、チキンサラダ、プロテイン、高級食パンといった読んですぐわかる回答がつづくなか、あたしの立てたフリップには〈たし蟹〉と書かれてある。「んん?説明してくれる?」とMC。あたしは雄弁に語った。「メールのやり取りで、ショーコちゃん〈確かに〉が口癖だけどメールでもよく使うよね?って来たから、あっここだって思ってこの〈たし蟹〉を送信したんです。そしたら事務員のカナちゃんが大ウケして」「いやカナちゃんは知りませんけどね!」

これはネットスラングである。発音が同じなこと、字づらの面白さがある。加えて面白さは漢字にもあって、確かに分解される海の虫と解釈できるし、虫が小動物の意味だなどということを知らなくても何んとなく面白く、まるでもともとあった言葉のようにも感じる親しみやすさがある。確かにこの単語を目にするとき、デフォルメされた赤い蟹の絵が脳裏に浮かぶのだ。でしょ?

──MCも笑い、客席の観覧者達にも小さな笑いが起こったので野球で言うならポテンヒットくらいの出来ではなかろうか。これはこれで一つの結果である。

ともかくネット民としてのプライドを賭けた回答がある程度のリアクションを得たことは喜ばしいことだった。次元を越えてつながる面白さがこのワードにはある。


無事に収録を終え、無事に桜田さんとの関係もスムーズに保ち、無事に寮であるマンションにも着いた。今日という日は実に充実した日だった。そのことに満足しながら、また感謝しながらあたしはシャワーを浴びる。もうこういう日はないのだ。芸能のお仕事も。そのあとに浴びるシャワーも。もう二度と。

部屋着&寝巻きのジャージに着替えてからあたしはベッドに座ったり寝転がったりしながら行方不明となっているボスのことを考えた。ボスのことだから潜伏先をいくつか用意していたのではないかと思う。案外長生きするタイプだあの人物は。深刻な事態であるはずなのに体感上は不思議と深刻な感じはしない。まあ、てきとうな物言いだが巫女の感覚から云っても、ボスを思い浮かべるとなぜか明るいものを得るのだ。陽の光のような温もりを。幸あれという天からの福音を。


早朝の五時に目が覚めて、あたしはそのあまりの鮮やかな目覚め、覚醒すべく覚醒したかのようなスッキリ感に怖くなった。こういったことは子供の頃以来ではないかと思う。基本的にあたしの寝起きはわるいのだ。不安になり携帯をチェック。何もない。テレビをつけるがつけたからってどうなるものでもない。はて? あたしはしばしぼけっとしたあと、とにかく第一の懸案となっているモンテルス教本部への訪問について結論を出そうと考えた。冷蔵庫にミネラルウォーターを取りにいき、ソファーにごろっとしグビッと飲む。行きたいか行きたくないか、で言えば行きたくはなく、行くべきかそうではないか、で言えば行くべきだとなぜか思う。…結論はあとで出すことにしてあたしは眠ることにした。眠っている間に考えが深まることがある。その脳が行うたまたまに任せようと思う。


九時に起きたとき結論が出ていた。いいぞあたし脳。十時半に自宅を出て事務所ビルに赴く。

モンテルス教本部への訪問を決めたあたしは一応藤堂さんに話を通しておこうと社長室に行った。もしかしたらボスに関する新たな情報も得られるかもしれないという期待も胸に秘めて。しかしあたしが扉を開けたとき、ちょうどそのとき藤堂さんへ本社から呼び出しの電話がかかって来ていた。秘書のようなポジションにいるアンドロメダくんは連れていかず一人で部屋を出ていく藤堂さん。急いでいるようすだったので一言も声をかけることができなかった。彼女は本社直属の人間である。二足のわらじを履かされたような現在の勤務はたいへんだろうなと心配になる。

扉が閉まるとアンドロメダくんが椅子から立ち上がり、窓際に移動して外を眺めた。そしてつぶやく。

「来月のアタマあたり、いよいよ藤堂さんに正式な辞令が出るようです。社長職の」

ああ…そうなのか。そうなるか。

「ボスのことは何か掴んだの?」彼は他言無用ですよ、と最初に告げてからあたしに向き直り、しかし視線を床に落としてつづけた。

「おおよその全容は見えてきてます。…隠し口座が見つかりました。ラベルダは苦境の現在、アルフォンスグループから赤字の補填、違約金の肩代わり、上納金の免除といった救済策を受けているわけですが、この状況で私財を貯め込んでいるのが明らかになったのです。本社には自腹を切って従業員の給料を払っていると述べていたそうですからこれでは話が違います。横領ですよこれでは。会長も役員連中も怒り心頭です、ボスはたいへんにまずい状況にありますね。…といって我々には何もできることがない」

「どう…なるの?」

「都市部に潜んでいるのなら、まだ警察の範疇にあるので本部としても手荒なことはやりにくい」

「都市部じゃなかったら…?」

「逃亡先が森や山岳地帯であればフリーハンドですから、たぶん…RKが派遣されますね…」「RK?」「レイシストキラー。特殊部隊のコードネームです。本部が契約している民間軍事会社の担当部隊が送られます」

「ええ…」

「というかそこもアルフォンスグループなんですけどね。実は。で、モンテルス教は顧客でもあるんです。そういう意味合いの繋がりがあるので、べつにショーコさんが向こうを怖れる必要はないんですよ」

そうなの?

「反政府組織のターゲットにされてますから警察だけでは心許ないものです。警察だって時には内密に協力を求めてきます」

「驚きだわ」

「何事も協力体制が重要ですよ。いざという時どうするんです?」アンドロメダくんは窓際からテーブルセットに向かい、ソファーに腰を下ろすとフリスク的なもの(商品名はザクソンである)を取り出してこう言ったのだった。

「今日からは漢字の島崎翔子ですね」と。

「そうなるわね」

「私はあなたがモンテルスに説得され、ここに残るなんてことは100%あり得ないと思ってます」

「言い切るわね」

あたしだってそう思ってる。

「だから今は大抵のことは教えることができる。明日はわかりません。私にも辞令が下りるかもしれない」「え?…どんな?」「んー、本社と言えばいいのか…まあそういう話は前々からあって断っていたのですが、どうも雲行きがあやしくて。いろんな部署で再編成が行われる予定なので」

大抵のことは教えることができる…彼はそう言った。ならば。あたしには二つ訊きたいことがあった。一つは胸の奥というか頭の奥にずっとある疑問。もう一つは調査員時代に彼が書いたレポートの内容だ。調査員としての任務を一度でクリアしたというその内容である。

「二つ…質問があるのよ。あたしはずっと前からアンドロメダくんを知っている気がして…勘違いだとは思うんだけど気になってる」「それはだめですね。大きな機密に関わる話ですから」

あ、関わりがあるんだ。やはり。「じゃあ調査員の時のレポートは?」「ああそれか…もしかしてボス情報?」「うん」

「大した内容じゃないですよ」

「じゃあいいじゃない」

ザクソンのケースから手のひらの上に二粒落とすと彼はそれを口に運びガリゴリと小さな音を立てて噛み込む。あたしはじっと彼が話し始めるのを待った。かなりの時間経過のあとようやくアンドロメダくんは口をひらいた。

「あれはね、その時点での現在だけでなく過去を踏まえて書かないとだめなんです。何度も生まれ変わってきた国ですから、そこを踏まえないと有効とはならない。…皆知ってるのはGHQによる改革でこれは重要には違いないですが、私はGHQが去った後の官僚機構による改革の方がより重要と見たんですよ。官僚が自分達に都合のいい社会を作り上げるべく行った改革です。そこでの主軸は従順な国民を作り上げるための教育です。主張をするな。この世に個人はない。全体に従え。これらの概念を幼少期より叩き込むわけです。時代によって中身が変わりはすれども官僚主権国家の形をこれでずっと維持してきた。…その辺をベースにあれこれと書いてまとめたものを提出したわけです」「何とも残酷なレポートね」「そうは思いません。私が赴いたとき向こうはすでにネット社会でした。何でもかんでもアメリカを黒幕とする陰謀論、あなた方自身の皇帝を貶める言説…こういうのに比べればずいぶんまともで思いやりに溢れたものだと思いますよ」「まあそれは」「そうした極論の底流に教育がある。国家について教えてこなかった歴史の産物です」あたしに反論はなかった。「あなたは今、自分にそう言われても困る、と思ったはず。その感覚こそ教育の産物です」あたしなりにできうる反論をしてはみた。「そうじゃなくてその辺に関する感覚のスイッチを切って生きてかないとメンタルがもたないのよね」「適合が最優先?」「いえ空気のようなもので、つまり吸い込み取り入れないと…ってレベルなの」「それで平気なんですか?それのどこが民主主義なんです?」「胸を張って日本式の民主主義って言うわよ。そりゃここの人は侮蔑するでしょうけどあたし達はその辺の欠陥については犠牲と捉える。当然あるべき犠牲だと。たとえばこうも考えられるのよ。あたしは順応性が恐ろしく低いけどそれでもこの世界にあっという間に馴染めたのは、やっぱり微々たるものであれ、それなりに教育のシステムによって順応性を鍛え上げられた…トレーニングを受けてきたからだ…とね。その順応性からすると、全然正常なのよね。こっちは。戸惑うことはあってもやっていける。向こうだとこれはムリというのが沢山ある」

「はは、そこはショーコさんらしいですね」

「…だから選ばれたのかな?と。モンテルスに」

「それを確かめに?」

「少なくとも理由は知っておくべきなのかな…と、今…そう思ったの」「教えてくれますかね」

「行かないと知り得ようがない」「それはそうです。でも引き込むつもりかもしれない」「罠?」「かもです。組織ですから。組織の意志としてあなたを招いてる。想定されることはネガティブな事柄ばかりです。狙いが政治利用ということもありえる」

「洗脳とマインドコントロールが待ってるのかな」

「しかし仮にそれが待ち受けていたとして、あなたはそうはならない」

「言い切るわね」

「言い切りますよ。ならばこそ止めはしないわけです」

うん。そうだろう。ならばこそあたしもそこには自信がある。

「あなたは基本的に争い事や闘いが好きなんですね…訪問の件は私から藤堂さんに伝えておきます。まあ藤堂さんはわかってましたけど。行くもの、と信じきってました」

「やっぱり」

あたしは感謝しなくてはならない。誰にかはよくわからないが。この世に生まれてきたことのすべてに。


名刺を貰ってから四日後、招待を受ける旨を道明寺氏に電話で伝えると、明日にでも来てほしいとのことでさしたる予定もないあたしは先方の意向を汲むことにした。迎えの車が午前十時に自宅マンション前に来るそうである。本部までは一時間弱で着くと彼は言っていた。話に聞けば着いてからが長いらしい。藤堂さんによると広大な駐車場の奥に巨大な拝殿があり、本部というのはその更に奥にあるのだと。一般人が立ち入れるのはそこまででその先もあるのだが見せても貰えなかったと不満げに藤堂さんは言っていた。一方、ボス情報としては未確認ながらも都市部に潜伏していることが社内で伝えられている。すぐに信じることはできない。得てしてこうした話は遅く伝わるものだ。アンドロメダくんは一切ボスについて語ることがなくなった。あたしも彼には訊かないようにしている。だんだんと余裕がなくなっていっている感じもある…いつかのように仕事量が増えているのだと思う。だがあたしもまたあたしの闘いが待ち受けていた。人の心配ができる立場にはない。

そんな心持ちで明日を迎えるのだ。あたしは。



    ───



巨大な拝殿の奥にも広大な敷地があり手前の拝殿よりは控えめな大きさの拝殿が立ち並んでいる。そのなかの最も質素な外観、装飾の少ない四階建ての建て物がモンテルス教の本部となっていた。屋根の辺りにお社のような意匠が施されてあるので周囲との違和感はない。しかし内部に入ると外観とは違い役所のような造りでスーツ姿の職員が多いためここが一体どこなのかわからなくなる。道明寺氏に連れられ近代的な意匠のエレベーターで四階へ。すると扉がひらいた途端、巫女の白と赤の衣装が視界に飛び込んできた。すれ違う人のすべてが巫女さんであり、まるで巫女の階であるかのようである。迎えの車の中で道明寺氏に誰が私を待っているのか尋ねると彼は行けばわかりますよと言っていたのだがこういうことか。

道明寺氏に案内され通された部屋もまた特別なものはなく簡素な内装である。巫女装束を纏った三人の女性がいた。あたしを迎えた一人の後方にいる二人は机に向かい書き物をしている。規律と優美さに背筋か伸びる思いがした。

道明寺氏は部屋に入らずここで姿を消す。年齢不詳の巫女さんがまばたきもせずあたしを正面から見つめ言った。

「お待ちしてましたわ、島崎翔子さん。巫女長の白石と申します」はじめまして、招待してくださってとても嬉しいです、と挨拶をすませたあたしは早速問うた。

「…でもまず招待の理由が知りたいです」

奥の執務室らしい部屋に通され二人きりになると彼女は漂う優美さを消し口調を強めた。その切り替えにあたしは慄然とした。

「あなたに用件があるからですよ。私たちとしてはあなたにここに残って貰いたいと思っています。五年くらいを目処に」「なぜです」「協力してほしいのです。私たち巫女はカミに仕える身なのでカミたちを労り癒すことも務めです」「それはそうでしょう」

「一方、カミの立場からすればこちらにせよあちらにせよ人間界を眺めるのは基本的に苦痛でしかない。ですから私たちはその苦痛を和らげるべく、できるだけ人間の善きところ美しいところをお見せするのが仕事なのです」

「はあ、まあわからなくもないです」それきり彼女は沈黙した。そして沈黙を維持した。

──? え?「もしかしてそれがルーシアですか?」

彼女は小さくうなずいた。

「魅力ある美貌ですからね。表面は裏切りません。また、こういう比較は失礼ですがあなたのような表面だけ、とは違い天界の光を届ける美がそこにはある」

「それは…まあ、よくわかります」それこそあたしがルーシア三田に感じていたことであり、ゆえにあたしは突き動かされたのだ。

「あなたは彼女を救いました。同時に私たち巫女も救ったのです。私たちは美を届けることしか許されておりません。守ることができないのです」「政治力を用いて…できませんか」

「戒律によって直接の関与は禁じられています。だから特殊な力を持った“誰か”を私たちは求めていた。彼女が傷つくのは明らかなのに私たちはただ視ていることしかできなかった」

「あなたが召喚された経緯を私は正確には知りませんのでここでは省きますが…あなたの出現は私たちにとってこれ以上ない僥倖だったのです」

「だから私たちはあなたを手放したくない。できればここに残って協力してほしい。他にも危機が待ち受けている者がいて、ルーシアだってこれで安心というわけではありません」

あたし自身は特殊な力など持っていないと思う。今振り返るとあれは人智を越えた何かがあたしを通して力を発揮しただけ…という気がする。操縦ではない。そこにはあたしの意志もあるわけで、つまりは媒体だったと。それにあたしはカミのために頑張ったわけではない。言ってみればあたし自身の天命のためだったはず。

「あの時のエネルギーは…あの時だけ有効だった、とあたしは思ってます」偽らざる実感だった。あたしはつづける。

「それに、これを本職の方に問うのはたいへんにぶしつけで失礼なのはわかっているのですが…お許しください。カミを労り癒す、というのはわかります。尊い仕事です。しかしここのカミたちは何をしてくれるのですか?」

「世界を保ってくれています。…つくづく思うのですがあなた方の言う“何をしてくれる”は勝手ですよね。実利のことでしょ? そういったことは人間側の都合ですよ。それは私たち自身が何とかすべき事柄でカミの領分ではありません」

「そうなんでしょうけど」

あたしたちがまず向き合うのは自分を取り巻く現実ですよ、と言ってやりたかった。がこれは巫女に言う言葉ではない。

「あたしのカミは、どうも違うことを望んでいるようなんです。元の世界に戻って成すべきことを成せ、と云っているんです」

「私も聞きました。ここにいる数多の巫女が聞きました。視えた者もおります」

え…? 視えるのか? 視えていたのか?

「あなたも本質的には巫女の特性を持っていますから、あなたと私たちは繋がってます、重要な瞬間は共有することもある。…それでも残ってほしいと訴えてるわけです」

そうか。はっきりと断る必要があるのだ。

「あたしは戻ります」

「戻る意味あるのかしら」

「あたしは走り屋なの。こっちの世界は好き。とても惹かれるけれど、自分が生まれた世界の方がより好きなのよ」「なぜ」「そもそもでたらめな世界だと思ってるから。十一のとき、担任が自殺したの。保護者グループによる虐めと職員室での虐めで彼女は鬱になり休むのですが自宅にまで精神攻撃はあったようです。鬱は進行し自害へ至りました。経緯は後で知ったことですがまあおおよそは気づいてました誰もが。でも…その人の死も加害者側がぴんぴんしているのもみんなが彼女をすぐ忘れたのも衝撃でしたが…それよりあたしが衝撃だったのは自分でした。自分自身に対して。あたしは彼女に同情できなかったんです。エキセントリックなところがあって周囲に迎合するタイプではなかった。集団の一部になれなかった人です。その死を悲しまない自分が驚きでした。あたしの頭を埋め尽くしたのは悲しみではなく“あたしはこの事態を反面教師にしなくてはならない”という戒めだったんです。そのときあたしはこう思った。この世の中は個人を自殺に追い込む世の中だと。だから対策を考えた。あたしも孤立型。ならば自殺しない理由を積み上げようと。わかりますか。あたしはその最中にあるんです。不毛ではありますが生きるために」

「その積み上げが走るという行為? …その積み上げをやめるわけにはいかないと?」

「気がすむまではね」

あたしは吐き出す意志を持って腹から言いたいことを吐き出した。「あたしにとってこっちはぬるすぎるの。怒りや憎しみや殺意のなかであたしは生きたいのよ」

巫女長は無言であたしを見つめつづけたあと言った。

「あなた人間じゃないわ」

返答に窮した。というのも同じことを母親に言われたことがあるのだ。

「そうかもしれません」

ノックがあり、入るぞという声がすると扉がひらいて男が入ってきた。スーツを着た初老の猫人間。あたしの視界では男の周囲に薄く青紫のオーラが立ち上っている。あたしに近づくにつれそのオーラは増してくる。

「はじめまして島崎翔子。司祭を務めているキルケマーニ道明寺だ。第四司祭という立場にある」

司祭というには神職らしからぬ出で立ちで、あたしは訝る顔をしていたのだろう、彼は説明した。

「儀式のとき以外はふつうの服装なんだよ」「…シュナイザーさんは親族の方?」「親戚だ。…ところで結論は出たようだな。ここからは私の仕事だ」「はあ…」「私はとくに君に残れと言うつもりはない。私が思うのは、とりあえず君には何らかの報奨を与えなくてはならない、ということだ。何がいいかね?」そうですか。あたしは少し考えて言った。

「あたしが選ばれた経緯を知りたいです」「ある意味危険でもあるが、その覚悟があるのなら」「もとよりそのつもりで来てます」「そうか。見せるわけにはいかないが…その領域に入ることは認めよう」「領域?」「奥の院だ。行こう」そこが発端、すべての始まりということか。


それは小振りな拝殿だった。今までと違い人の姿がない。どこにも。外から周囲に監視カメラのようなものがないか探したのだがそれらしき装置を見つけることはできなかった。奥の院というだけあってこの先は森しか見えない。ここに何があると言うんだろう。領域と言われてもなあ── あたしは司祭につづいて拝殿に入っていく。

足を踏み入れた途端、風が体の中を通り抜けていったような気がした。空気が違う。浄化される思いがする。気持ちよくもある。ゆえに警戒もした。警戒せざるを得ない何者かの気配があった。まるでたくさんの腕が延びてきて、掴まれそうで掴まれることはない掌が迫ってくるような気配。つまり、ここはいわゆる神殿なのだ。

しかし目の前にあるのは両開きの扉だけと言ってよかった。木製の壁の中央に扉。気配はそこから来ている。

「ここから先は司祭しか立ち入ることを許されてない」

そう言われなくとも足が前に行かなかった。目に見えぬ壁があるようにあたしの体を弾いている。あたしはただ扉を刮目することしかできない。

「扉の向こうに広い空間があって奥にお社があり、そのお社のなかに鏡がある」

「我々が鏡を信仰している、というのは知っているね?」「はい」「支部が請け負ったガイナス斎藤の願い、人探しの願いは私に届けられ、私はそれを神託にかけた。…聖なる鏡は預言者でもある。何でも答えてくれるわけではないこの鏡が、私の問いに答えて君の姿を映したのだ」

「どう訊いたんですか?」

「鏡よ鏡。どうかラリッサの代わりとなる人物を教えてほしい、と」

そんなシンプルな問いだったのか。

「では…べつにこちらの世界の人物でもよかったわけですか」

「そう。召喚は結果そうなっただけで最初から求めたわけではない」「鏡が選んだから連れてきたと」「その通り」「どうやって」

「召喚師と結界師という専門職があってね。その特殊能力によって次元移動が可能になる。これは国から業務を請け負ってる我々の事業のひとつでもある。君のケースがどうだったかを言えば、あのホテルに二人が赴いて、部屋にまず結界を張り、召喚の儀式を経て、移動サークルから君と君の相棒を引き出すという作業が行われたわけだ」「移動サークル…魔法陣みたいなものですか?」「きらびやかなものではないな。円と六芒星で構成された簡易な図だね。紐で図を描くというのが一般的だ。…一応説明しとくと安全のために結界師が必要なんだ。召喚でどうしても発生する空間のゆらぎ、そのゆらぎを狭い範囲に抑えてできるだけ影響を小さくするために」

「ゆらぎが危険だと」

「触れた物質を歪めてしまう。また大きなゆらぎは次元パトロールに探知されやすい。二つの意味で危険だね」

「たばこはどちらかが持っていったんですかね」

「そういった非合法物は処分するよう決まっている」

「この…あたしの容貌…外観は誰が決めたんでしょう」

「それは知らん。…クリエイトを担当しているのは担当のカミなんだろう」ああそうか。確かに。「私の推測を言うなら、君がアフターワールドに旅立ったときに向こうの門の前で待っているんだと思う。そのカミがね。実はあのとき…と」そいつは楽しみだ。楽しみにしておこう。

ふと気がついて問いを口に出してみる。

「もしかしてあたしの背後に何人かカミがついてます?」

キルケマーニ道明寺は屈託なく笑い、ようやく気がついたか。これで我々の仕事はすべて終了した。とあたしに向かって言った。

──そう言われてもねえ。


形だけでも入り口の大きな拝殿に行って参拝し、訪問を無事に終えて帰路につこうというあたしに、ずっと案内として付いてきていたキルケマーニさんが、別れ際にあたしにだけ聞こえるような小さな声でこう教えてくれた。

「君のようなケースだと記憶が消えることが多い。何かの証しを身に付けておいた方がいい。念のためにな」と。


帰還の日がゆっくりと迫ってきていた。帰還予定日は来週の水曜日。今日は金曜である。今朝方、次元パトロール隊の小山田氏から電話がありバイク屋にカブを受け取りに行くので来るかと訊かれた。どうしても持ち主が必要というわけじゃないが一応声をかけてみたんだ、と。「行きます」「じゃ迎えに行こう」「ちょっと聞いておきたいことがあります。パトロール機って見た目は軍用の輸送機と聞いてるんですけど、帰還の日にはそれで運ぶんですか」「ああ。小さめの方の機体でね。貨物室に君共々入れて。…輸送機といってもVTOL、垂直離着陸機だが」「どこに降ろすんですか?」「君が移動した場所近くの国道を予定している。その時は時間止めてるから、君には急いで端に行って貰う。で我々も移動だ。その後時間が動き出すという手順。何事もなくいければ」「わかりました。待ってますから近くに来たら電話ください」

通話を切るとカブを預けているバイク屋を思い浮かべる。入り口に三台ほど様々な世代のカブが並べてあり一階が工場、二階にビジネスバイクの列という店。従業員に通勤で使われているのなら元気なはずだ。ひとつだけ気になってる点があるのだが、まあ向こうも何も言わないかもしれないしこちらから触れることもないか。

九時半に連絡がきて外で待っていると、道路の向こうからやってくるオリーブグリーンのジープのような車が目に入った。まさかと思ったがそれである。ジープのようなキャビンの後方に荷台が付いている、という懐古趣味的というと失礼だがレトロな外観のトラックだった。運転席が広く楽に三人は座ることができる。来たのは小山田さん一人だった。ナビに導かれるまま藤田モータースに来ると、店側も用意していてあたしのカブが入り口脇に置いてあり、すぐに若い女の従業員が工場から出てきた。こんにちはーと挨拶しながらツナギで手を拭いたあと握手してくださいと言うので手を握る。ああこのコが通勤で使っていたのだとあたしも理解した。

「カリーナ三住と言います、いつもテレビで見てますよ」

細身でしゅっとした顔立ちの、雰囲気に鋭さのあるコだった。

「ありがとうございます。どうですか、あたしのカブの調子は」

そう言うと彼女の顔つきがエンジニアのそれに変わった。

「恐ろしいわねあなたのカブ。価値観がひっくり返ると言うか、久しぶりにすごい体験をさせて貰ったわ。基本的におんぼろばっかここに来るからね」

カリーナは「ところで」と言ってあたしのカブに歩いていき、脇に来るとシートを跳ね上げた。ああ…やはりそこを突っこむか。

「ところでこれ何?」

シート下は燃料タンクになっていてその天面には燃料計がある。この辺は錆びやすいところで、傷隠しか錆び隠しで前の所有者が自作のステッカーを貼っているのだ。白い、十センチほどの帯状のステッカーを。そこには黒マジックでこう書かれてある。

《サツにマークされてこそ真の走り屋》と。

「ああそれ、前の所有者が貼ったのよ」

「ふーん」

小山田さんが何事かとやって来て腰を屈めてそれを読み、読むと笑った。「どういう意味?」と訊いてくる。

「いや文字通りですよ、たぶん」あたしはそう言った。他に何が言えようか。

乾いた空に小鳥の鳴き声が響き、アスファルトの上、カブはじっと走りの刻を待っている。うずうずしているのがわかる。カリーナは黙っているが静かに彼女は驚いていた。あたしに呼応するカブのムードに。


トラックの荷台からアルミの板を下ろして坂道を作りそこからカブを荷台に運んでゆく小山田さんを背に、あたしは店内に入ってレジ場に行き、その周囲に陳列してあるバイクグッズを眺める。何か記念に買っておこうと思ったので。ジャケットやらグローブやらバイクカバーやらがギュッと狭いスペースに置かれてあるがあまり大きいものは荷物になるのでまずい。革のキーホルダーを購入して店の外に戻ると小山田さんはカブをベルトで固定し終わったところだった。あたしは一緒に預けておいたジェットヘルメットを持ち、カリーナにお礼を述べるとトラックに乗り込む。小山田隊員がつづいて運転席につき、ほどなくトラックは動き出した。マンションに着いてあたしを降ろしてからこの車は次元パトロール隊の基地に戻る。彼の話では次元パトは警察組織に属しているものの基地自体は空軍基地と併用の形になっているということで実際の業務は空軍との連携が多いのだと。あたしのカブは整備施設を備えた専用の格納庫に持ち込まれそこで機体に特殊貨物として積まれるとのことだ。

「帰還の日、あたしはどうやって合流すればいいんですか?」

そうあたしは尋ねた。アンドロメダくんから指示があるとは聞いているのだが早く知りたいので。

「未定だね。今日みたいな感じで警察署の屋上か空軍基地に連れていくんじゃないかな。そこで合流ってことだね」

「なんか大ごとですね」

「大ごとだよ。パトロールのスケジュールに合わせたから大した費用になってないけど、これまともに請求したら一千万くらいかるくいってるよ」

「えー…やばいな」

今の話は聞かなかったことにした。


ついにというかようやくというかあたしにその日が訪れた。帰還の水曜日。お別れは前日に済ませておいたのであとは帰るだけだ。アンドロメダくんも藤堂さんも多忙なため短く別れの挨拶をしただけであたしは二人のもとを去った。イベントめいたものは最初に強く断っていたので二人ともやりようがなかったのだ。あたしは風のように去りたかった。早くここでの生活を“過去”として自分のなかで規定したかった。しかし無論ここでの経験を忘れたくはない。マンション下で待っていると道路の向こうからごつい車が見えてくる。オリーブグリーンの外観に、デザインがハマーによく似た車が。軍用については自前で生産していると言うがインスパイアも大概にしろというレベルである。

小山田隊員は笑顔だった。

「一番イイ車で来たんだよ」

そうですねと言っておくあたし。ちなみにうちの近所だとハマーは全然めずらしくない車種で馴染みすらあるんですよ。

ともかくあたしはごつい車に乗せられ行き先である空軍基地に連れられてゆく。まっすぐパトロール機が駐機している格納庫まであたしを運ぶ手はずになっている。あたしの脳裏には誰もいない実家の光景が映っていて、どんな感じなのだろうと想像してみる。向こうでは七ヶ月前のまま時間が進んでいないのだ。以前の生活に戻り、その時間軸に溶け込んでいくあたしはこの世界、猫地球での時間をどう思うのだろう?

一時間は経ったであろう時、視界に空軍基地のゲートが見えてきた。敷地は広大で実に贅沢な使い方をしている。なだらかな丘、大げさにも映る広すぎる車道と広すぎる歩道。建造物は距離をあけて建てられており空いた空間には木々と芝生とその上の青空がどこまでも広がっていた。開放感をあたしは強く得るのだがこれはせせこましい日本社会に生きるゆえかもしれない。ちらと思いがよぎるのだ、これがあるべき正しい生活の風景なのだと。車はだだっ広い道路をまっすぐ進み、いつ着くのだと思っていると建物が集まっている領域を抜け、突然に飛行場に出た。どん、と空が迫ってくるように広大な空間が現れた。車は右に向かいずっとそのまま走っていき格納庫の群を次々に抜けていく。ある場所に来たとき風景がやや変わった。台形の箱をひっくり返したような外観の建築物が見えてきて、あたしにもああここかと感づかせるそれはやはり次元パトロール隊本部であった。その奥に格納庫があり、車がゆっくり近づくと扉がひらかれていく。車が格納庫に入ると扉はすぐに閉じられる。あたしが目にしたのはずんぐりとしたライトグレーの機体三つである。確かにそれは大きさが異なっていた。外観は同じような印象でも大中小とサイズがある。手前に小があり、中、大の順。あたしが乗るのは手前のやつか。みな両翼に見た目ジェットエンジン的な大筒を搭載しており翼の部分は極端に短い。翼ではなくジョイント部分のようである。エンジンは縦になっているため、ぱっと見だと太めの胴体に大きな筒がくっ付けられている印象だ。

──次元移動しかできないのでは?あたしはそう思った。

「一応訊きますけど飛べるんですかね?」「飛べるんだナ、これが。まあ実際に飛行するのは試運転くらいしかないけどな」

「動力とかどうなってるんですかね?」「そら機密だ。あと三○分で出発するからそのつもりで」

はい、と答えてパト機の後ろに回り、あたしが位置すべき貨物室へ向かう。機体のケツに来るとそこからあたしのカブが見えた。丸目のライトがこちらを向いている。貨物室内の両端に座席の列があり、その間、真ん中のところに置かれてあった。とくに固定はなされていないようだ。ヘルメットもミラーにかけてある。揺れないって解釈でいいのかな?

小山田隊員はどこかに行っていたのだが二人の隊員を引き連れて戻ってきた。ヘルメットを被った二人は順にあたしと握手し、よろしくと短く挨拶したあと出発の準備を始める。

「いつも三人か四人で乗るんだよ」と小山田隊員は言い自分もコックピットに入っていく。あたしもとりあえず貨物室へ行きカブに近い席に座り、ウエストポーチの中身をあらためた。運転免許証、電池の切れた携帯電話などと共に筆記用具も用意してきている。しばらくするとコックピットから小山田隊員が貨物室へ移ってきてここのチェックを始める。

「揺れないんですか、ここ」

「多少は揺れるが…多少だよ」

「どれくらいの時間で着くんです?」「着くのは動いたらすぐだね。着いてから確認事項がいくつかあるから…それでも一分くらいで出られるはず」

「そうなんですか」そんなにあっという間なのか。あたしはボールペンを取り出して左腕をまくり、その腕の内側に書き込んでいった。〈ガイナス斎藤 アンドロメダ 猫地球〉と。それをじっと見ていた小山田隊員は咎めるような口調で言った。

「誰がそんな余計なことを教えたんだ?」

「いやよくあるじゃないですか。念のためですよ。へへ」

しかし小山田さんはため息をこぼすようにして肩を落とし、諦めたような表情を見せる。

「まあ…無駄な努力かもしれんよ。記憶が薄れていくのはどうしようもない」

でも、たとえ無駄な抵抗だとしてもあたしは抵抗してみたい。


出発の時が来た。貨物室にはあたしとカブ。機体の動力にスイッチが入りモーター音や電子音が耳に届く。感覚的には電気的な作動しかしていないような感じである。振動もあるがごく微かなもので、時おりうなるような音が鳴ったときに振動がやや増したくらいで、至って快適な乗り心地だ。ヒュウン、とはっきりした音が響いて、機体の振動が限りなく小さくなった。アイドリングのような感じか。天井のスピーカーから小山田隊員の声がした。

「着いたぞ。いま後ろを開ける」作動音が鳴り扉が降りていく。よく知っている風景が見えてくる。右に自動車工場の看板、左にカーディーラーの看板、左奥にガードレールとその向こうの畑。よく知っている道路だ。何度も走ってきた。道路に車はいなかった。あたしはカブを後ろに押していく。出口まで来てシートに跨がるとあたしは彼を待った。コックピット裏の扉がひらいて小山田隊員が顔を出し、あたしに声をかける。「行っていいぞ! 端に寄って車に気をつけな!」

「はい! ありがとうございました!」「ああ!」

あたしはカブと共に機体を降り、カブを国道の左端に寄せる。その間に貨物室の扉が上がってゆく。あたしはカブを降りてパトロール機を見上げる。ヒュイイ、と音が高まり、ブンと空気がうなった。その一瞬で二○メートル近い機体がこの場から消えた。忽然と。そして遠く左方向から対向車線の車が近づいてくる。時間が動き出したのだ。茫然としていると右方向からも車が来ている。こちらは何台か塊で走ってきている。いつもの日常の時間がいつものように流れている。カブのハンドルを右に切り、左のミラーに自分の顔を映してみる。そこに猫はいなかった。元の人間のあたし。黒髪のショートヘアーの十九の女がいた。

……さあ帰還のあとは帰宅。誰もいない我が家へ帰宅。そこから何もかもを始めよう。

さよなら猫地球。猫地球のみんな!



誰もいない家に戻ると玄関の手前、駐車場の入り口付近でカマキリが迎えてくれた。カブの出入りにはまったく影響しない位置に白い路面の上、一匹でぽつんと。灰色と薄茶が混じったような微妙な色の個体だった。緑の個体はちょくちょく庭で見かけるしバイクカバーの上に乗っていることもよくある。それ以外の色のカマキリは久しぶりに目にした。昔は一定数ベージュの個体がいたものなのだが。さて彼(すっきりしたお腹回りを見るに)はじっと動かない。陽を浴び、しばらく見ていると何やら動きが妙だった。両腕のカマがだらしなく開かれて、じっとしたままだ。あたしは寿命だと思った。時期的にも。見るからに弱々しく、やがて体を伏せ始めた。ああ死にゆく瞬間か、と思ったら、彼はほんとに両腕…両カマを広げて突っ伏したのだ。がばっと。意志を持ってコンクリの路面に平べったく突っ伏した。その姿を見てようやく理解した。日光浴である。彼は体温を上げるべく表面積を増やし陽光に精いっぱい体を預けたのだった。ほほう、初めて見た、こういうカマキリの生きざまは。いやまあそれだけの話なのだがちょっと感動的だったのだ、あたしにとっては。何というか、幼少期から同族を食らって生き、獲物を食らって生き、人間に向かってすら体を揺らして威嚇する彼らもまた、必要とあらば陽光を求めるのだ。まるで救いを求めるみたいに。一連の謎の動作は答えを得ると賢さを感じさせるものだった。…はっ、となってあたしは愕然とした。何がかと言うと巫女長や亡くなった母親の言葉が鳴り響いたからだ。カマキリはカマキリとして生きているだけでカマキリである。でも人間はそうではない。あたしは猫地球で、口幅ったいがある程度は新人芸能人としての立場を確立させていた。ではここでは? 確かに走り屋だがそれだけでは人間ではない。頭にくるがそれだけではだめなのだ。お前は人間ではないと二人は云う。社会を無視していては人間ではない、と云っているのだ。ああそうですか、そうでしょうとも。あたしは何者でもない。

カマキリが身を起こしてカマをたたみ、超然とした態度で日光浴をつづける。しゃがんで見つめているあたしは教えを乞う修行僧のようだった。

──確かに何者かにならなくてはならないのだろう、あたしは。カマキリがカマキリであるように。




   † † †




  [エピローグ]




ガイナス斎藤は疲れきっていた。深夜の一時、岩場の影に潜み夜空の下で目を閉じ体力の回復を待つ。生きている以上何かしら奇蹟が起こり蘇生する可能性がある、それを信じる。都市部における暗殺部隊の追跡からはどうにか逃れたものの、彼が逃亡の末にたどり着いたのは標高千メートル級の山々が連なる山岳地帯である。中腹に岩場が多く身を隠すのに向いている。場所を適切に選べば、ここでは昼間であれば先に追っ手を確認することができる。しかし今のような夜は?夜はもしかしたら敵は暗視ゴーグルを用い迫ってくるかもしれない。彼は考えるのをやめた。疲労と冷気で思考がつづかなかった。動かずとも全身がきしみ、少しでも動くと体のどこかに激痛が走り、足は思うように動かない。食糧はとうに尽き、意識は朦朧としてきた。周囲の気温はどんどん低くなっていく。防寒具は用意してきたが基本的に肉体を鍛えていないため彼はあらゆる耐性が低く、とりわけ寒さには弱かった。時刻が三時を回ると内面は別人のように変化し、ある意味別の生命体へと変化していた。全身の感覚が麻痺しまるで岩に生えた苔になったかのように動かない。すでに活動する意志は折れ、運命に抗う意志は朽ち、もはや精神は諦観が支配していた。諦観によって感覚のスイッチを切るしか今この瞬間を生きていく術がない。諦めのその先に光明があると自分に信じ込ませる。彼は目を見開いた。もしかしたら今ならカミの姿が見えるのではないか。

──俺は死ぬのか。死なないのか。どっちだ。カミ。

声はしない。世界は無言だった。──やはり死ぬのか。死しか待ち受けてないのか?

彼は海を見たいと思った。死ぬ前に。星空にサザンクロスが一際輝く。サザンクロス……サザン……サザンオールスターズ……彼は思い出す。輝かしい過去。輝ける記憶。ラベルダ主導で初製作した映画には彼のアイデアで加えた場面があった。黎明の荒野のなか主人公がぼろぼろになって敵モンスターを倒したあと闇からラスボスが現れる。大気を震わせ、悪魔のような黒い翼を広げ舞い降りてくるラスボスは死んだと思っていた父親──先代の王その人だった。これがラストシーンである。主人公は血に濡れた顔で笑む。

『そうか…OK。俺はこの時を待っていた。待ち望んでいた』

この時、奥の黒々とした稜線から朝陽が昇るのだ。バックに『ミス・ブランニュー・デイ』のイントロが流れるなか煌々たる朝陽が昇る。何度も見返したシーンである。彼にとって常に人生を支えてきた曲だった。彼はいつの間にか泣いていた。つたう涙をどうすることもできずにいた。だから星空に問うた。俺は充分にやったのか? 星空から声がした。

《お前はよくやった。よく生きた》

──OK。

星々がきらめき、星々はきらめく。光のシャワーを浴びながらガイナス斎藤は目を閉じた。それきり瞼は閉じられたまま、開かれることはなかった。



翔子が帰還して三日が経過した。異界での記憶は消えなかった。また藤田モータースで購入したキーホルダーの革部分にプリントされた〈FUJITA MOTORS〉のロゴも健在だった。もしかしたら夢の記憶のように忽然と消えてしまうのではないかという心配は杞憂に終わった。といってでは鮮明に覚えているかと言うとそうではない。薄れていっているのは否めない。しかし当然だろう。押し寄せてくる現実を受け入れ、受け止めていくには忘却もまた必要なのだ。それでも翔子は異界での記憶に充足を得ていた。ふと思い返す善き思い出として彼女のなかに息づいている。


今日もまた彼女は相棒のカブで田舎道を走り抜け、相棒と対話をつづける。その先に何を得るのか?何か得られるものがあるのか?と他人は疑問に思う。異界の樽猫はかつて述べた。その乗り物の特性として“社会に価値を与える”と。翔子はことあるごとにこう思うのだった。自分のような種族にとって人生というのは結局のところそれを見つける旅なのだと。今日もまた、彼女は相棒と一体となり世界と一体となっている。


いつものようにコンビニに寄り、この日はボトル缶のブラックコーヒーだけを買って翔子は店を出た。灰色の曇り空でも雨の気配はなく、風もなく、夕刻でも気温は秋らしい穏やかさに満ちている。低い稜線と田畑を望む店舗脇へ歩いていくと、翔子の方に鳴きながら茶トラの猫が近づいてくる。

「どした?」

「ニャー」

猫は足を止め、ややうなだれるようにして頭を下げた。

「なに?」

「ニャー」

「食べ物は買ってないのよ」

「ニャー…」

猫は翔子を通りすぎるとカブのエンジンの前で腰を降ろし毛づくろいを始める。なんだか“同じ仲間”みたい、と彼女は思った。カブと猫が並ぶ姿には両者にどこかしら相通じるものがあり、そんなわけもないのに心楽しくさせるものが漂う。

翔子は頭上を見上げた。空を覆う雲に一箇所、穴があき、奥の雲が眩しく光っている。そこだけ夕陽を受けて黄金色の輝きを地上に放射しているのだ。


ふたたび地上の猫に視線を戻した翔子は近寄っていってしゃがむと小声で猫に語りかけた。

「知ってる? あたしもこないだまで猫だったのよ」








       おしまい



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